試作品が出来上がっても、1枚しか作れないのでは製品になりません
『テナジー』というネーミングは、「テンション」と「エナジー」を組み合わせたものだ。
「こういう響きの良いネーミングは、商標登録がなかなか取れないんですよ。例えば『セルビド』のような造語を作らざるを得ません。『テナジー』は売れたから良い名前に感じるというより、響きそのものが良いと思いませんか?」。山崎はラバーへの愛着を込めてそう語る。卓球のラバーにとって、エネルギー効率の向上というのは永遠の課題。「エナジー」という言葉が入ったものを、バタフライの一番良いラバーに付けたいという思いがあった。
『テナジー』の研究開発は、97年の『ブライス』発売より少し前の96年にはすでに着想を得て、基礎研究や設備投資などを始めている。
最初に取り組んだのは、オリジナリティのあるスポンジの開発だった。グッと食い込んでボールをつかみ、はじき出す。後に「スプリング スポンジ」と命名される『テナジー』のスポンジ開発は、社内でも5人ほどしか知らないトップシークレットだった。
「私は04年に研究開発チームに入って、途中から『テナジー』の情報を知りましたが、それまでは全く知りませんでした。2000年頃、まだ編集企画チームにいた時に試作品を打たせてもらいましたが、ただ打っただけで、何を開発しているかは教えてもらえませんでした」(久保)。
『テナジー』は高性能でありながら、「インパクトの許容範囲が広い」とよく言われる。インパクトの弱い初~中級者や、カット主戦型でも性能を引き出すことができる。「スポンジの食い込みがしっかりしていて、はね返す弾力も強いことが最大の理由だと思います」と久保は語る。
『テナジー』の試作品が出来上がったのは2000年頃。開発を始めてから試作品ができるまでに4年余り。ところが、そこから発売されるまでに倍の8年を要している。
「試作品の段階は、山登りで言えばまだ山の麓に着いたようなものですね。実際に山を登るのが量産試作といわれる段階です」と山崎は言う。
「試作品が出来上がってきても、1枚しか作れないのでは製品になりません。1万枚を生産できる量産技術を確立するまでの道のりの方が、はるかに長い。ゴムの配合を変え、試験を重ねながらテストを繰り返す。試作と量産は全く別の技術と言ってもいいくらいです」。
量産化への過程で、最も大きな課題はスポンジの強度だった。例えば生産する過程でスポンジに大きな傷が入ってしまうことがある。また、スポンジを焼く「加硫」の段階で、意図せずに気泡以外の部分に空気が入り、スポンジをスライスした時に大きな穴になる「エア不良」も、ラバーの開発では避けて通れない課題だった。
「『テナジー』のトップシートは、ゴムの配合をスポンジに合わせて少し変えていますが、基本的には『ブライス』や『ブライス ハイスピード』の発展版です。ゴムそのものに大きな変更はなく、ツブ形状の違いがポイントになりました。
やはりスポンジの方が開発期間は長くかかりましたね。04年くらいに量産機を導入してスポンジの量産試作を始めましたが、それまでは小さな金型で何度もテストを繰り返しました」(久保)。
『テナジー』の開発期間は、スピードグルー全盛の時代でもあった。96年の着想の段階で、12年後の08年にスピードグルーが全面禁止になることは、まだ知る由もない。
しかし、『テナジー』も前作の『ブライス』も、「どんな条件下でも最高の性能を発揮すること」がバタフライの一貫した開発コンセプトだった。グルーを使った時と使わない時での性能の違いは検証するが、目指したのはハイテンション技術をさらに進化させ、ノングルーでもラバーの性能をピークに近いレベルまで高めることだった。
40㎜ボールの採用、ノングルー、プラスチックボールなどの用具に関するルール変更は、常に用具のスピードや回転量を抑制する方向に向かう。それでも、最高のスピードやスピンを備えた用具であれば、その優位性は変わらない。もしバタフライがこだわり抜いた性能を追求し続けなければ、『テナジー』はもっと早く開発を終えて発売することもできただろう。しかし、それでは08年9月のラバー後加工の全面禁止によって、他の裏ソフトの中に埋没し、現在の地位はなかったかもしれない。
『テナジー』の発売を直前に控えた08年1月の平成19年度全日本選手権大会。女子では石川佳純、藤沼亜衣といったトップ選手たちが、発売前の『テナジー05』を使っていた。日本は国際大会より1年前倒しでスピードグルーの使用を禁止していたが、補助剤(ブースター)はまだ使うことができた。その中で、特に中国製の粘着性ラバーを使う選手たちが『テナジー』に変えるケースが多かった。
一方で、『テナジー』を選ばない選手もいた。男子シングルスで2連覇を達成した水谷隼(青森山田高3年・当時)だ。
前年度大会でフォア・バックとも『ブライスFX』を使用し、史上最年少の17歳7カ月で優勝した水谷。補助剤使用で臨んだこの大会で、彼が選んだのは『ブライス スピードFX』だった。
後に『テナジー』とともに、全日本選手権大会5連覇、さらに通算8回優勝の偉業に突き進んでいく水谷。彼はなぜ『テナジー』を選択しなかったのか?
【卓球王国 2016年8月号掲載】
■文中敬称略
文=卓球王国
写真=江藤義典