第二章 どうしたら勝てるか
一 感謝はするが満足はせず
ロ、創意工夫の毎日
十一才の時、近所の露天ピンポンで卓球をはじめた時(昭和六年)、小さい身体の私は町のオッサン連中にまじって一生懸命にプレーした。運動具店で買ってきた一本のヒノキ材ラケットには、コルクもラバーも張ってない木ベラの時代だった。新品のラケットは表面がすべるので、土をつけて表面をこすったりした。
さてそのラケットをどの様に握ったらよいか、わからなかった。今日のペンホルダーグリップでちゃんとやる人はなく、当時は人指ゆびを一本かける(今のペン式)のと二本かけるペン式と、長谷川信彦選手のいわゆる一本指しや、もっと変てこりんな握り方などマチマチだった。
私は二本がけペンホルダー(人指ゆびと中ゆびを表面にかける)ではじめたので、バックはバックハンド式に振った。体が小さいので、ネット際へ球を落されると手が届かなかった。オッサン連中は面白半分に小さい球を出しては私をからかった。それがくやしくて、私は台の上に飛び込んで打った。しばしば胸をコートにぶっつけてケガもした。ラケットの柄が自分の頭にぶっつかってケガもした。それで、ラケットの柄の半分切りとった。
これが私の卓球のはじまりだった。近所のオッサン連中をやぶり、一年数カ月後に入学した柳井商業学校でも、二年生で五年生全部を打ちやぶり、三年生で県下中等学校の覇者となったが、一般男子では岩国帝人の田中賢三という強い選手に勝てなかった。
これがくやしくて、負けると徹夜して何十枚もの感想文を書き上げたりした。また、隣りの広島県のレベルが高く、広島市と呉市には強い選手が沢山いた。これらの選手に勝つことは到底不可能と考えていたが、いつの日にか勝てるようになった。
いろいろな経過をへて、私の最盛期(二十五才から三十才)は、地方選手として最も活躍した選手となった。体が小さいので足(フットワーク)で勝負しなければ、と思った。また、サービスだけは日本一になろう、と日夜創意工夫した。バックのカットの切れ味は日本一だという自信があったし、バックハンド技術は日本一だといえるな、と思っていた。何しろ私をきたえてくれる相手がないので、技術の綜合力を高めるわけにはいかず、たとえばバックハンドだけで試合するとか、相手コート半分でやるとか部分品だけでも、と考えて錬磨したわけで、その組立て方で相手の逆をつく技巧派プレーヤーをめざすしかなかった。
[卓球レポートアーカイブ]
「卓球は血と魂だ」 第二章 一-ロ、創意工夫の毎日
2013.06.06
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