独特な一本差しグリップから放つ「ジェットドライブ」や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで世界を魅了した長谷川信彦。
運動能力が決して優れていたわけではなかったが、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」であった。【前回の記事を読む】
※この記事は月刊卓球レポート2002年7月号を再編したものです
ミスター基本
現役時代の長谷川は「ミスター基本」の異名を取り、また後輩からは「風邪をひいたときに長谷川さんは『ゴホン、ゴホン』とではなく、『キホン、キホン』と咳(せき)をする」と言われるほど、基本を大切にした。素振りはそんな長谷川の、練習の大きな柱の一つだった。現役時代には暇さえあれば、どこでも素振りをしていた。ただラケットを「振る」のではなく、ボールがそこにあるかのように、一振り一振りに集中し、気合を込め、そのボールに向かって「振る」のである。
1971年の4月だった。松崎杯の会場で「辻さん、長谷川の試合前のウオーミングアップと素振りを見ただけで、全日本選手権大会に名古屋へ行った甲斐(かい)がありましたよ」とタマスの辻歓則に興奮気味に話し出したのは、徳島の田村泰(地元出身の選手だけで国体優勝など、高校のトップ選手を多く育てた名指導者)だった。
「体育館裏から、『エイッ、エイッ』と声がするので、その声のする方に行くと、一本差しの長谷川が素振りをしているのです。12月で気温が低かったのですが、額から汗を流しながら『エイッ、エイッ、エイッ』と掛け声を出し、ラケットの空気を切り裂く音が聞こえて来るようなものすごいものでした。そこには人を寄せつけない空間ができていましたね。その素振りの様はラケットと長谷川の肉体が一体となる作業に見えましたよ」と一気に話し、一息入れた後に「長谷川はひとしきり振ると、体育館の周りをランニングし、また素振りをする、といったことを何回も繰り返していましたよ」と興奮さめやらぬように、その時のことを思い出すような顔で話した。
そして「ラケットと一体となって素振りをしている長谷川を見て、試合の競り合いの修羅場で、居合抜きのバックハンドをスパッと決めたり、相手のフォア前のサービスをピシッと払ったり、抜かれたなと思った相手のスマッシュを飛び込みざまにロビングで拾う、長谷川のプレーの秘密がわかりましたね」と、長谷川のロビングのスイングの真似(まね)をややオーバーに、ゆっくりとしながら話した。
引退後でも、その素振りの気迫の凄まじさは衰えなかった。松崎杯で、何度か長谷川と模範試合をした斎藤清は、「試合前に長谷川信彦さんの素振りを見ると、戦う気力が殺(そ)がれるから見ないようにした」と語ったのだ。当時全日本チャンピオンで、しかも全日本選手権大会最多優勝の斎藤でさえ、長谷川の素振りには戦う気力を殺がれたのだ。
また元明治大学監督の渋谷五郎は、学生に素振りを見せてやってほしい、と長谷川にお願いした。翌日「長谷川の素振りを見て、一瞬背筋がピーンとなった。宮本武蔵の剣の素振りもこのようだったのだろうな、とすごく感動しましたね。本物は違うね」と語った。
長谷川の素振りやシャドープレーに関する伝説は数え切れないほどある。
輝かしい記録を持つ長谷川も、その道のりは決して成功続きの卓球人生ではなかった。
「自分の卓球人生は、負ける度に強くなっていった。大きな挫折を味わい、その度に大きくなっていった。とにかく人が好きで、卓球人が好きだった。日本という国も好きだった。愛国心があった。そういう気持ちがあったからこそがんばれた。周りから見たら、人一倍強い精神力を持っているように見えたみたいだけどね。卓球をやっていてよかったと思うのは、相手を尊敬することがいかに大事か、謙虚な気持ちを持つことがどれだけ大事かがわかったことだね」
常に対戦相手を尊敬していたからこそ、18歳という若さで全日本チャンピオンに輝き、20歳にして世界チャンピオンになったのだろう。そして「感謝の気持ち」をとても大切にしてきた。自分を命がけで応援してくれた家族、特に両親には常に感謝の気持ちを感じながら卓球に打ち込んできた。タマスに入社してからは毎月の給料の半分を、手紙を添えて実家に仕送りしていた。
長谷川信彦の誕生
長谷川信彦の父一雄は1932、3年ごろの全日本東西対抗戦の西軍副主将であり、名電工高(現愛工大名電)卓球部の初代監督でもあった。また、母サチは東海4県新人卓球選手権大会で優勝、という輝かしい記録を残している。そんな両親のもと、6男1女の末っ子として1947年、愛知県の瀬戸市に生まれた。
そのころ、長谷川家は戦後のインフレの影響で家計は楽ではなかった。戦争が終わって間もないころで日本全体が貧しく、着るものにも食べるものにも困る時代であった。
父は、瀬戸窯業高校の英語の教師で、夜には名電高校の教師をする、という忙しさであった。また、母も夜遅くまで編み物の内職を続け、家計を支えていた。
そんな中でも、父は1950年愛知国体の一般男子の優勝監督、同年の名電高校全国制覇の監督となった。
地元の卓球大会に両親や兄たちが出たとき、母が試合をする台の横に、赤ん坊の信彦が転がされ、卓球を見ていた姿が、兄弟たちの目には今でも鮮明に焼き付いているという。戦後の大変な時代で、生活に追われながらも長谷川家は家族全員が卓球に熱中していた。両親は学業成績にはうるさいが、卓球をしていれば機嫌が良かった。
信彦が3歳のころ、父は家計の足しにしようと、名電高校の夜間授業がない日に、自宅で塾を開くことにした。このとき、生徒集めのために、2階の8畳2間をぶち抜いて卓球台を置いた。
そのころちょうど、中学3年生の長兄と1年生であった次兄がその卓球台で毎日のように卓球をする姿を見ていたのが、幼い日の信彦と卓球の出合いであった。

実際にボールを打ったのは小学校1、2年生のころ、家で友達とやったのが最初である。
このときはまだ背が低かったため、打つときは毎回サービスのときのように、自分のコートにワンバウンドさせてから相手のコートに入れるというやり方で、それは卓球というよりも、「卓球ごっこ」のようなものであった。独特の一本差しグリップはこのときの癖からでもある。
経済的に苦しかった長谷川家では、子どもたちは決められた手伝いをやらなければならなかった。当時、自宅は57畳の借家で、それに広い土間や板の間がついていた。
7人の兄弟たちは、毎朝そこを掃除することが日課であった。きちんとやっていないと、やり直しをさせられたという。信彦は買い物や母親の内職の編み物を手伝ったりすることが多かった。
小遣いは一切なく、おなかが減っても買い食いはできず、いつもガマンばかりであった。
しかし、このような少年時代の苦しい家庭環境が、かえって良い影響を与えたようである。
一つは、家の手伝いをする中で、粘り強さや集中力といった精神力が鍛えられた。卓球教室でも子どもたちには、「家の手伝いをしっかりやらないと世界チャンピオンにはなれないよ」とよく話をする。
二つ目はお金の大切さがよくわかったことである。高校時代にも、使う金額は同級生の3分の1くらいですんだという。それは同時に、懸命に働き、自分を育ててくれた両親への感謝の気持ちにも結びついた。
一方で、末っ子だった信彦はとても甘えん坊でもあった。小学校2年生のとき、父が過労で入院、同じ時期に母親も無理がたたったのか腎臓病で同じ病院に入院することになった。甘えん坊の信彦は「ぼくも入院したいなあ」と言っていたのが、何と盲腸炎になってしまい、念願かない本当に親子3人の入院となった、という笑い話もある。


信彦は体力的に決して恵まれていた方ではなく、むしろ劣っていた。かけっこをしても、高跳びをしてもビリだった。しかし馬跳びや飛び込み前転といったような遊びは得意だった。体力がないのにこれを得意としていたのは、誰にも負けない度胸と勇気を持ち、そして何よりも、大の負けず嫌いであったことが理由だろう。闘争心も強く、よくけんかもやり、小さな怪我(けが)は日常茶飯事であった。
小学校4年生になると、学校のクラブ活動で卓球を始めた。後に次兄からシェークハンドのラケットを与えられ、それを使って卓球をするようになった。
信彦はそれまで卓球に一番熱心だった長兄や次兄とは年が離れていたせいか、兄弟たちからは直接技術的な指導を受けたことはなく、このころのフォームは自己流だった。鷲(わし)が翼を広げたように、両手を大きく使ったフォームだったという。
信彦は技術について、習うことより他の選手から盗むことの方が多い卓球人生だった。 その後一家は愛知県守山市(現在は名古屋市)に引っ越したが、転校先の小学校には卓球クラブがなく卓球は続けられなかった。
そして、中学校に入学した信彦は、ある重大な選択を迫られることになる。(次回へ続く)
Profile 長谷川信彦 はせがわのぶひこ
1947年3月5日 ー 2005年11月7日。愛知県瀬戸市出身。
1967年世界卓球選手権ストックホルム大会男子シングルス優勝。
一本差し右シェーク攻撃型。快速ドライブとバックスマッシュ、ロビングで18歳で全日本制覇。20歳で世界制覇。全国優勝29回、アジア優勝20回、世界優勝5回。