第四章 卓球界奉仕を志して
一 米中ピンポン外交の側面
私はわずかの期間ではあるが、日本卓球協会役員にかかわったこともあった。戦後の二十年代は中国五県代表理事として日卓協の理事に列し、昭和二十八年の第二回アジア選手権大会(東京、現在の日大講堂)の時は、後藤鉀二先生に要請されてコーチ団に加わり、昭和二十九年、三十年のロンドン大会、ユトレヒト大会に出場する日本選手団の合宿練習にはコーチとして参加した。
また、昭和四十二年、四十四年の世界選手権ストックホルム大会とミュンヘン大会には、当時常任理事をしており、日本代表の総務として随行した。そして四十二年のアジア選手権大会には、選手団より一足先にシンガポールへ行き、後藤先生をアジア卓球連盟の会長に推す仕事に奔走した。四十六年の名古屋大会の時は後藤会長を国際卓球連盟の会長代理に当選させるために、何人かの役員と共に努力した、ことなどもあった。
これらの様々な思い出が多いなかで、何と云っても一般国民や世界を驚かせた事件は、その世界選手権名古屋大会で起った“米中ピンポン外交”であろう。
名古屋電気高校、愛知工業大学を創立し、日本卓球協会会長になられた故後藤鉀二先生は、日本卓球史に残る偉大な功労者と云えよう。だが、一面ご自身は名古屋にいて、日本や世界を走らせたワンマン会長としても名高い人であった。
名古屋大会の一年前、私は後藤会長に進言し、元全日本チャンピオン木村興治氏らの若手コーチ陣を編成し、名古屋大会日本チームの必勝を期すべきだ、という考えを述べ、会長はこれを諒承された。何回か木村氏を口説いてやっと実現した。ところが、若手コーチ陣としては、就任の条件であった選手選考をまかせてもらえず、昭和四十五年十二月二十日、約五ヵ月で辞表を出してしまったのだ。
よかれと考えて進言した私も立場を失ったが、両方の気持は痛いほどよくわかるのであった。その上に、翌一月六日、名古屋で合宿中の日本代表候補三十二名が無断で合宿から帰宅してしまう、という事件が起ったのである。これには私も驚いた。まったく予期しえないことが起ったのだ。
新しく編成されたばかりの指導陣の皆さんから見れば、当時の主力選手であった伊藤繁雄、長谷川信彦、浜田美穂選手らがタマス社員であった関係上、裏で私が糸を引いたのではないか、と思われたようだった。私にとっては悪夢の連続だった。
一月六日の夜十時ごろ、後藤鉀二会長から電話が入った。会長はかなりお酒を飲んでおられた様子がありありとうかがえた。「選手が造反をおこしたんだ。キミの所の三人が主謀者らしい」びっくりした私が、それは本当ですか、とたずねると、「本当だ。そのうち君のところに帰っていくだろう。すまんがなあ、あすの朝、一番で名古屋に来てもらえんだろうか。実は今、日中文化交流協会の村岡くんと二人で飲んでいるんだ。もう二本空けたよ。いや、僕もたったいま重大な決心をしたんだ。あす話すがな-」というお言葉だった。
私は翌朝六時発の新幹線で名古屋に急行した。後藤会長のまわりに監督陣が勢ぞろいして待っていた。「まず私からお話申上げてよいでしょうか」と申しあげると、後藤会長は「どうぞ、云ってくれ」というお答えだった。
「選手三人は昨晩おそく私のところへやってきました。そして長い時間話しを聞きました。私は彼らに云ったのですが、選手が監督に無断で合宿をやめて帰ることはよくない。この点は心からあやまるべきだ、と訓しました。しかし、選手たちの気持も聞いてやってほしいと思います。私は後藤先生が名古屋大会の成功のために、どれだけご苦労されているかをよく知っています。しかし、選手達も決して先生に負けない努力をしようとしているんです……」
「問題は日本代表を早く決めなければならぬ、ということです。先生は十二月の早めに代表を決める、と云っておられました。しかしまだ決まらないばかりか、一月末まで男女各十六名の総当りリーグ戦をやる、と発表されました。これでは選手はかわいそうです。三月二十八日には本大会が始まります。選手達は世界の強豪を目標とした対外的訓練をしたい時に、お互いのリーグ戦をやる気持になれなくなったんです」
ここまで私が云った時、後藤会長は「よし!わかった。もうやめてくれ。ここで選手選考をやろう。田舛君、キミも入ってくれ。わしは昨晩、重大な決心をしたんだ。近いうちに中国へ行ってくる。世界大会を日本でやる以上、ベストメンバーでのぞまにゃいかん-」と云って立ち上り、退席される前に私をかげに呼び、「伊藤、長谷川にすぐ名古屋にくるように電話してくれないか」と依頼されたのである。
このような事件の連続が、後藤鉀二先生を動かす重大な転機となったのだ、と、他の政治的な動きも聞いていた私は、そう考えている。今日、もう時効と思ってはじめて云うことである。その数日あと後藤会長は中国へはじめて出向かれ、文化大革命で数年間スポーツ活動も中断していた中国を、名古屋大会に招待する努力をされたのである。
さて、それから二ヵ月余が過ぎ、名古屋大会が始まって数日目の朝、アメリカの元世界混合複チャンピオンのレア・ニューバーガー夫人が、会場内にいた私のところへ飛んできた。「びっくりすることが起った。私達アメリカ選手団が中国に招待されたんです。田舛さん、あなたの意見を聞きたい。私達は中国へ行くべきだと思いますか。危険はないだろうか」。
つづいて米国卓球協会の元会長で、国際卓球連盟の副会長(当時)のラフォード・ハリソン氏がやってきた。「驚くべきことが起った。昨晩、私達のホテルへ中国代表がやってきた。そしてアメリカ選手団を中国へ招待する、と云ったんですよ。私は、それは英国の間違いだろう。英国チームもこのホテルにいますよ、と教えたら、間違いではない、と云う。私は頭を天井にぶつけたような気持だった-」
もちろん、これがその日の電波で、また翌日の新聞で大騒ぎとなった“米中ピンポン外交”の幕開けだった。
[卓球レポートアーカイブ]
「卓球は血と魂だ」 第四章 一 米中ピンポン外交の側面
2013.10.21
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