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「卓球は血と魂だ」 特別記録 名手今孝 今孝さんを想う(西山恵之助)

今孝さんを想う

 西山 恵之助
 (西山恵之助氏)関西学生卓球連盟会長。かつて今孝選手全盛時代に、東の早大に対抗して日本学生卓球界の覇を競った西の関学の宿将。ダブルスの名手として知られ、今、須山組対西山、崔組の幾度びかの死闘は有名。

 昭和21年11月24日。大阪南区の三津寺で、日本で初めての卓球葬がしめやかに行われていた。霊前に進んだ私は、そこに孝順卓光信士がかすかに微笑んでいるのを見た。しかし、その顔は過去幾たびとなく相対して、打ちのめされ、そして教えられたときの、あの厳しい迫力のある顔ではなかった。
 涙が写真をぼかしてでもいるのだろうか。
 私が旧制中学で遅くから卓球を始め何んとか形のつくプレイヤーになれたころ、近代卓球の第一次黄金時代を迎えた日本の卓球界は、神様であり、偶像でもあった「今 孝」の世界であった。
 戦後、世界選手権出場が当然のようになり、マスメディアがもてはやして、卓球日本の名を高めてくれた恵まれた時代の恵まれたNo.1たちよりも。それはもっと強烈な、絢爛たる「今 孝」の世界であった。
 この偶像に、この神様に、コートで相見え、挑戦するなどということがあるのだろうか、いつ起り得るのだろうかと思っていた昭和14年、団体にしろ、個人にしろ「今 孝」を打ち破らねば全日本のタイトルを手にすることはできないのだと思い知らされたとき、身体がふるえるような「こわさ」を覚えさせられた。ひたすらカットを打ち、その反撃に耐え、どう打ち返すかに毎日があった。エビ茶にWのマークは寝ているときも、押しつぶされる岩のように重かった。
 その昭和14年。関学に入学した年の一年間は、全日本学生、王座決定、全日本と徹底して押えられた。
 シングルスが駄目なら、二人がかりでも勝たねばならなかった。もともと一人では何もできなかった私が、二人でやることに意義?を見出したのだが、
「まだまだ、一年生の即席コンビには負けられないよ」
 この神様は厳しかった。
 つけ入る隙も与えず、試合の流れが少しでもこちらに、と思われるようなことすらなかった。
 それからは須山選手の突いてくるコースとそのタイミングが、今選手の右足がコートを踏む音の強弱によることに気付き、攻撃への仕掛けは無理しても二人の間を割るように、前後に弱いのはどちらか、だからストップはどちらのボールを等、その対策を二人で必死に考え成長していった。
 漸やく昭和15年。何んとか一人前にしてもらったのも、この長身白晳の人が前に立ちはだかり、そこに厳しくそびえ立つ「今・須山組」があったからによる。
 この15年、全日本選手権で球史に残る信じられない出来ごとだが、少年藤井則和が、今孝を破った。
 唖然とも呆然とも何ともいえぬ興奮と熱気が会場を包み、みなぎった。これを醒ますため外に出た私は、そこにナンバーワンが佇んでいるのを見っけた。
 神様の肩がふるえていた。ナンバーワンがひっそり泣いていたのだ。
 私は「今 孝」の涙を見たのは、恐らく始めの最後だったが、「ナンバーワンが泣く」というよりも、今孝が泣くことが信じられなかった。
 その前日、ダブルスの優勝戦に勝ったときも握手して、「いいコンビになってきたね」と笑ってくれたこの人が、強いこの人が敗れて泣くのでは、私の偶像がこわれるのだ。
 生意気にも私は、神様の肩を叩いたが、その時から、「この偶像も私と同じ選手なんだ。弱い人なんだ」と知った嬉しさと、いままで以上に人間「今 孝」に親しみと、新たな尊敬を覚えた。
 …今さん、激しくも美しい試合を演じさせていただきました。「今・須山」組対「崔・西山」組のダブルスの何年間の幾度となくあった試合を、今でも私は一つの芸術だったと、自負しています。いつまでも。そう思わせて下さい…。
 暗く長い、辛い戦争は、多くの球友を奪っていった。病死とはいえ、「今 孝」貴方も悲しい犠牲者であった。
 さらには、貴方と楽しい「ダブルス」を演じてきた「仲間」であった、須山も、崔も既に逝き貴方たち三人で昔語りに花を咲かせながら、一人たりないよ、とでも言っているのであろうか。
 霊前での弔辞は続けられていた。が、何を言い、何を聞いているのか分らなくなってきていた。
 ますます写真が、ぼやけていった。      (おわり)


-後記-
 当時、今・須山組対崔・西山組が激突し、火花を散らした。
だが、今・西山組というのが、公式戦であったことはあまり知られていないであろう。
今・西山組の西山は、残念ながら西山恵之助ではなかった。
 日本、アメリカ、オーストラリアによる汎太平洋卓球大会が昭和15年6月、東京、大阪等で行われたが、この時姉西山喜代子は、ミックスドダブルスに今孝と組み、米、豪と対戦した。
 さらに、崔、西山組もミックスを組んだ。勿論、崔根恒・西山喜代子である。
 まことに因縁深いと思うので初めて紹介する。(田舛彦介)

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