「日本の友人と世界の卓球界に『三十六計と卓球』を捧げる」 荘則棟
筆者・荘則棟
三十数年前、ヨーロッパのシェーク選手が世界を制していた頃、中国や日本はヨーロッパの卓球の長所を積極的に学び研究しつつ自己の道を堅持し、ペン打法による速さやパワーといったそれぞれの風格ある技術を創造し、ついに、ヨーロッパ卓球に勝ったのである。中国と日本はその後初20~30年の長きにわたって優勢を保ち、世界の卓球技術、戦術の発展に卓越した貢献をなした。1960 年代は、中日卓球健児の交流が盛んで、人民の友誼(ゆうぎ)を促進し、国交の回復に大いに努力した。
最近の十数年来、ヨーロッパの心ある選手たちは、中国と日本の技術、戦術を研究しながら彼らの伝統打法を堅持し、新しい両ハンド、ドライブ打法を創造した。このため、中国や日本はついにトップの座から滑り落ちていったのである(中国女子除く)。このような抜きつ抜かれつの情勢は世界の卓球の繁栄を物語っているものである。
下り坂は、成功に達する
階段にも通じている
繁栄は、各国の独創的な精神によって維持される。卓球の素晴らしい情勢に直面する場合、我々は次の三種類の態度をとるだろう。
1. ヨーロッパのシェーク打法が世界を制し、彼らの技術は限りない魅力を備えた。ある国で、シェーク打法がより発展することは正しいことであり、合理的であり、必要なことである。しかし、もし、自分の国に伝統的で効果があるぺン打法が存在する場合、それを捨ててまで多くの選手にシェーク打法を習わせた場合、それは関羽の目の前でまだ慣れない青竜刀を持って舞うようなこと(編集部注。関羽とは「三国志」にでてくる中国の豪傑。ここでは、昔からシェークハンドを使い慣れているヨーロッパ選手に対し、アジアの選手がシェークハンドで対抗することは、青竜刀を使い慣れた豪傑の関羽に対し、慣れない青竜刀で対抗するようなものだ、の意味)であり、果たしてそれが正しいことであろうか。
2. 世界の卓球技術、戦術は発展中であるが、我々は過去の伝統をまだ捨てきれず、基本的には以前と変わらない卓球の風格を保持しているため、わずかな進歩、発展は見られるものの、急速な進歩は期待できない。
3. ヨーロッパのトップ選手の先進打法を積極的に研究し、同時に自国の伝統技術、戦術の全面的な分析、研究を行ない、潜在的技術、戦術を継承、発揚し、大胆に時代にそぐわないものを捨て去るといった、堅持と創造を潔く進める。
私は、中国ナショナルチームの往年の選手であると同時に、日本卓球界の古い友人でもある。昔は、中日両国はペン打法の選手が大半を占めていた。今は困難に直面し、下り坂を歩んでいる。我々は真剣に対処しなければならない。下り坂を歩むことは、失敗を意味しているだけではなく、成功に達する階段にも通じている。我々が正確に対処し、把握、研究し、克服するならば、今まで未知であったことがわかるようになり、下り坂を上り坂に転換でき、失敗を勝利に変えることができるのである。韓国の劉南奎、金擇洙選手は、すでに我々の先を歩んでいる。特に金擇洙選手は、今年9月に松本市で行なわれた第2回IOC会長杯で、世界チャンピオンのパーソン選手を破り、決勝では、世界2位のワルドナー選手に3対1で勝って、男子シングルスの優勝に輝いた。彼は、アジアのために、今再びペン両ハンド打法を完成させ、逆風の中で勇ましく戦い、希望あふれる清々しい姿を見せてくれたのである。
私は実践をもって
皆さんのご好意に報いたい
1991年5月5日、田舛彦介社長の真心溢れるご招待をいただき、私と妻の敦子は日本を訪問することができた。そして第41回世界選手権の決勝を観戦し、各国の友人と共同で、卓球理論、技術、戦術を研究、検討する機会を持つことができた。先日、卓球レポートの編集部の皆さんから、卓球の理論、技術、戦術に関する文章を書いてほしい旨の依頼があり、さらなる啓蒙と、各国の友人および日本の友人と学術の見地で交流できることを大変うれしく感じている。田舛彦介社長と友人の皆さんのご好意に厚く感謝申し上げ、私は実践をもってそれに報いたいと思う。
私の長年の研究の一つである、中国古代の三十六計と卓球技術、戦術に関する文章を日本の友人と世界の卓球界に捧げ、同時に皆さんのご指導を賜りたいと願う次第である。
「三十六計と車球技術の運用と思惟」
次回から列挙する三十六計の中国古代のエピソードと中国卓球の戦術の運用は期せずして一致している。これらの足跡をたどりながら連想する過程で、我々の戦術の素養、教養がより豊かになり、より大きな成功に結びつくことを願って止まない。(了)
階段にも通じている
繁栄は、各国の独創的な精神によって維持される。卓球の素晴らしい情勢に直面する場合、我々は次の三種類の態度をとるだろう。
1. ヨーロッパのシェーク打法が世界を制し、彼らの技術は限りない魅力を備えた。ある国で、シェーク打法がより発展することは正しいことであり、合理的であり、必要なことである。しかし、もし、自分の国に伝統的で効果があるぺン打法が存在する場合、それを捨ててまで多くの選手にシェーク打法を習わせた場合、それは関羽の目の前でまだ慣れない青竜刀を持って舞うようなこと(編集部注。関羽とは「三国志」にでてくる中国の豪傑。ここでは、昔からシェークハンドを使い慣れているヨーロッパ選手に対し、アジアの選手がシェークハンドで対抗することは、青竜刀を使い慣れた豪傑の関羽に対し、慣れない青竜刀で対抗するようなものだ、の意味)であり、果たしてそれが正しいことであろうか。
2. 世界の卓球技術、戦術は発展中であるが、我々は過去の伝統をまだ捨てきれず、基本的には以前と変わらない卓球の風格を保持しているため、わずかな進歩、発展は見られるものの、急速な進歩は期待できない。
3. ヨーロッパのトップ選手の先進打法を積極的に研究し、同時に自国の伝統技術、戦術の全面的な分析、研究を行ない、潜在的技術、戦術を継承、発揚し、大胆に時代にそぐわないものを捨て去るといった、堅持と創造を潔く進める。
私は、中国ナショナルチームの往年の選手であると同時に、日本卓球界の古い友人でもある。昔は、中日両国はペン打法の選手が大半を占めていた。今は困難に直面し、下り坂を歩んでいる。我々は真剣に対処しなければならない。下り坂を歩むことは、失敗を意味しているだけではなく、成功に達する階段にも通じている。我々が正確に対処し、把握、研究し、克服するならば、今まで未知であったことがわかるようになり、下り坂を上り坂に転換でき、失敗を勝利に変えることができるのである。韓国の劉南奎、金擇洙選手は、すでに我々の先を歩んでいる。特に金擇洙選手は、今年9月に松本市で行なわれた第2回IOC会長杯で、世界チャンピオンのパーソン選手を破り、決勝では、世界2位のワルドナー選手に3対1で勝って、男子シングルスの優勝に輝いた。彼は、アジアのために、今再びペン両ハンド打法を完成させ、逆風の中で勇ましく戦い、希望あふれる清々しい姿を見せてくれたのである。
私は実践をもって
皆さんのご好意に報いたい
1991年5月5日、田舛彦介社長の真心溢れるご招待をいただき、私と妻の敦子は日本を訪問することができた。そして第41回世界選手権の決勝を観戦し、各国の友人と共同で、卓球理論、技術、戦術を研究、検討する機会を持つことができた。先日、卓球レポートの編集部の皆さんから、卓球の理論、技術、戦術に関する文章を書いてほしい旨の依頼があり、さらなる啓蒙と、各国の友人および日本の友人と学術の見地で交流できることを大変うれしく感じている。田舛彦介社長と友人の皆さんのご好意に厚く感謝申し上げ、私は実践をもってそれに報いたいと思う。
私の長年の研究の一つである、中国古代の三十六計と卓球技術、戦術に関する文章を日本の友人と世界の卓球界に捧げ、同時に皆さんのご指導を賜りたいと願う次第である。
「三十六計と車球技術の運用と思惟」
次回から列挙する三十六計の中国古代のエピソードと中国卓球の戦術の運用は期せずして一致している。これらの足跡をたどりながら連想する過程で、我々の戦術の素養、教養がより豊かになり、より大きな成功に結びつくことを願って止まない。(了)
筆者紹介 荘則棟
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。
1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。
1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
本稿は卓球レポート1992年1月号に掲載されたものです。