卓球レポート2002年5月号掲載インタビュー

3月 23、 24日 に仙 台市 で行 われ た 「第 22回 障害 者卓 球ジ ャパ ンカ ップ 」 の車 いす 使用 者の 部で 、15 連覇 を達 成し た岡 の表 情は 、自 らの 記録 を更 新したという喜びの笑顔よりも、ホ ッとしたという表情をしていた。 それ は今 年2 月に 障害 者卓 球選 手 として日本で初めて企業スポンサー がつき、最初の大会でどうしても負 けら れな いと いう プレ ッシ ャー から あん ど 解き 放さ れた 安堵 感の ため であ った 。 「プ ロに なっ て一 番最 初 大き な大 会 で負けるわけにはいかなくて。だか ら、今回は15連覇だとかそう こ とを 意識 した ので はな くて 、と にか く内容はいいから、是が非でも優勝 したいって思って戦いました」 岡は1964年3月26日に岡山県 で生まれた。1歳の きに、いくら あや して も泣 き やま ない 岡を けげ ん に思った両親が病院に連れて行き、 骨折 が判 明。 しか し、 それ はた だの 骨折 では なか った 。 先天 性骨 形成 不全 症。 それ 骨が 極端 に弱 く、 ちょ っと した こと でも 骨折しや すい 病気 。そ のた め岡 は、 幼少 時か ら足 の骨 折だ けで も30 回以 上繰 り返 し、 車い すの 生活 を余 儀な くさ れた 。 それ でも 小学 2年 生ま では 自分 の 足で歩くことができたので、スポー ツが大好きだった岡は野球をしてい た。しかし、やがて歩くことができ なくなり、大好きな野球も なく な っ て し ま う 。 岡が卓球と出合ったのは、岡山養 護学校中等部2年のときだった。中 学2年くらいから少しずつスポーツ がで きる よう にな り、 車い すで でき るスポーツは一通りや みた。バ スケットボ ル、アーチェリー、陸 上競技、卓球……。もともと球技が 好き で、 複雑 なゲ ーム 性が ある 方が 好きだった岡に卓球はぴったり当て は ま っ た 。 しかし、卓球を始めたといっても 部 活 に 入 っ た わけで はな く、 学校 と寮 に卓 球が でき るス ペー ス あっ たの で、 そ こ で 遊 び と し て や っ て い る程 度で あっ こ。 t 「 今 で こ そ 「車 いす 卓球 』と いう カテ ゴリ ーで プ レーして ますが、始めた当時は健 常者も障害者も関係なくやっていま した。障害者の大きな大会があると いう こと も知 らな かっ たく らい だっ たし、ほん 遊びとしてやっていま したね。卓球は僕の性格に合ってい たか らや って みる こと にし たん です が、健常者と同じルール、同じ用具 でできるということも魅力でした」 養護 学校 高等 部に 進学 した 岡は 、 卓球 部に 入部 し 。 かし 、部 活と して卓球を始めたといっても、イン ターハイ 予選 に出 られ るわ けで もな ― く、 施設 対抗 の試 合が 年に 1、 2回 ― あるくらいで、競技スポーツと う ― より も趣 味の 一環 とし てや って いる ― 感じだった。小さいころからスポー あこ が ツ選手に憧れていた岡にとっては、 もの 足り ない とい うの が正 直な 気持 ち だ っ た 。 それでも岡は大好きな卓球を続け、 高校3年の 秋に初めて大きな大会 「全国障害者スポーツ大 会(秋の国民 体 育 大 会 ― のあ とに 一 開催 され る障 害者 の国体)」 に 出 場 す る こ と に 一 な っ た 。 「 も う す ご く う れ し く て 、 うれしくて。気合を入れて臨んだん で す け ど 、 僕 の イ メ ー ジ と 全 然 違 う 大会だったんです」 当時 、そ の大 会は 1度 出場 した ら 2度 と出 るこ とが でき ない 規則 で、 それは競技力を競う大会というより も、1人でも多くの障害者が大会に 出 ら れ る よ う に 、 と い う 参 加 型 の お もむ きの 強い 大会 であ った 。岡 はこ の趣 旨に 反対 して いる わけ では ない のだ が、 初め ての 全国 大会 出場 とい うこ とで 、ど んな 選手 がい てど れ< らい 強い のか 、自 分は どれ くら い戦 えるのかという気持ちが人一倍強か ったために、現実に直面したときの シ ョ ッ ク が 大 き か っ た 。 会場に行ってみると、車いすの部 で岡の属するカテゴリーの参加は岡 1人 。つ まり 試合 をせ ずに 金メ ダル 。 ただ、これではいけないということ で、 大会 側は 同じ く1 人だ けの エン トリ ーだ っ た違 うカ テゴ リー の車 い すの 選手 と岡 を試 合 させ て、 勝っ て も 負 け て も 両 者 と も 各 カ テ ゴ リ ー の 金メダルとなったのである。 「その当時僕は、車いす卓球のきちん とした全国大会があることを知らな かったので、全国障害者スポーツ大 会での現実を目の当たりにして、障 害者 の人 のス ポー ツは こ んな もん な が く ぜ ん んだなって愕然 ましたね」 高校を卒業した岡は、県内の印副 会社に勤めることになる。社会人ー 年Hというのは日々初めて経験する ことばかり。肉体的にも精神的にも 大変で、岡はラケットをま た<握 らなくなっていた。1年近く卓球か ら遠ざかっていた であったが、あ る日 障害 者の 団体 から 届い たダ イレ クト メー ルが きっ か けで 卓球 を再 開 する こと にな る。 「近くでボーリング大会をやるから参 加し ませ んか っ てい う手 紙が 来た ん です。午後からは卓球の講習会があ りま すっ て書 いて あっ て 。卓 球か あ、 懐か しい なあ って 思っ て、 それ で参 加し たん です 」 午後 から の卓 球の 講習 会は 、岡 山 勤労身体障害者体育センターで行わ れた。岡はそこで久しぶりに卓球を やっ た。 その とき に体 育セ ンタ ーを 母体 にし て練 習し てい る障 害者 の卓 球クラプ「岡山旭卓友会」を知るこ と が で き 、 再 び ラ ケ ッ ト を 握 る こ と にな った 。 そ れ か ら は 仕 事 を 終 え て か ら 週 ー 、 2回 練習 する よう にな り、 車い す卓 球でも競技性の強い全国大会がある こと を知 り、 それ に出 場し た。 「 ジ ャ パ ン カ ッ プ に 出 場 し た ん で す が、初出場ではベスト8止まり。そ のあ と3 年続 けて ベス ト8 で、 5年 目の出場でやっと優勝することがで きて、それから15年連続優勝してい ます。僕は日本一という言葉が好き なので、車いすで卓球をやらせたら 日本で一番になりたいなって思って いたから、優勝できたときはうれし かったですね。ただ、県内に車いす で強い選手がい かったので、練習 は地元の健常者や障害者 も立位 人と やる こと が多 かっ たん で 。「 車 いす の日 本一 』 いう 肩書 には 憧れ ていたんですが、実際にはいつも練 習し る中の勝てない人 勝つこ との方が僕の中では価値があると思 ってやっていましたね。この考え方 が 変 わ っ た の は 、 シ ド ニ ー パ ラ リ ン ピ ッ ク に 出 場 し て 、 そ こ で 負 け て か ら で す 。 車 い す 卓 球 に つ い て 、 そ こ で勝つためには根本から考え直す必 要があると感じたんです」 May 022

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