「日本の友人と世界の卓球界に『三十六計と卓球』を捧げる」 荘則棟
第二十五計 偸梁換柱 物事の内容や本質をこっそりすり替える
敵の主力や精鋭をこっそりすり替える。
大黒柱を朽ち木などにすり替えることにより、物事の本質や内容を取り替え、
敵を自ら腐り自滅させ、自ら勢力を削らせ、その後は一気に敵を攻め撃破する。
古代戦術の例
紀元前207~206年、楚漢(そかん)争いの頃、初期の段階では漢王劉邦(かんおうりゅうほう)がやや不利であった。
その時、劉邦の部下陳平(ちんぺい)が策を献上した「大王が憂慮しているのは楚王項羽(そおうこうう・即ち項王)です。
項王の忠臣は範増(はんぞう)鐘離昧(しょうりまい)の数人です。大王は大金を使い楚国の人を買収し、デマを流し、敵の内部でお互いに猜疑心(さいぎしん)を起こさせ、その隙に攻撃すれば、楚国は楽に手に入ります」。
漢王は大変喜び大金を陳平に渡した。陳平はその金を腹心の小校に渡し、楚兵に扮(ふん)装して楚営に潜み込み、項王の手下に賄賂(わいろ)を送り、デマを流させた。
項王はデマを耳にして疑心を抱き、鐘離昧らをどん欲の官吏と見なし信用しなくなった。
更に項王は使者を漢王へ出し偵察させた。この時、陳平は再度「わな」を仕掛け、沢山(たくさん)のご馳走(ちそう)と美酒をもって楚の使者をもてなし、範増の近況を尋ね、彼からの親書を持っていますかと聞いた。
すると楚の使者は「私は項王の命令を受け和議のため貴国を訪れたのであり、範増が派遣したのでは無い」と答えた。
陳平はわざとらしく「貴殿は項王の使者だったのですか」と言い、部下に命じて膳を下げさせた。
楚の使者は更に陳平が部下に「彼は範増が派遣した者ではない。そのような使者にご馳走を出して労をねぎらう必要はない」と話しているのを耳にした。
使者は怒りを感じ、再度運び込まれた食事に箸(はし)を付けないつもりでいたが、旅の疲れと腹ペコには勝てず箸を付けた。
すると酒は酸味を帯び、おかずやご飯は腐りかけていた。彼は怒りを抑えきれず、箸を置くとそのまま帰国した。
使者は項王に一部始終を報告し、範増は漢王に通じている故に、気を付けるよう付け加えた。
報告を受けた項王は「先日デマを聞いた時、範増は信頼できる人物故に皆の衆も流言やデマを信じない様に言ったばかりだが、裏で敵と通じあっているとは何事じゃ、生きるのがいやになったのだろう」と怒った。
暫(しばら)くして、範増は項王がデマ流言を信じたことを悟り、項王に「天下の大事は既に定まり、大王にはご自愛専一にて、敵の罠(わな)に安易にはまらぬ様お願いし、老骨はこのへんで引退し、田舎で骨を埋(うず)めるつもりです」と言って引き下がった。項王も彼を引き留めなかった。その結果、項王は大黒柱を失ったのである。
劉邦は感慨深く「私は、テントの中で作戦を練り、遠く千里の地で戦果を上げる点では張良(ちょうりょう)にかなわない。国を治め、国民を愛し、食糧や必需品を与える点では肖何(しょうか)にかなわない。百万の軍を統率し、戦えば必ず勝つ点では韓信(かんしん)にかなわない。この三人は宝である。私は彼ら三人を使うことが出来たので、天下を治められた。しかし、項羽は唯一の範増を使うことが出来なかったため、私の捕虜となった」と述べた。
卓球における応用例
中国卓球チームの訪問試合の着眼点は二つ有る。
第一は、平時の訓練で培った技術と戦術を試合に用い、利害と損得を観察し検証することである。
第二は、訪問試合を通じ、相手の技術及び戦術上の長所と弱点を洞察・体験・把握すること。
これらを前提とし出来るだけ勝ちを得る。これには探索・試しの要素も含まれ、この様な指導的考え方と布局に基づくと、時には相手が錯覚を起こし、判断を間違う事もある。
例えば、1964年、中国チームは相互訪問試合を行なった。中国チームは主な目標を木村興治選手と三木圭一選手に置き、着眼点が偏っていたため、私と李富栄選手は、日本チームの両面攻撃+ループドライブ打法の小中健選手に敗れた。
この戦果は、後に日本チームが中国チームと対戦するに際し、小中健選手の能力を過大評価する結果となって現われた。
1965年、第28回世界選手権大会の中・日男子団体決勝戦において、日本チームは小中健選手を第一主力としたが、試合の結果、小中健選手は3試合とも落した。
これは客観的に「偸梁換柱」の役目を果たしている。
訪問試合の目的は往々にして重点性を持つ。従って訪問試合での成績は参考にはなるが、完全なる拠(よ)り所(どころ)にはならない。
訪問試合では不利であったが、大事な試合では勝った、あるいは訪問試合では勝者であったが、大事な試合では敗者となったケースをよく見かける。
従って、精鋭と薄弱とはなかなか見分けが付かない。しかし本当の用兵の道...正確な計算はこの様な中に存在しているのである。
感想
1.偸梁換柱の核心は精鋭を折ることである。例えば、大車の車輪を壊せば自然と動かなくなる。大黒柱を抜き取れば家屋は自然に崩壊するのと同じ様に、ごく自然に失敗へ導くことである。
2.度胸と見識を持ち、古い常識に捕らわれず、平庸(へいよう)な見解を排除する。
また世に名を響かせた大将でも、力の衰えた選手は交替し、成長の最中にある大きな潜在力を持つ無名の選手を重点的に起用する。
3.指揮者は豊富な経験と鋭い観察能力を備え、相手の偽の現象に惑わされる事なく、真実を読み取り、自分を演出するのみならず相手をも演出させ、全局を把握してこそ不敗の地に立つ事が出来るのである。
紀元前207~206年、楚漢(そかん)争いの頃、初期の段階では漢王劉邦(かんおうりゅうほう)がやや不利であった。
その時、劉邦の部下陳平(ちんぺい)が策を献上した「大王が憂慮しているのは楚王項羽(そおうこうう・即ち項王)です。
項王の忠臣は範増(はんぞう)鐘離昧(しょうりまい)の数人です。大王は大金を使い楚国の人を買収し、デマを流し、敵の内部でお互いに猜疑心(さいぎしん)を起こさせ、その隙に攻撃すれば、楚国は楽に手に入ります」。
漢王は大変喜び大金を陳平に渡した。陳平はその金を腹心の小校に渡し、楚兵に扮(ふん)装して楚営に潜み込み、項王の手下に賄賂(わいろ)を送り、デマを流させた。
項王はデマを耳にして疑心を抱き、鐘離昧らをどん欲の官吏と見なし信用しなくなった。
更に項王は使者を漢王へ出し偵察させた。この時、陳平は再度「わな」を仕掛け、沢山(たくさん)のご馳走(ちそう)と美酒をもって楚の使者をもてなし、範増の近況を尋ね、彼からの親書を持っていますかと聞いた。
すると楚の使者は「私は項王の命令を受け和議のため貴国を訪れたのであり、範増が派遣したのでは無い」と答えた。
陳平はわざとらしく「貴殿は項王の使者だったのですか」と言い、部下に命じて膳を下げさせた。
楚の使者は更に陳平が部下に「彼は範増が派遣した者ではない。そのような使者にご馳走を出して労をねぎらう必要はない」と話しているのを耳にした。
使者は怒りを感じ、再度運び込まれた食事に箸(はし)を付けないつもりでいたが、旅の疲れと腹ペコには勝てず箸を付けた。
すると酒は酸味を帯び、おかずやご飯は腐りかけていた。彼は怒りを抑えきれず、箸を置くとそのまま帰国した。
使者は項王に一部始終を報告し、範増は漢王に通じている故に、気を付けるよう付け加えた。
報告を受けた項王は「先日デマを聞いた時、範増は信頼できる人物故に皆の衆も流言やデマを信じない様に言ったばかりだが、裏で敵と通じあっているとは何事じゃ、生きるのがいやになったのだろう」と怒った。
暫(しばら)くして、範増は項王がデマ流言を信じたことを悟り、項王に「天下の大事は既に定まり、大王にはご自愛専一にて、敵の罠(わな)に安易にはまらぬ様お願いし、老骨はこのへんで引退し、田舎で骨を埋(うず)めるつもりです」と言って引き下がった。項王も彼を引き留めなかった。その結果、項王は大黒柱を失ったのである。
劉邦は感慨深く「私は、テントの中で作戦を練り、遠く千里の地で戦果を上げる点では張良(ちょうりょう)にかなわない。国を治め、国民を愛し、食糧や必需品を与える点では肖何(しょうか)にかなわない。百万の軍を統率し、戦えば必ず勝つ点では韓信(かんしん)にかなわない。この三人は宝である。私は彼ら三人を使うことが出来たので、天下を治められた。しかし、項羽は唯一の範増を使うことが出来なかったため、私の捕虜となった」と述べた。
卓球における応用例
中国卓球チームの訪問試合の着眼点は二つ有る。
第一は、平時の訓練で培った技術と戦術を試合に用い、利害と損得を観察し検証することである。
第二は、訪問試合を通じ、相手の技術及び戦術上の長所と弱点を洞察・体験・把握すること。
これらを前提とし出来るだけ勝ちを得る。これには探索・試しの要素も含まれ、この様な指導的考え方と布局に基づくと、時には相手が錯覚を起こし、判断を間違う事もある。
例えば、1964年、中国チームは相互訪問試合を行なった。中国チームは主な目標を木村興治選手と三木圭一選手に置き、着眼点が偏っていたため、私と李富栄選手は、日本チームの両面攻撃+ループドライブ打法の小中健選手に敗れた。
この戦果は、後に日本チームが中国チームと対戦するに際し、小中健選手の能力を過大評価する結果となって現われた。
1965年、第28回世界選手権大会の中・日男子団体決勝戦において、日本チームは小中健選手を第一主力としたが、試合の結果、小中健選手は3試合とも落した。
これは客観的に「偸梁換柱」の役目を果たしている。
訪問試合の目的は往々にして重点性を持つ。従って訪問試合での成績は参考にはなるが、完全なる拠(よ)り所(どころ)にはならない。
訪問試合では不利であったが、大事な試合では勝った、あるいは訪問試合では勝者であったが、大事な試合では敗者となったケースをよく見かける。
従って、精鋭と薄弱とはなかなか見分けが付かない。しかし本当の用兵の道...正確な計算はこの様な中に存在しているのである。
感想
1.偸梁換柱の核心は精鋭を折ることである。例えば、大車の車輪を壊せば自然と動かなくなる。大黒柱を抜き取れば家屋は自然に崩壊するのと同じ様に、ごく自然に失敗へ導くことである。
2.度胸と見識を持ち、古い常識に捕らわれず、平庸(へいよう)な見解を排除する。
また世に名を響かせた大将でも、力の衰えた選手は交替し、成長の最中にある大きな潜在力を持つ無名の選手を重点的に起用する。
3.指揮者は豊富な経験と鋭い観察能力を備え、相手の偽の現象に惑わされる事なく、真実を読み取り、自分を演出するのみならず相手をも演出させ、全局を把握してこそ不敗の地に立つ事が出来るのである。
(翻訳=佐々木紘)
筆者紹介 荘則棟
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
本稿は卓球レポート1994年11月号に掲載されたものです。