私の高校3年生の夏の練習の失敗例は以前にもふれたことがあるが、みなさんの夏の練習に対する心構えや練習のあり方を考える上で、大いに参考になると思うのでもう一度述べてみたい。
しかし、この「高3の夏の失敗例」を正確に伝えるには、その前の国民体育大会(国体)のことについてまず話さなくてはならない。
卓球部の伝統を守るのに必死
私が高3のときというのは、昭和39年である。国体というのは、例年インターハイが終わって2ヵ月後の10月に行なわれるものだが、この年は10月に東京でオリンピックが開催されるため、国体(新潟県)がいつもの年より4ヵ月も早い6月に行なわれた。そのため、私たち名古屋電気工業高校(現、名古屋電気高校)チームは、インターハイよりまず先に、この国体を名電工単独チームでなにがなんでも制覇することを固く決心した。
というのは、どうしても日本一にならなければならない深い訳があったからだ。それは、名電工が私が高2のときまでに10年連続全国大会優勝(インターハイ、国体、全日本ジュニアのうち、どれか一つは優勝)という大偉業を成しとげていたからである。
私が高1のときは「もうダメか」と思われていたが、最後の全国大会であった12月の全日本ジュニアで3年生の馬場園選手が見事優勝。高2のときも「今年は絶対にダメだ」と言われていたのが、単独チームで出場した山口国体で地元の山口県に奇跡的な逆転勝ちをして優勝。みんなの力で卓球部のすばらしい伝統を守ってきたのであった。
そして翌年。最上級生になった私は「先輩が必死になって守った伝統を、長谷川の時代にぶちこわしたとだけは絶対に言われたくない」と強く思った。「必ず伝統を守るんだ。もし伝統を守れなかったときは、卓球をやめるときだ」とまで考え、このことに本当に賭けていた。したがって大会を選んでいる気持ちの余裕なんか髪の毛の先ほどもなかった。インターハイより先に国体が行なわれるのなら、まず国体に全力投球、であった。
国体で勝つ方法を考え出す
私が必死な気持ちで日々を送ったことはすごくよかった。それは真剣に練習、トレーニングに打ち込めたのはもちろん、普段の生活の中でも常に頭の中では強豪選手と実際に戦っているところが浮かんできて、その強豪に勝つための戦法と練習方法を考え出すことができたからである。目を閉じて考えると、脳裏にはすぐに「次のような練習をしなければならない」と練習方法が浮かんできた。
①全国の強豪に打ち勝つには、サービス+3球目・5球目までの攻撃と、レシーブ+4球目・6球目までの攻撃が非常に大事である。しかもこのときの攻撃は、相手がどこに攻めてきても相手の体勢を崩すような球威で相手の読みの逆コースへ攻め返す技術がなければならない。そのためには、まずフォアハンド強打で動きまくるフットワークの練習をたくさんやる。次に試合のとき、レシーブからの4球目・6球目、サービスからの3球目・5球目をミスを恐れずフォアハンドで積極的に攻めるようにする
②球威がなくてはならない。そのためには、フォアハンドの強打で打ち勝つ練習と、足腰、腕を強くするウエート・トレーニングを並行して行なう
③体力、闘志、集中力、決断力、忍耐心が必要である。そのためには、長距離ランニングを欠かさず行なう
④オールフォアハンドで動き回ることを前提にしながら、ショート、バックハンドの打たれ強さも身につける
⑤凡ミスが多くては試合は絶対に勝てない。「絶対にミスをしない」という気持ちで基本練習を真剣にやる...全国の強豪といわれる選手に勝つために、私は自分のプレーを分析して、以上の5つのことを絶対に実行しようと考えた。
毎日課題を持って取り組み大きく伸びる
気合いが充実していた私は、これ以後毎日5つの課題を忘れず真剣に練習、トレーニングに打ちこんだ。中でも特に集中してやったのは、ショートで大きくランダムに動かしてもらい、それをフォアハンド強打で打ち返すフットワーク練習だ。毎日1時間~1時間半はやった。そしてフットワークを中心に強打対強打は毎日30分~40分。ゲーム練習のときも、高校のトップクラスに勝つために、バウンドの頂点を鋭く払ったり、1バウンドで出てくるサービスは強烈なドライブでレシーブし次のボールをさらに威力あるボールで連続攻撃するレシーブ力強化とゲーム運び。サービスを持ったときも3球目から積極的に力強いプレーをする練習。そして、朝はウエート・トレーニングと5キロのランニングを必死に行なった。
完全優勝した国体
こうしてがんばったおかげで、私は高2の夏と同じようにグングン伸びた。同時に、私の必死のがんばりが通じたのか、名電工の他の国体代表選手も2ヵ月間で大きく成長した。
そして迎えた国体。強敵と思われた東山高の京都が1回戦で神奈川に敗れ、河野選手('77年世界チャンピオン)がいた青森が2回戦で敗れる波乱があった。そんな中でも我々愛知勢はフットワークを中心にした基本練習をみっちりやったおかげで全員が絶好調。中でも常にトップに出た私が「相手の打ち返してくるボールが全部スマッシュチャンスに見える」という自分でも信じられないほどの絶好調で、単複に全勝して勢いに乗り、1回戦から決勝まで全試合ストレート勝ちという完全優勝を飾ることができた。
私は、優勝した瞬間「伝統を守ることができた。卓球部をやめずにすんで良かった」と本当に嬉しかった。
気のゆるみからインターハイ完敗
しかし、このあとから「夏練習の失敗」が訪れる。というのは「名電工卓球部の伝統を守った」という安堵感から、2ヵ月後に国体よりも大事なインターハイを控えていたのにもかかわらず「ヨシッ、勢いにのってインターハイの団体、個人に優勝しよう」という新たな目標を立てずに、ただ練習するだけの毎日になってしまった。どちらかといえば「国体に優勝したことだし、インターハイは優勝戦線に残って、やはり名電工はやるな、と思われれば」という程度の低い目標だった。
そのために、国体優勝の目標をかかげたときのように技術面、体力面、精神面をどのように鍛えていかなければならないか、暑い日の水分の取り方や、食事の取り方はどのようにしなければいけないか、を真剣に考えなかった。
それからというのは、先生から指示された練習をこなすだけの自主性のない練習で日々を送ってしまった。とくに悪かったのは、私のようなドライブ主戦型はフットワークが生命であり、強豪に勝つには自分の体力の限界に挑戦したフットワーク練習を続けることが必要であったが、疲れてくるとフォアで回り込めるボールをバックハンドで返すラクな練習に逃げてしまったことである。
そのために、体力もフットワークのスピードもどんどん落ちた。7月の中旬ごろは自分でも「かなり全体的に落ち込んでいるな」と分かった。あわてて一生懸命やり始めたが、体力、気力、集中力といったものは、すぐに身についたりもどるものではない。コンディションが戻らないまま、不本意な気持ちで大切なインターハイを迎えた。
その結果、団体戦は準決勝で大事なダブルスを落としてしまい東山に3対1で敗れた。また第1シードだったシングルスもベスト8決定で東山の左腕ドライブマン岡田選手に先手先手と攻められて完敗し、前年3位から大きく後退してしまった。
東山高はインターハイ優勝をめざして猛練習
後になって聞いたところによると、このとき団体優勝した東山チームは、新潟国体で負けた日の晩すぐに夜行列車で京都に帰り、翌日からインターハイ優勝めざして猛練習をやったという。どおりでインターハイのときは全員すばらしい動きだった。そして、闘志もすばらしかった。
このように暑い夏は、夏の暑さを吹き飛ばす大きな目標と、強い信念を持つことがまず何よりも大切なことだ。今年の夏、高い目標を持ってがんばろう!
しかし、この「高3の夏の失敗例」を正確に伝えるには、その前の国民体育大会(国体)のことについてまず話さなくてはならない。
卓球部の伝統を守るのに必死
私が高3のときというのは、昭和39年である。国体というのは、例年インターハイが終わって2ヵ月後の10月に行なわれるものだが、この年は10月に東京でオリンピックが開催されるため、国体(新潟県)がいつもの年より4ヵ月も早い6月に行なわれた。そのため、私たち名古屋電気工業高校(現、名古屋電気高校)チームは、インターハイよりまず先に、この国体を名電工単独チームでなにがなんでも制覇することを固く決心した。
というのは、どうしても日本一にならなければならない深い訳があったからだ。それは、名電工が私が高2のときまでに10年連続全国大会優勝(インターハイ、国体、全日本ジュニアのうち、どれか一つは優勝)という大偉業を成しとげていたからである。
私が高1のときは「もうダメか」と思われていたが、最後の全国大会であった12月の全日本ジュニアで3年生の馬場園選手が見事優勝。高2のときも「今年は絶対にダメだ」と言われていたのが、単独チームで出場した山口国体で地元の山口県に奇跡的な逆転勝ちをして優勝。みんなの力で卓球部のすばらしい伝統を守ってきたのであった。
そして翌年。最上級生になった私は「先輩が必死になって守った伝統を、長谷川の時代にぶちこわしたとだけは絶対に言われたくない」と強く思った。「必ず伝統を守るんだ。もし伝統を守れなかったときは、卓球をやめるときだ」とまで考え、このことに本当に賭けていた。したがって大会を選んでいる気持ちの余裕なんか髪の毛の先ほどもなかった。インターハイより先に国体が行なわれるのなら、まず国体に全力投球、であった。
国体で勝つ方法を考え出す
私が必死な気持ちで日々を送ったことはすごくよかった。それは真剣に練習、トレーニングに打ち込めたのはもちろん、普段の生活の中でも常に頭の中では強豪選手と実際に戦っているところが浮かんできて、その強豪に勝つための戦法と練習方法を考え出すことができたからである。目を閉じて考えると、脳裏にはすぐに「次のような練習をしなければならない」と練習方法が浮かんできた。
①全国の強豪に打ち勝つには、サービス+3球目・5球目までの攻撃と、レシーブ+4球目・6球目までの攻撃が非常に大事である。しかもこのときの攻撃は、相手がどこに攻めてきても相手の体勢を崩すような球威で相手の読みの逆コースへ攻め返す技術がなければならない。そのためには、まずフォアハンド強打で動きまくるフットワークの練習をたくさんやる。次に試合のとき、レシーブからの4球目・6球目、サービスからの3球目・5球目をミスを恐れずフォアハンドで積極的に攻めるようにする
②球威がなくてはならない。そのためには、フォアハンドの強打で打ち勝つ練習と、足腰、腕を強くするウエート・トレーニングを並行して行なう
③体力、闘志、集中力、決断力、忍耐心が必要である。そのためには、長距離ランニングを欠かさず行なう
④オールフォアハンドで動き回ることを前提にしながら、ショート、バックハンドの打たれ強さも身につける
⑤凡ミスが多くては試合は絶対に勝てない。「絶対にミスをしない」という気持ちで基本練習を真剣にやる...全国の強豪といわれる選手に勝つために、私は自分のプレーを分析して、以上の5つのことを絶対に実行しようと考えた。
毎日課題を持って取り組み大きく伸びる
気合いが充実していた私は、これ以後毎日5つの課題を忘れず真剣に練習、トレーニングに打ちこんだ。中でも特に集中してやったのは、ショートで大きくランダムに動かしてもらい、それをフォアハンド強打で打ち返すフットワーク練習だ。毎日1時間~1時間半はやった。そしてフットワークを中心に強打対強打は毎日30分~40分。ゲーム練習のときも、高校のトップクラスに勝つために、バウンドの頂点を鋭く払ったり、1バウンドで出てくるサービスは強烈なドライブでレシーブし次のボールをさらに威力あるボールで連続攻撃するレシーブ力強化とゲーム運び。サービスを持ったときも3球目から積極的に力強いプレーをする練習。そして、朝はウエート・トレーニングと5キロのランニングを必死に行なった。
完全優勝した国体
こうしてがんばったおかげで、私は高2の夏と同じようにグングン伸びた。同時に、私の必死のがんばりが通じたのか、名電工の他の国体代表選手も2ヵ月間で大きく成長した。
そして迎えた国体。強敵と思われた東山高の京都が1回戦で神奈川に敗れ、河野選手('77年世界チャンピオン)がいた青森が2回戦で敗れる波乱があった。そんな中でも我々愛知勢はフットワークを中心にした基本練習をみっちりやったおかげで全員が絶好調。中でも常にトップに出た私が「相手の打ち返してくるボールが全部スマッシュチャンスに見える」という自分でも信じられないほどの絶好調で、単複に全勝して勢いに乗り、1回戦から決勝まで全試合ストレート勝ちという完全優勝を飾ることができた。
私は、優勝した瞬間「伝統を守ることができた。卓球部をやめずにすんで良かった」と本当に嬉しかった。
気のゆるみからインターハイ完敗
しかし、このあとから「夏練習の失敗」が訪れる。というのは「名電工卓球部の伝統を守った」という安堵感から、2ヵ月後に国体よりも大事なインターハイを控えていたのにもかかわらず「ヨシッ、勢いにのってインターハイの団体、個人に優勝しよう」という新たな目標を立てずに、ただ練習するだけの毎日になってしまった。どちらかといえば「国体に優勝したことだし、インターハイは優勝戦線に残って、やはり名電工はやるな、と思われれば」という程度の低い目標だった。
そのために、国体優勝の目標をかかげたときのように技術面、体力面、精神面をどのように鍛えていかなければならないか、暑い日の水分の取り方や、食事の取り方はどのようにしなければいけないか、を真剣に考えなかった。
それからというのは、先生から指示された練習をこなすだけの自主性のない練習で日々を送ってしまった。とくに悪かったのは、私のようなドライブ主戦型はフットワークが生命であり、強豪に勝つには自分の体力の限界に挑戦したフットワーク練習を続けることが必要であったが、疲れてくるとフォアで回り込めるボールをバックハンドで返すラクな練習に逃げてしまったことである。
そのために、体力もフットワークのスピードもどんどん落ちた。7月の中旬ごろは自分でも「かなり全体的に落ち込んでいるな」と分かった。あわてて一生懸命やり始めたが、体力、気力、集中力といったものは、すぐに身についたりもどるものではない。コンディションが戻らないまま、不本意な気持ちで大切なインターハイを迎えた。
その結果、団体戦は準決勝で大事なダブルスを落としてしまい東山に3対1で敗れた。また第1シードだったシングルスもベスト8決定で東山の左腕ドライブマン岡田選手に先手先手と攻められて完敗し、前年3位から大きく後退してしまった。
東山高はインターハイ優勝をめざして猛練習
後になって聞いたところによると、このとき団体優勝した東山チームは、新潟国体で負けた日の晩すぐに夜行列車で京都に帰り、翌日からインターハイ優勝めざして猛練習をやったという。どおりでインターハイのときは全員すばらしい動きだった。そして、闘志もすばらしかった。
このように暑い夏は、夏の暑さを吹き飛ばす大きな目標と、強い信念を持つことがまず何よりも大切なことだ。今年の夏、高い目標を持ってがんばろう!
筆者紹介 長谷川信彦
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1982年7月号に掲載されたものです。