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世界一への道 長谷川信彦 
人の3倍練習し、基本の鬼といわれた男 4

 独特な一本差しグリップから放つ「ジェットドライブ」や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで世界を魅了した長谷川信彦。
 運動能力が決して優れていたわけではなかったが、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」であった。【前回の記事を読む】【第1回から読む

文=田中大輔 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2002年8月号を再編したものです


名電高校に行きたい!
「自分は卓球が大好きだ。将来は絶対に一流選手になってやる」
 そう思いながら練習に励んでいた信彦だったが、高校進学時に大きな問題があった。
 信彦は一流選手になろうと決心したときから、高校は日本一練習が厳しいと言われていた名電高校(名古屋電気工業高校)に行こうと決めていた。もともと父が同校卓球部の初代監督であり、兄がたびたび練習に行っていたこともあり、名電高校のことはよく知っていた。父はかつて名電高校を優勝させた監督であり、当時校長だった後藤鉀二氏と大変親しかった。
 しかし、家計が苦しかった長谷川家では、高校は県立高校以外は許されなかった。学費が高い私立の名電高校へ通うことは無理だったのである。もともと親孝行だった信彦は、家計のことを考えると自分が名電高校に行きたい、などとはとても言い出せなかった。
「俺は卓球が大好きだ。その気持ちは誰にも負けない。卓球のためだったら、どんな苦労もする。絶対に一流選手になって、お父さんやお母さんに親孝行できる」
「でも、両親に苦労はかけたくない。今のうちの家計では県立高校じゃなくて名電にいきたいだなんて絶対に言えない」
 信彦の心の中では2つの気持ちが激しくぶつかっていた。

中学3年生の頃の長谷川信彦(左から2人目)

 そして、そんな複雑な心境で受験した県立高校の入学試験で、信彦は不合格となってしまった。信彦はとてもショックだったが、同時に別の考えが頭に浮かんできた。
「県立高校に落ちたのは残念だったけど、これでもしかしたら名電高校に行かせてもらえるかもしれない」
 そこで信彦は、自分が本当に行きたかったのは名電高校である、ということを初めて両親に打ち明けた。
「どうしても卓球がやりたいんだ。卓球で一流選手になるためだったら、どんなに苦しい練習でも耐えていける。どうか名電高校に行かせてほしい」
 そう言って両親にお願いしたのだ。そのときは両親もすぐに首を縦には振らなかった。だが、もう県立高校の試験には落ちてしまっているのである。
 信彦の強い願望を聞き、両親は信彦を連れ、3人で名古屋電気高等学校の校長室へ、後藤鉀二を訪ねた。そして父は
「息子を名電高校に入れてもらいたい」
と、頭を下げた。
 ところが信彦は、県立高校を受け、名電高校の入学試験を受けていない上に、中学時代に卓球ではほとんど何の実績もない。いくら父が親しいとはいっても、すんなりと入学を許可してもらうことはできなかった。それどころか、中学時代に実績もなく、入学試験を受けてすらいないことから、後藤氏からかなり厳しい言葉をかけられ、さんざん馬鹿(ばか)にされてしまったのである。
 その夜家に帰ってから、父は信彦にもう1度尋ねた。
「どうする、あれだけ馬鹿にされても、そんなに名電高校に行きたいか?」
 母は自分の息子が馬鹿にされたことで、非常に腹を立てていた。
 信彦は涙を流した。
「自分は忙しい父や母に余計な苦労をかけさせてしまったんだ。それだけでなく、恥をかかせてしまった。家計が苦しいんだから、自分だけ名電高校に行きたい、なんていうわがままを言うわけにはいかないのかもしれない。それでも、とても申し訳ないとは思うけど、どうしても、どうしても自分は卓球がやりたい。卓球が大好きなんだ」
 涙を流しながら両親に頭を下げて言った。
「俺はどうしても名古屋電気工業高校に入学して、卓球がしたいんだ」
 父も、信彦の熱意を感じたのだろう。少し間をおいてから、1人で校長のところへ行って「息子をお願いします」と頼み込んだ。
 後藤氏も初代監督の息子であるという義理もあったからか、信彦の入学を許可することにした。晴れて信彦は名電高校に入学することができたのである。
 喜びが込み上げてくる中で、
「父があれだけ頭を下げて名電高校に入ることができたんだ。いや後藤校長に拾ってもらったようなものだ。がんばって練習して、一流選手にならなくては両親に申し訳ない。よし、絶対に強くなってやるぞ。強くなって両親や後藤校長に恩返しをしよう」
と、信彦は誓った。

グリップを直せ
 当時、名電高校卓球部には規則があり、レギュラーになるためにはみな寮に入らなくてはならず、当然信彦も寮に入ることになった。入寮したときには先輩たちも親切なうえに、きょうだいが大勢いたせいか、信彦自身、もともと集団生活が大好きで、これからの寮での生活が楽しみで仕方がなかった。
 ところが、名電高校で最初の練習のときだった。先輩からまず言われたのは「何だ、その変なグリップは。早く直せ」。信彦が卓球を始めてからずっとやってきた、一本差しグリップを突然「直せ」と言われたのだ。
 当時、そもそもシェークの攻撃型の選手は数少なく、シェークの一本差しグリップなど、誰も見たこともなかったのだろう。卓球を始めたときから自己流のグリップでやってきた信彦にとってはそれが自然だった。それでも信彦は仕方なく、とりあえず標準的なグリップにして練習を始めたが、手に全然力が入らない。これでは得意のドライブも打つことができない。
 さらに、最初にやらされた練習はフットワーク練習で、これまた今までドライブの練習ばかりしていた信彦は、まったくやったことがなかった。当然のことながら、先輩の球のスピードにまったくついていけずに、ミスばかりだった。

長谷川信彦の一本差しグリップ(フォア面)

長谷川信彦の一本差しグリップ(バック面)


精神棒
 そのころ名電高校卓球部には「精神棒」というものがあった。ノータッチか、3本連続でミスをするとそれで尻をたたかれるのだ。ミスばかりの信彦は何度もそれでたたかれ、ついに「長谷川、お前はもういい。そこで素振りのフットワークをやっていろ」と言われてしまった。
 要するに、ボールを打ってもラリーが続かないから、壁の前でシャドープレーをしていろ、ということだった。壁の前には、80センチから1メートルくらいの間隔で、チョークで2本の白線が引かれてあり、それを飛び越えるようにして左右に動く練習をするのだ。
 それから信彦は毎日毎日、壁の前で何百回、何千回とそれを繰り返した。シャドープレーとはいえ、少しでも気を抜いて、フォームがくずれたり、動きが悪くなったりしたら容赦なく精神棒でたたかれた。
 長谷川は語る。
「その練習はものすごくつらかったね。そのころは毎日練習が始まって、『長谷川、素振りのフットワークをやれ』、そう先輩から言われると、これからまるで地獄に行くような気分になったね。嫌で嫌で仕方がなかったよ。でも今にして思えば、素振りのフットワークをやったことが自分の卓球にとって、ものすごい財産になったね」
 シャドープレーが終わると、また台についてフットワーク練習である。ここでもラリーは続かず、精神棒でたたかれてばかりだった。
 それだけでなく、入ったばかりのときと違い、合宿所でも先輩たちは厳しかった。礼儀や言葉づかい、さらに掃除や洗濯などの雑用もしっかりやらないと先輩から厳しくしかられた。しかも、誰か1人でも失敗をした者がいると、全員がしかられるのである。
 梅雨になると先輩のユニフォームが洗濯しても乾かない。そんなときは、寝るときに布団の下にユニフォームを敷き、自分の体温で乾かした。
 そんなつらい生活の中で、入学時には7人いた1年生が、3カ月後には信彦を入れてたったの2人になってしまった。信彦自信も夜中に1人布団の中で泣きながら、もうやめて家に帰りたい、と思うことが何度もあったという。(次回へ続く



Profile 長谷川信彦 はせがわのぶひこ
1947年3月5日 ー 2005年11月7日。愛知県瀬戸市出身。
1967年世界卓球選手権ストックホルム大会男子シングルス優勝。
一本差し右シェーク攻撃型。快速ドライブとバックスマッシュ、ロビングで18歳で全日本制覇。20歳で世界制覇。全国優勝29回、アジア優勝20回、世界優勝5回。

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