私は現役の後半、李振恃選手('79年世界3位)、許紹発選手('75年カルカッタ世界団体優勝)らの表ソフト前陣速攻型には、かなり分が良かったので、中国式速攻選手を得意としていたと思われている。が、全日本に初優勝した'65年当時(18才)は、中国にどうしても勝てない前陣速攻型の名手が3人いた。
荘、李、周に完敗
それは、'61、'63、'65年の世界選手権で史上2人目のシングルス3連勝を飾った世界的名手の荘則棟選手と、そのとき3度とも決勝を争ったやはり世界的名手の李富栄選手、そして、'65年世界3位の周蘭蓀選手であった。
3連勝を飾った荘は、キリッとした顔つき、ぜい肉のひとかけらもないカモシカのような足、世界チャンピオンとしての風格、貫禄も十分で、勝っても負けても表情一つかえなかった。表ソフト、中国式の丸型ラケットを使用し、バックハンドもフォアと同じように自由自在に振る。両ハンドともバックスイングは小さいが、振りは極めて鋭かった。サービスは、相手にモーションをわからせないような小さいスイングでパッと出し、手首を最大限に利用し変化サービスから両ハンドによる3球目攻撃と、それに続く連続強打。レシーブも攻撃に徹し、その攻撃は精密機械のように正確であった。
李は左押し右打ちの中国伝統の表ソフト前陣速攻型。精かんな顔つき、ウエート・トレーニングで鍛えられた体は全身がバネのようで、俊敏なフットワークから繰り出すフォアハンドは強烈だった。プッシュも正確で威力があった。
周は左押し右打ちの李と同型の前陣速攻型。身長180センチ、体重80キロ以上はあったと思われる。その巨体から打ち放つフォアハンドは猛烈なスピードであった。プッシュも中国1、2位を争う威力があり、本当に迫力のある攻撃だった。
これらの3選手は、現在の謝賽克(同型の表ソフト速攻選手)と対戦してもおそらく謝をしのぐことだろう。
私は19才の新人時代に、全盛時代のこの3選手と北京国際招待試合や日中対抗などで何度か対戦した。が、一度も勝てなかった。李選手とはダブルスでしか対戦できなかったが、彼の心・技・体・智は十分うかがわれ、シングルスで対戦してもおそらく勝てなかったと思う。
荘選手には'71年名古屋大会後の日中対抗で対戦の機会を得、勝利を収めたが、この時は私が23才の全盛期時代、荘選手は28才ですでに峠を過ぎていた。
フォームが大き過ぎたのが敗因
なぜ3選手に歯がたたなかったのか?それは自分の技術、戦術が明らかに未熟だったからだ。
当時、私はドライブの引き合いならば世界でもトップの技術を持っていた。だが、そこに持ち込むまでのネットプレー、サービス、レシーブ、ショート、バックハンドの技術や細かい動きは世界的にみて二流の技術だった。その技術でも国内ではサービス、レシーブ、3~4球目で逆に先手がとれ、得意のドライブに結びつけることができ優勝することができた。
だが中国のモーションの分かりにくい変化サービスと同じバックスイングから出してくるスピードのあるナックルロングサービス。短いバックスイングで手首を最大限に使いコーナーぎりぎりに攻めこんでくるレシーブ等の世界一流の技術に対し、レシーブも3球目もうまくいかなかった。中でも私のバックハンドサービスの構えが、極端に右足前のクローズドスタンスであったため、フォームも大きくなり、もどりがおくれて3球目攻撃がうまくいかなかった。また、レシーブから4球目のときも、払うレシーブのフォームが大きすぎて振り遅れることが多く、甘くなったボールを弱点だったバック側に連続強打を浴びてしまった。バックハンドも同様にフォームが大きく振り遅れた。そのうえ、フォアで攻めよう攻めようとしたため、好きなようにゆさぶられた。とにかくフォームが大きかったため、相手が甘いボールを打ったときだけしか攻撃ができず、力の差を感じると同時に、フォームに無駄がたくさんあることを痛切に感じた。
彼らに勝てなかった大きな原因はもう一つあった。それは、日本選手やそのあとに出てきた李景光、李振恃、許紹発といった選手は、フォアサイドに低く鋭いツッツキを回すと打球点を落としてドライブでつないできたが彼らは変化をつけたツッツキに対しても頂点をとらえて、強打に近いスピードで打ち返してきた。そのため返ってくるのが倍近く速く、しかもコースが分かりにくかったためスタートが大幅に遅れて、ドライブで攻められなかった。いやドライブで攻めるというよりボールに当てるのが精一杯という状態で、まったく勝てる気がしなかった。日本には彼らのようにサービス、レシーブがたくみで、両サイドからのツッツキ打ちのうまい表ソフト前陣速攻がいなかったのも大きな原因だったと思う。
では、このようなスピードのある前陣速攻型と対戦した場合、どのように戦ったらよいだろうか。
無駄をけずった合理的なサービス、レシーブ
スピードのある前陣速攻と対戦した場合、まず考えなければならないのはサービス、レシーブの技術である。
■サービスの場合
①極端なクローズドスタンス等でサービスを出すため3球目の動作が遅れる選手は、相手のレシーブ強打に対しても3球目で攻められるように改良しなくてはいけない(極端なクローズドスタンスは直す)
②不必要なフォロースルーをなくし、戻りを早くする
③①、②の小さ目のサービスの出し方から、からだと手首を鍛え、今まで以上に威力のあるサービスが出せるようにする
■レシーブの場合
①小さいスイングで鋭く返せるように改良する
②レシーブのときオールフォアで攻めようとすると体勢が崩れて、4球目攻撃できない。両ハンドでレシーブできるようにし、要所で回りこむ
③タイミング速くツッツキを切ったり、強く払ってレシーブし、3球目のリズムを崩す
④そのための練習と、手首、腕の筋肉を十分鍛える
...などのことが大切であると思う。
次に大切なことは、3球目、4球目の攻撃である。それは、表ソフト前陣速攻型の性質、特徴を考えた場合、単調な攻撃に対しては滅法強いことから、スピード、回転、コースに変化をつけて強打を封じることである。
これらの戦法で成功したのがバックハンドの名手だった高橋浩選手(シチズン時計、'64年アジアNo.1)。高橋選手は独特のアップダウンサービスから、バックハンドスマッシュ、速いドライブ、鋭く回転をかけた山なりのドライブ、フォアハンドスマッシュなど多彩な変化攻撃をして荘の4球目攻撃を封じた。
レシーブのときは、無理せず低いツッツキや軽く払ったレシーブでコースをついて荘の3球目攻撃を1本受け止め、次に得意のバックハンドの打ち合いに持ち込み、荘に3勝1敗の好成績を収めた。
しぶとく打ち返してチャンスを待つ
ラリーに持ち込んだときは、どう戦ったら良いか?ラリーになると、表ソフトの打球はスピードと回転に変化がない。絶好のチャンスである。このチャンスを冷静になって一球一球コースを考えて両ハンドでしぶとく打ち返す。そして甘いボールを打ち返してきたときに素早く得意のドライブで反撃して打ち勝つ。このようなラリー展開に持ち込めば、表ソフト前陣速攻は守りが弱いため、3球目から6球目までに決めてしまおうと無理な攻撃をし、自滅することが多いものである。
バックハンドと戦術の強化を
ドライブマンが中国式速攻選手に勝とうとした場合、最終的にはバックハンドと対表ソフトの戦術が必要になる。まず「相手のフォアと対等に打ち合えるバックハンドの強化練習」をすることだ。そして相手の速いテンポにまどわされず、両ハンドを有効に使い「どの選手とあたったらどう戦う」という戦術面を研究する。
新人のころオールフォアのドライブで中国を倒そうとして惨敗した私が、後半「中国選手に強い」と言われるようになったのは、つきつめればこの2つを強化したからと思う。
中国の表ソフトと対戦した場合、両ハンドで相手の打球よりやや強いボールを送れば基本的には勝てると私は思っている。
荘、李、周に完敗
それは、'61、'63、'65年の世界選手権で史上2人目のシングルス3連勝を飾った世界的名手の荘則棟選手と、そのとき3度とも決勝を争ったやはり世界的名手の李富栄選手、そして、'65年世界3位の周蘭蓀選手であった。
3連勝を飾った荘は、キリッとした顔つき、ぜい肉のひとかけらもないカモシカのような足、世界チャンピオンとしての風格、貫禄も十分で、勝っても負けても表情一つかえなかった。表ソフト、中国式の丸型ラケットを使用し、バックハンドもフォアと同じように自由自在に振る。両ハンドともバックスイングは小さいが、振りは極めて鋭かった。サービスは、相手にモーションをわからせないような小さいスイングでパッと出し、手首を最大限に利用し変化サービスから両ハンドによる3球目攻撃と、それに続く連続強打。レシーブも攻撃に徹し、その攻撃は精密機械のように正確であった。
李は左押し右打ちの中国伝統の表ソフト前陣速攻型。精かんな顔つき、ウエート・トレーニングで鍛えられた体は全身がバネのようで、俊敏なフットワークから繰り出すフォアハンドは強烈だった。プッシュも正確で威力があった。
周は左押し右打ちの李と同型の前陣速攻型。身長180センチ、体重80キロ以上はあったと思われる。その巨体から打ち放つフォアハンドは猛烈なスピードであった。プッシュも中国1、2位を争う威力があり、本当に迫力のある攻撃だった。
これらの3選手は、現在の謝賽克(同型の表ソフト速攻選手)と対戦してもおそらく謝をしのぐことだろう。
私は19才の新人時代に、全盛時代のこの3選手と北京国際招待試合や日中対抗などで何度か対戦した。が、一度も勝てなかった。李選手とはダブルスでしか対戦できなかったが、彼の心・技・体・智は十分うかがわれ、シングルスで対戦してもおそらく勝てなかったと思う。
荘選手には'71年名古屋大会後の日中対抗で対戦の機会を得、勝利を収めたが、この時は私が23才の全盛期時代、荘選手は28才ですでに峠を過ぎていた。
フォームが大き過ぎたのが敗因
なぜ3選手に歯がたたなかったのか?それは自分の技術、戦術が明らかに未熟だったからだ。
当時、私はドライブの引き合いならば世界でもトップの技術を持っていた。だが、そこに持ち込むまでのネットプレー、サービス、レシーブ、ショート、バックハンドの技術や細かい動きは世界的にみて二流の技術だった。その技術でも国内ではサービス、レシーブ、3~4球目で逆に先手がとれ、得意のドライブに結びつけることができ優勝することができた。
だが中国のモーションの分かりにくい変化サービスと同じバックスイングから出してくるスピードのあるナックルロングサービス。短いバックスイングで手首を最大限に使いコーナーぎりぎりに攻めこんでくるレシーブ等の世界一流の技術に対し、レシーブも3球目もうまくいかなかった。中でも私のバックハンドサービスの構えが、極端に右足前のクローズドスタンスであったため、フォームも大きくなり、もどりがおくれて3球目攻撃がうまくいかなかった。また、レシーブから4球目のときも、払うレシーブのフォームが大きすぎて振り遅れることが多く、甘くなったボールを弱点だったバック側に連続強打を浴びてしまった。バックハンドも同様にフォームが大きく振り遅れた。そのうえ、フォアで攻めよう攻めようとしたため、好きなようにゆさぶられた。とにかくフォームが大きかったため、相手が甘いボールを打ったときだけしか攻撃ができず、力の差を感じると同時に、フォームに無駄がたくさんあることを痛切に感じた。
彼らに勝てなかった大きな原因はもう一つあった。それは、日本選手やそのあとに出てきた李景光、李振恃、許紹発といった選手は、フォアサイドに低く鋭いツッツキを回すと打球点を落としてドライブでつないできたが彼らは変化をつけたツッツキに対しても頂点をとらえて、強打に近いスピードで打ち返してきた。そのため返ってくるのが倍近く速く、しかもコースが分かりにくかったためスタートが大幅に遅れて、ドライブで攻められなかった。いやドライブで攻めるというよりボールに当てるのが精一杯という状態で、まったく勝てる気がしなかった。日本には彼らのようにサービス、レシーブがたくみで、両サイドからのツッツキ打ちのうまい表ソフト前陣速攻がいなかったのも大きな原因だったと思う。
では、このようなスピードのある前陣速攻型と対戦した場合、どのように戦ったらよいだろうか。
無駄をけずった合理的なサービス、レシーブ
スピードのある前陣速攻と対戦した場合、まず考えなければならないのはサービス、レシーブの技術である。
■サービスの場合
①極端なクローズドスタンス等でサービスを出すため3球目の動作が遅れる選手は、相手のレシーブ強打に対しても3球目で攻められるように改良しなくてはいけない(極端なクローズドスタンスは直す)
②不必要なフォロースルーをなくし、戻りを早くする
③①、②の小さ目のサービスの出し方から、からだと手首を鍛え、今まで以上に威力のあるサービスが出せるようにする
■レシーブの場合
①小さいスイングで鋭く返せるように改良する
②レシーブのときオールフォアで攻めようとすると体勢が崩れて、4球目攻撃できない。両ハンドでレシーブできるようにし、要所で回りこむ
③タイミング速くツッツキを切ったり、強く払ってレシーブし、3球目のリズムを崩す
④そのための練習と、手首、腕の筋肉を十分鍛える
...などのことが大切であると思う。
次に大切なことは、3球目、4球目の攻撃である。それは、表ソフト前陣速攻型の性質、特徴を考えた場合、単調な攻撃に対しては滅法強いことから、スピード、回転、コースに変化をつけて強打を封じることである。
これらの戦法で成功したのがバックハンドの名手だった高橋浩選手(シチズン時計、'64年アジアNo.1)。高橋選手は独特のアップダウンサービスから、バックハンドスマッシュ、速いドライブ、鋭く回転をかけた山なりのドライブ、フォアハンドスマッシュなど多彩な変化攻撃をして荘の4球目攻撃を封じた。
レシーブのときは、無理せず低いツッツキや軽く払ったレシーブでコースをついて荘の3球目攻撃を1本受け止め、次に得意のバックハンドの打ち合いに持ち込み、荘に3勝1敗の好成績を収めた。
しぶとく打ち返してチャンスを待つ
ラリーに持ち込んだときは、どう戦ったら良いか?ラリーになると、表ソフトの打球はスピードと回転に変化がない。絶好のチャンスである。このチャンスを冷静になって一球一球コースを考えて両ハンドでしぶとく打ち返す。そして甘いボールを打ち返してきたときに素早く得意のドライブで反撃して打ち勝つ。このようなラリー展開に持ち込めば、表ソフト前陣速攻は守りが弱いため、3球目から6球目までに決めてしまおうと無理な攻撃をし、自滅することが多いものである。
バックハンドと戦術の強化を
ドライブマンが中国式速攻選手に勝とうとした場合、最終的にはバックハンドと対表ソフトの戦術が必要になる。まず「相手のフォアと対等に打ち合えるバックハンドの強化練習」をすることだ。そして相手の速いテンポにまどわされず、両ハンドを有効に使い「どの選手とあたったらどう戦う」という戦術面を研究する。
新人のころオールフォアのドライブで中国を倒そうとして惨敗した私が、後半「中国選手に強い」と言われるようになったのは、つきつめればこの2つを強化したからと思う。
中国の表ソフトと対戦した場合、両ハンドで相手の打球よりやや強いボールを送れば基本的には勝てると私は思っている。
筆者紹介 長谷川信彦
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
1947年3月5日-2005年11月7日
1965年に史上最年少の18歳9カ月で全日本選手権大会男子シングルス優勝。1967年世界選手権ストックホルム大会では初出場で3冠(男子団体・男子 シングルス・混合ダブルス)に輝いた。男子団体に3回連続優勝。伊藤繁雄、河野満とともに1960~70年代の日本の黄金時代を支えた。
運動能力が決して優れていたわけではなかった長谷川は、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」である。
人差し指がバック面の中央付近にくる「1本差し」と呼ばれる独特のグリップから放つ"ジェットドライブ"や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで観衆を魅了した。
本稿は卓球レポート1982年11月号に掲載されたものです。