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三十六計と卓球 ~第五計 趁火打劫~

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「日本の友人と世界の卓球界に『三十六計と卓球』を捧げる」 荘則棟

第五計 趁火打劫 (火事場泥棒)

相手が災難にあっているとき、相手が井戸に落ちたときに石を投げ込むように攻勢をかけ、チャンスを利用して勝ちを手中にする。

古代戦術の例

36kei-05-01.jpg これは紀元前497~465年頃の出来事である。
 長い間呉国の捕虜となっていた越国の国王勾践(こうせん)は釈放された。
 しかし彼は一国も某国の雪辱を忘れず、臥薪嘗胆(仇を晴らそうと長い間苦心・苦労を重ねること)毎年勾践は呉国の国王夫差に対し、穀物、美女などの貢ぎ物を進呈しなければならなかった。勾践にとっては辛い雪辱の歳月であった。
 勾践は準備も整え、呉国国王夫差(ふさ)を倒す決心をした前の年に、貢ぎ物である穀物の種子を「せいろう」で蒸した後進呈した。
 翌年、蒸した種は芽を出さず、呉国の不作で食糧難となった。水田には稲が育たず、川の魚や蟹、えび等は全て食べつくされ、百姓達の生活は苦難のどん底に落ち、呉国国王夫差に対する民心の不満は爆発寸前となっていた。
勾践はさらに呉国の大臣伯嚭(はくひ)に大量の賄賂を送って買収し、越国討伐反対論を呉国国王夫差に進言させた。
 伯嚭の美言に心浮かれた呉国国王夫差は、越国討伐主張論者である大将伍子胥(ごししょ)に自刎(じふん=自ら首をはねて死ぬ)を命じた。
 これを聞いた伍子胥は悲憤のあまり、大声で笑いながら「吾死後、両目を呉国城門の上に置かれたし。五口越兵入境をここで見るなり」と言い自刎した。
 ちょうどこの時期、呉国の経済はきわめて困難な事態に陥り、百姓達の生活はますます苦しくなり、好臣悪者が覇を成し、朝廷の綱紀は乱れに乱れていた。
 勾践は呉国国王夫差が黄池へ北上し、中原各国と盟会している時期を見計らい、呉国混乱の虚を突き、大挙侵攻して素早く呉国を滅ぼしたのである。


卓球における応用例
 
1964年4月、全中国卓球選手権大会が南京、で開催された時のことである。
 私は男子シングルスベスト4に入り、浙江省チームの呉小明選手と準決勝を行なうことになった。
 呉小明選手は実力のある虎将で、鋭気は人を圧し、連続して郭仲恭選手、王家声選手、張燮林選手などの名将を破りベスト4に進出してきた。
 私との一戦が始まってからも、彼の攻勢は続く一方で、私は押され気味だった。
 ついに2対2 のゲームオールとなり、第5ゲームを迎えた。呉小明選手は試合が進むにつれ、ますます調子を出し8-4と私をリードしていた。
 私は心の中で「まずい」と思った。彼の攻勢をなんとかして止めなければ結果は明白である。そこで私は突進することを決心し、サービスを利用して強攻したのである。
 不思議なことに4球ともネットをかすめて相手の台に落ち、私の得点となった。
 呉小明選手にとっては奇怪な災難であり、卓球史上でもまれにみる「天災」であった。
 私は嬉しくてたまらなかったが、呉小明選手は呆然としていた。
 私は彼が心の中で怒っている一瞬をとらえ、さらに猛攻を仕掛け、奇跡のように6点を連取し14-8でリードした。
 形勢は私に有利となり、その後は一気に勝ちを手中にした。


感想

1.戦機(チャンス)の選択、戦機の捕捉、戦機の利用が肝要である。
 戦機とは白馬が隙聞を通り抜けるが知く、一瞬にして消え去る。
 自分に有利な戦機を逃がすな、戦機を逃がすと二度と現われない。
2.敵が災難に遭遇した時は、まさに天が与えてくれた良機である。
敵が天を恨み人を責め、慌てふためき、戦いの気力を失っている時を見極め、徹底的に相手の都まで攻略する。
ここで気をつけなければならないことは、躊躇し決断を欠き、慈悲心により攻めが弱くなり、足を縛り前進しない等は、ただ座って良機を逸し、虎を飼って災いとなり、逆に虎に噛まれ怪我をし、一度の失敗が千年の悔いとなる。
3.趁火打劫(火事場泥棒)とは、多智かつ勇者が練った計略である。
4.敵の弱点を見抜けない者は、戦場の盲人である。戦機(チャンス)があるにもかかわらず、それを捕らえられない者は、宝の山に入りながらも宝を見分ける眼力がないため、手ぶらで帰ってくるおろか者であり素人である。
(翻訳=佐々木紘)
筆者紹介 荘則棟
chuan_s.jpg1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず的ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
本稿は卓球レポート1992年7月号に掲載されたものです。
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