最近、動かされて取れるかどうかの瀬戸際(せとぎわ)のボールや、強打されたボールを手も出さずに簡単にあきらめる選手が多いが、その方がいい結果が出るのだろうか。
確かに手も出さずに見送るのであれば体力は消耗せず、次の1本に力を入れられるかもしれない。
だが、取れるかどうかの瀬戸際のボールや強打されたボールは見送ってしまい、あとの攻めやすいボールだけ攻撃するというのは絶対によくないと私は思う。
それは、作戦面だけでなく、精神面、体力面など、あらゆる観点から検討してもほとんど利点がないからである。もちろん、どんな場合にでも全部が全部そうしろというわけではない。
たとえば、1ゲーム目勝ったが、次の2ゲーム目は10対20ともうどうみても絶対に勝ち目がないというときは3ゲーム目の体力のことを考えて飛びついても無駄なボールはあきらめた方が良い場合もあるだろう。あるいは、疲れきっていてそのポイントは捨てた方が次のボールに集中できるとき。つまり、次のポイントやその後のゲームが絶対に有利に戦えるという理由があるときは、そのかぎりではない。
しかし、そういう場合でも飛びついていく気力がある場合は、飛びついた方が体力的には不利でもいい結果をうむことが多い。ましてそれ以外はどんなボールでも必ず手を出すくせをつけることである。そうでなければ、常にぎりぎりのコースへ打つ強い選手と対戦した場合絶対に勝ち目がない。
私は、試合というのは勝とうと最善の努力をする場であると同時に心身を鍛える場でもある、との考えを持っていたので、普通の選手から見たらあんなに動きまくっては損じゃないかといわれるぐらい、どんなボールでもあきらめずに動いたがそれが非常に良い結果につながったように思う。
そのようにして戦った試合は、みんな印象深いのだが中でももっとも印象深い高校時代と世界選手権での試合を一つずつ紹介しよう。
強敵渡辺選手を破りインターハイ県予選通過
高校時代にもっとも印象深い試合は、高校2年生のインターハイ愛知県予選の代表決定戦だ。
このとき私は、大会前にインターハイ出場を目指してフットワークの練習を毎日猛烈にやって大会に臨んだ。それと集中力、気力、精神力をつけるためにトレーニングも常に自分の限界に挑戦するまで毎日やって試合に臨んだ。
試合は、順調に勝ち進み決定戦は予想どおり県で3本の指に入ると言われていた大柄の速攻、渡辺選手(享栄商)と対戦することになった。
試合前、私は今だかつてないほど緊張した。私はその緊張をほぐすためにシャドープレイをみっちりやった。また試合前の作戦は「得意のフォアハンドで動きまくって、コースを考えて積極的に攻める。どんなボールでもあきらめずに飛びつくのだ」という二つのことを強く頭の中に入れて試合に臨んだ。
試合が開始された。試合は、ときどき渡辺選手のうまい速攻にポイントされたものの渡辺選手が慎重にコースをついて攻めてくるのを私は思い切ったドライブと強打で攻めた。
このとき私は初めての体験をした。それは、試合前に考えたとおりどんなボールでもあきらめずに飛びつくという考えでいたところ、サービスを出した後やレシーブした後次の構えに自然に早く戻ることができ、また正しい打球位置まで早く動けた。すると卓球をやり始めてから初めて、自分が打球するときの視角の中にはっきりとボールと同時に相手の姿を見ることができた。
私は、先手を取る絶好のチャンスだと思い渡辺選手がバック側にヤマをはっているなと思ったときはフォア側へ、フォア側にヤマをはっているときはバック側へドライブと強打で攻めた。このようにして、信じられないほど有利なラリー展開に持ち込むことができスタートから優勢のうちに試合を進めることができた。試合前は、渡辺選手と前陣で打ち合うと不利と思っていたが、むしろ有利に戦えたことは実に大きかった。それともう一つよかったのは、相手にうまく攻め込まれて大きくゆさぶられたときでもドライブやロビングで何本も返せたことだ。これが渡辺選手のスマッシュミスを誘い、相手の連続得点を防ぎ、逆に私の方は連続得点を上げることができらくにストレート勝ちした。こうして念願のインターハイ初出場の切符を手中にすることができた。それまでした試合の中で最高のできであっただけに、いまだに忘れられない試合である。
世界選手権決勝で河野選手に逆転勝ち
世界選手権でもっとも印象深い試合は、'67年ストックホルムで河野選手とシングルスの優勝を争ったときである。
試合前、私はやや疲れ気味であったが、速い動きができるようにと思い、決勝がはじまる1時間前にフットワークを20分近くやった。試合直前もウォーミングアップを十分にやり試合に臨んでは「思い切り動く、どんなボールでも最後まであきらめずに飛びつく」という決心をしてコートに向かった。
1ゲーム目、私がいつもの対河野戦の攻め方である強い回転をかけたドライブでフォア側主体を攻め、攻め込まれたときは相手の逆をつくストレート攻撃と深いコースをつく伸びるロビングでしのいで先行した。だが、2ゲーム目、3ゲーム目も同じ作戦で戦ったために河野選手にうまくまたれて連取され、2対1と王手をかけられ苦しい立場に追い込まれた。
もうあとがない私は5分間の休憩の間、いろいろなことを考えた。その結果の結論は「無心になってやる。河野選手に強打させないよう一球一球コースを考えて打ち返す。どんなボールでも全力で動き強気で攻める。けして一球でもあきらめたらダメだ」と考えた。また「これで負けたら仕方がない」とも思った。
私は、こう考えた途端今まであったいろいろな雑念が消えいつもの冷静さがよみがえった。河野選手の姿がはじめてはっきり見え、4ゲーム目は攻めるべきボールは攻め、守るときはがっちり守り2対2のタイに持ち込んだ。
そして最終ゲーム、チェンジエンドするまでは取ったり取られたりの大接戦でなかなかリードが奪えず息苦しい試合が続いた。試合は諦めた方が負けである。私は1本終わるごとにヨシッ1本だ、気力だ、動け、と気合いを入れてがんばった。
そして、確か11対9とリードした次の1本、うまく攻められて河野選手が両サイドに打ちこんでくるスマッシュを大きく動きながらフェンスぎりぎりのところからロビングで何本も打ち返した。このとき、河野選手が先にミスをした。河野選手は痛恨のミスでガックリときた。その姿を見て私は今が攻め崩す絶好のチャンスだと思い、河野選手がフォアハンドとショート、バックハンドを使って攻めてくるのをフォアで動きまくってドライブで積極的に攻め得点をかせいだ。また、攻め込まれたときも後陣から強い回転をかけたドライブやロビングで必死に粘り返した。
河野選手は、この私の守りに対してスマッシュを打ったあとにストップと前後にゆさぶりロビングを崩そうとしてきた。私はこのようにうまく攻める河野選手の攻めに大きくバランスを崩して3~4回転倒した。このとき、床がザラザラしていたために、肘、膝から血が吹き出した。しかし、最後まであきらめてはいけないと回転に変化をつけ粘りに粘った。この粘りに河野選手はガタガタと崩れ、一気に18対12と離して試合を決めた。このように大苦戦ではあったが、一球もあきらめることなく飛びついたのが大きな勝因になった。
また私は、このような試合をしたときよく「私はこれだけ一生懸命やっているのだから、絶対に最後までがんばるんだ」という気持ちや「絶対に勝つんだ、負けてたまるものか」という、試合のときに一番必要な精神力や気力、忍耐強さがやしなわれた。これが私の卓球を支えてくれた。また、知らず知らずのうちに粘り強い選手、勝負強い選手になることができた。
私は、どんなボールでも最後まで追いかけることは強い選手になる一つの大きな条件であると思う。
確かに手も出さずに見送るのであれば体力は消耗せず、次の1本に力を入れられるかもしれない。
だが、取れるかどうかの瀬戸際のボールや強打されたボールは見送ってしまい、あとの攻めやすいボールだけ攻撃するというのは絶対によくないと私は思う。
それは、作戦面だけでなく、精神面、体力面など、あらゆる観点から検討してもほとんど利点がないからである。もちろん、どんな場合にでも全部が全部そうしろというわけではない。
たとえば、1ゲーム目勝ったが、次の2ゲーム目は10対20ともうどうみても絶対に勝ち目がないというときは3ゲーム目の体力のことを考えて飛びついても無駄なボールはあきらめた方が良い場合もあるだろう。あるいは、疲れきっていてそのポイントは捨てた方が次のボールに集中できるとき。つまり、次のポイントやその後のゲームが絶対に有利に戦えるという理由があるときは、そのかぎりではない。
しかし、そういう場合でも飛びついていく気力がある場合は、飛びついた方が体力的には不利でもいい結果をうむことが多い。ましてそれ以外はどんなボールでも必ず手を出すくせをつけることである。そうでなければ、常にぎりぎりのコースへ打つ強い選手と対戦した場合絶対に勝ち目がない。
私は、試合というのは勝とうと最善の努力をする場であると同時に心身を鍛える場でもある、との考えを持っていたので、普通の選手から見たらあんなに動きまくっては損じゃないかといわれるぐらい、どんなボールでもあきらめずに動いたがそれが非常に良い結果につながったように思う。
そのようにして戦った試合は、みんな印象深いのだが中でももっとも印象深い高校時代と世界選手権での試合を一つずつ紹介しよう。
強敵渡辺選手を破りインターハイ県予選通過
高校時代にもっとも印象深い試合は、高校2年生のインターハイ愛知県予選の代表決定戦だ。
このとき私は、大会前にインターハイ出場を目指してフットワークの練習を毎日猛烈にやって大会に臨んだ。それと集中力、気力、精神力をつけるためにトレーニングも常に自分の限界に挑戦するまで毎日やって試合に臨んだ。
試合は、順調に勝ち進み決定戦は予想どおり県で3本の指に入ると言われていた大柄の速攻、渡辺選手(享栄商)と対戦することになった。
試合前、私は今だかつてないほど緊張した。私はその緊張をほぐすためにシャドープレイをみっちりやった。また試合前の作戦は「得意のフォアハンドで動きまくって、コースを考えて積極的に攻める。どんなボールでもあきらめずに飛びつくのだ」という二つのことを強く頭の中に入れて試合に臨んだ。
試合が開始された。試合は、ときどき渡辺選手のうまい速攻にポイントされたものの渡辺選手が慎重にコースをついて攻めてくるのを私は思い切ったドライブと強打で攻めた。
このとき私は初めての体験をした。それは、試合前に考えたとおりどんなボールでもあきらめずに飛びつくという考えでいたところ、サービスを出した後やレシーブした後次の構えに自然に早く戻ることができ、また正しい打球位置まで早く動けた。すると卓球をやり始めてから初めて、自分が打球するときの視角の中にはっきりとボールと同時に相手の姿を見ることができた。
私は、先手を取る絶好のチャンスだと思い渡辺選手がバック側にヤマをはっているなと思ったときはフォア側へ、フォア側にヤマをはっているときはバック側へドライブと強打で攻めた。このようにして、信じられないほど有利なラリー展開に持ち込むことができスタートから優勢のうちに試合を進めることができた。試合前は、渡辺選手と前陣で打ち合うと不利と思っていたが、むしろ有利に戦えたことは実に大きかった。それともう一つよかったのは、相手にうまく攻め込まれて大きくゆさぶられたときでもドライブやロビングで何本も返せたことだ。これが渡辺選手のスマッシュミスを誘い、相手の連続得点を防ぎ、逆に私の方は連続得点を上げることができらくにストレート勝ちした。こうして念願のインターハイ初出場の切符を手中にすることができた。それまでした試合の中で最高のできであっただけに、いまだに忘れられない試合である。
世界選手権決勝で河野選手に逆転勝ち
世界選手権でもっとも印象深い試合は、'67年ストックホルムで河野選手とシングルスの優勝を争ったときである。
試合前、私はやや疲れ気味であったが、速い動きができるようにと思い、決勝がはじまる1時間前にフットワークを20分近くやった。試合直前もウォーミングアップを十分にやり試合に臨んでは「思い切り動く、どんなボールでも最後まであきらめずに飛びつく」という決心をしてコートに向かった。
1ゲーム目、私がいつもの対河野戦の攻め方である強い回転をかけたドライブでフォア側主体を攻め、攻め込まれたときは相手の逆をつくストレート攻撃と深いコースをつく伸びるロビングでしのいで先行した。だが、2ゲーム目、3ゲーム目も同じ作戦で戦ったために河野選手にうまくまたれて連取され、2対1と王手をかけられ苦しい立場に追い込まれた。
もうあとがない私は5分間の休憩の間、いろいろなことを考えた。その結果の結論は「無心になってやる。河野選手に強打させないよう一球一球コースを考えて打ち返す。どんなボールでも全力で動き強気で攻める。けして一球でもあきらめたらダメだ」と考えた。また「これで負けたら仕方がない」とも思った。
私は、こう考えた途端今まであったいろいろな雑念が消えいつもの冷静さがよみがえった。河野選手の姿がはじめてはっきり見え、4ゲーム目は攻めるべきボールは攻め、守るときはがっちり守り2対2のタイに持ち込んだ。
そして最終ゲーム、チェンジエンドするまでは取ったり取られたりの大接戦でなかなかリードが奪えず息苦しい試合が続いた。試合は諦めた方が負けである。私は1本終わるごとにヨシッ1本だ、気力だ、動け、と気合いを入れてがんばった。
そして、確か11対9とリードした次の1本、うまく攻められて河野選手が両サイドに打ちこんでくるスマッシュを大きく動きながらフェンスぎりぎりのところからロビングで何本も打ち返した。このとき、河野選手が先にミスをした。河野選手は痛恨のミスでガックリときた。その姿を見て私は今が攻め崩す絶好のチャンスだと思い、河野選手がフォアハンドとショート、バックハンドを使って攻めてくるのをフォアで動きまくってドライブで積極的に攻め得点をかせいだ。また、攻め込まれたときも後陣から強い回転をかけたドライブやロビングで必死に粘り返した。
河野選手は、この私の守りに対してスマッシュを打ったあとにストップと前後にゆさぶりロビングを崩そうとしてきた。私はこのようにうまく攻める河野選手の攻めに大きくバランスを崩して3~4回転倒した。このとき、床がザラザラしていたために、肘、膝から血が吹き出した。しかし、最後まであきらめてはいけないと回転に変化をつけ粘りに粘った。この粘りに河野選手はガタガタと崩れ、一気に18対12と離して試合を決めた。このように大苦戦ではあったが、一球もあきらめることなく飛びついたのが大きな勝因になった。
また私は、このような試合をしたときよく「私はこれだけ一生懸命やっているのだから、絶対に最後までがんばるんだ」という気持ちや「絶対に勝つんだ、負けてたまるものか」という、試合のときに一番必要な精神力や気力、忍耐強さがやしなわれた。これが私の卓球を支えてくれた。また、知らず知らずのうちに粘り強い選手、勝負強い選手になることができた。
私は、どんなボールでも最後まで追いかけることは強い選手になる一つの大きな条件であると思う。
筆者紹介 長谷川信彦
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1978年11月号に掲載されたものです。