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「卓球は血と魂だ」 特別記録 名手今孝 不幸な戦争の時代

不幸な戦争の時代

 一九三〇年代は恐るべき世界大不況時代であった。
 日本でも、そのころ銀行倒産を含む恐慌で多くの国民が生活の苦難に追い込まれた。政府は金融政策の失敗をくりかえしたあげく、軍部の圧力が抬頭し、すでに二十年前の朝鮮の併合から進んで中国東北部(当時満州と呼んでいた)への澎張政策へ突入していった。
 即ち、昭和六年(一九三一年)は満州事変がはじまり、昭和十二年七月七日日支事変(中国との戦争)に発展、米国との関係が一層悪化した。このへんでドイツで旗上げしたヒトラーと結び日独伊三国同盟のもと、遂に十六年十二月八日、アメリカ、英国、フランス、オランダ等の世界連合軍を相手の大東亜戦争(第二次世界大戦)に突入していったのである。
 戦後すでに三十八年たった今日から考えてみると、戦前の日本人の社会は、上下の階級差がはげしく、国民の九〇%の大衆の経済生活の水準は低いものだった。上流階級と軍人が幅をきかせ、大衆は政府主導のおしきせ教育の中にあった、と云ってよいだろう。
 私は思想的に右でも左でもないが、経済的観点から見れば、戦前の日本は今の中国と同じ状態であった。もっと皮肉な云い方をすれば、「天皇陛下と毛澤東主席をおきかえれば同じだな」と、十二年前の中国を初訪問して思ったくらいである。
 昭和十年ごろの日本では、自家用車を持つ人はほとんどなく、タクシーも全部アメリカ車だった。今日、国民の多くが自家用車をもち、毎日の食糧や衣類はもはや世界一の生活をしているのではなかろうか。住居についてはまだ欧米先進国なみとはいえないが、それにしても戦前と比べれば格段の相違だ。あの敗戦の日に、今日の日本の復興と日本人の経済生活を予測できた人は、世界中だれ一人いないだろう。
 さて、そうなってみると、戦後生れの日本人は昔を知らない。戦争の怖ろしさ、むなしさを知らない。食べるものがなく、サツマイモやカボチャでも美食であった、その時代の人間の気持がわかるはずもない。
「今は非常時だ。欲しがりません勝つまでは-」の標語の時代。私自身も、小さい子供から「お兄ちゃん、非常時はいつ終るの?」と聞かれて返事に窮したこともあった。「もういっぺん、スキヤキを食べて死にたいなア」と思ったこともあった。
 戦後生まれの日本人は「平和」は当り前のこと、と思っている。米や砂糖などの有難さもよくわからない人が多い。百円玉を入れたらジュースでもビールもいつでも出てくる時代の人々の社会教育はむずかしい。
 ともあれ、昭和十六年十二月の第二次世界大戦突入で、当時二十一才の私自身は「これで卓球も終り。自分もこの戦争で生き残れることはあるまい」と決心した。今さんも同じ心境だったと思う。事実、それを契機としてスポーツ活動は殆ど出来なくなった。
 今さんは十七年から兵隊に行き、満州(中国東北部の牡丹江の工兵部隊)での軍隊生活約一年で過労のため倒れ、千葉の国府台陸軍病院に入院されていた。すでに戦禍のはげしくなっていたころだが、私も一度お見舞いに行ったことがある。
 十九年、今さんは腎臓をとった病身のまま、日立製作所の勤務に帰任し、二十年の敗戦を東京で迎えられたわけである。たしか庶務部文書課での勤務であったが、十九年から二十年にかけての闘病生活と婚約、結婚生活も含む過労の生活を続けた今さんの日記が、細かい字でビッシリと今さんの手帳に書きのこされていた。その手帖の中から、一部を抜粋させて頂くことにした。戦後生まれの若い人々が、当時を偲んで頂ければ幸いである。必ずや何かを得られるはずである。


 今さんの日記を読んで 田舛彦介

 日記をしらべ、書き写しながら、私は涙が止まらぬ時があった。しかし、あるページに「花摘む野辺に日は落ちて、みんなで肩をくみながら、唄をうたった帰りみち、幼ななじみのあの友この友…」と誰か故郷を思わざる、の歌詞が書き込まれているのをみて、「ああ、今さんは歌が好きだったなあ」と思ったりもした。
 私が上京し、十一月二十三日、妻の実家(間借りしていた)に今さんを迎えた時の、今さんの教訓が思い出された。
 「田舛くん、人間は若くなければいけないよ。考えてみれば、今世界で一番若い国はアメリカとソ連だと思う。日本は少し老いぼれてたんだよ。これから落付いたらまた卓球もやれるようになるだろう。お互い協力してやろうよ。西の方の復興は田舛くんがいるから大丈夫だ…」
 今さんは兵役中に、率先して穴を掘ったり、水の中につかったり無理を重ねて病魔にたおれられた。陸軍少尉に任官はしたものの病気除隊後、日立製作所本社に帰任したあとでも過労が重ねられたものと推測する。
 「卓球で日本一になった人間は、仕事の方でも日本一にならねばならないと思っているんですよ」と言って大笑いされた楽しそうなお顔が思い出される。
 こまかい気のくばり方、がんばり屋の今さんのお姿をこの日記の中に読みとって頂ければ幸いである。
 私が十一月二十三日にお会いした時、今さん二十八才私は二十五才だった。その翌年十一月十一日、今さんは帰らぬ人となられたのである。長年の夢であった世界卓球選手権大会に出場することができないままに、そしてその後の今日の卓球界を見ることが出来ないままに。

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