私が初めてラケットを握ったのは、小学校5年のときでした。体育の時間、晴れの日は外でソフトボール、雨の日は講堂で卓球とだいたい決まっていました。私はそのころから卓球が好きだったのでしょう。毎週体育がある日がくると、雨が降らないかと願っていたものでした。6年生のとき市内の大会で個人優勝したのが私に大きな夢と希望を与えてくれました。それから、私の卓球選手としての生活が始まり、何事も卓球中心に回転してきました。中学も“県では何連勝”と伝統のある学校で、私もふたりの熱心な先生方からご指導を受けました。このころはまだ、角型ラケットに裏ソフトをはり、ドライブをかけていました。練習は一番熱心にやったように思います。しかし精神力の弱さから自分の力を出しきれずみじめな負け方を何回となくくり返しました。そのたびに明日からラケットを持つまいと物置の隅にかくしてきますが、いざその日になるとまた出してきて、つい練習に行ってしまいました。
◇前陣速攻にかわる
卓球への望みを捨て切れず、県でも卓球のさかんな久保学園高校に進みました。そして藤井弘三先生の熱心なご指導を受けました。当時中国が強く、前陣速攻がさかんにいわれておりました。私が前陣速攻に変わったのはこのころでした。ある日先生に、これからの卓球はテンポが速くなければ特に私のように身長の低い者にとっては、ショートをうまく利用した速い卓球でなければついていけないといわれ、自分でも納得でき練習に励みました。ラケットも丸型に変えました。
内容は、まずショートうちから入り一本一本フォア・バックの切りかえ、オールサイズにフォアハンドかショートで回してもらい、いつどこにきてもとれるようカンを養う練習をしました。そのときは後ろに台と並行に線をひき、線から足が出るといつも先生にどなられました。それに、相手に打たれたときのとるタイミング。これが毎日の練習でした。中学で基礎を教わってきたせいか比較的欠点が少ないと言われましたが、なんでも適当にできてこれといった武器がないのが最大の欠点でした。試合に弱い原因の一つは、ここにあったのです。
◇見て覚えたバッククロス
そこで何かを、と考えましたが、以前からバッククロスが好きでしたので、毎日1時間ぐらいずつバッククロスのツッツキ打ちを練習しました。思うようにいかず、あせりながらの毎日が過ぎてしまいました。そのころ幸い全日本選手権を見学しにいくことになり、一流選手のバッククロスの打ち込みを見ることができました。学校に帰り、自分も一流選手になったような気持ちでやっているうちにコツがわかりだし、10本のうち7、8本入るようになり、学校のリーグ戦でも上位のほうに進出するようになりました。このとき、見ることの大切さを思い知らされました。2年の夏のインターハイでベスト8に入り、全日本選手権のジュニアで2位になれたのも、このバッククロスがあったからだと思います。
しかし、バッククロスにだけ練習が集中し、フォアクロスがほとんどおろそかになってしまい、よく先生に「今野のフォアクロスは笊(ざる)だ」とか「トンネルだ」とか言われました。が、試合でフォアクロスだけついてくる選手はいませんでした。そしてアジア選手権(1967年8月シンガポール)のジュニア代表に選ばれ、思いがけなく優勝することができました。そして進学か就職かでさんざん悩みましたが、自分でどこまでやれるかをためすため後藤学長、長谷川さんなどのお話しもあって愛知工業大学に進学することにしました。
入学したころは、高校と違い昼=学校、夜=6時半から10時すぎまでの練習がからだにこたえ、また自分で練習計画をつくるでもなし、ただ夢中で毎日をすごしていました。
◇フォアクロスの強化とカット打ち
全日本大学対抗が近づいたころ、毎晩学長がみえられるようになり、練習内容やそのムードも緊張したものになってきました。私はフォアクロスの強化に努めました。スイング、腰の使い方、タイミングなど細かく教わりました。その結果、以前よりプレーに幅ができ自信をもってやれるようになりました。また男子選手が相手でしたので、強いボールやドライブは比較的とれるようになりましたが、女子のような軽いボールをほとんどとっていないので、ショート打ちを多く練習しました。トレーニングは、ランニング、腕立てふせ、腹筋、ダッシュなどで、これを男子といっしょにするのでほんとうに苦しく、ランニングのときも途中で歩こうと思ったことが何度もありました。が、そのたびに皆に励まされ、いつもラストでしたが最後まで走り通しました。
全日本選手権前の練習はゲーム中心でしたが、その他の自由練習のときは、フォア・バックの切りかえ、サービスからの3球目、レシーブからの4球目、カット打ちなどを練習しました。そして全日本で3種目に優勝できたのは運も良く、パートナーにめぐまれ、また学長が毎晩みえられたので練習が試合より緊張していたこと、技術的にも精神的にも絶好調だったことなどがあげられます。ただカットマンに対しての攻めが単調だったことを深く反省させられました。
現在はカットマン対策として、カット打ちからのスマッシュ、ストップからのスマッシュ、カット打ちでねばる、この三つを練習しています。ロングマンに対しては、フォアストレートへのスマッシュ、フォアストレートへのショート、フットワーク、3球目などを練習中です。また、先手必勝を目標とするためレシーブから攻撃するようにしています。スタミナの点ではまだまだ欠けていますが、どんな長時間にわたる試合でも耐えられる体力をつくるため、練習が終わったあとランニング、ダッシュ、馬飛び、腹筋、腕立てふせ、時にはサーキットなどのトレーニングをしています。
これからの課題として、どんなタイプの選手にも自分の卓球である前陣速攻をおし通せる選手に、そしてどんな場面でも動揺しない、からだは小さくとも心の広い選手になりたいと思います。技術面では、カンを養う、3球目、5球目の攻撃、柔軟性を養うなど、より高度な技術を目標にがんばりたいと思います。
こんの やすこ 愛知工業大学1年。岩手・久保学園高出。
19歳。右きき、ペン(丸型)、表ソフトの前陣速攻型。
身長152㎝、体重46kg。’68年全日本選手権で団体、
混合複、女子複に優勝。全日本ランキング4位。
(1969年4月号掲載)
◇前陣速攻にかわる
卓球への望みを捨て切れず、県でも卓球のさかんな久保学園高校に進みました。そして藤井弘三先生の熱心なご指導を受けました。当時中国が強く、前陣速攻がさかんにいわれておりました。私が前陣速攻に変わったのはこのころでした。ある日先生に、これからの卓球はテンポが速くなければ特に私のように身長の低い者にとっては、ショートをうまく利用した速い卓球でなければついていけないといわれ、自分でも納得でき練習に励みました。ラケットも丸型に変えました。
内容は、まずショートうちから入り一本一本フォア・バックの切りかえ、オールサイズにフォアハンドかショートで回してもらい、いつどこにきてもとれるようカンを養う練習をしました。そのときは後ろに台と並行に線をひき、線から足が出るといつも先生にどなられました。それに、相手に打たれたときのとるタイミング。これが毎日の練習でした。中学で基礎を教わってきたせいか比較的欠点が少ないと言われましたが、なんでも適当にできてこれといった武器がないのが最大の欠点でした。試合に弱い原因の一つは、ここにあったのです。
◇見て覚えたバッククロス
そこで何かを、と考えましたが、以前からバッククロスが好きでしたので、毎日1時間ぐらいずつバッククロスのツッツキ打ちを練習しました。思うようにいかず、あせりながらの毎日が過ぎてしまいました。そのころ幸い全日本選手権を見学しにいくことになり、一流選手のバッククロスの打ち込みを見ることができました。学校に帰り、自分も一流選手になったような気持ちでやっているうちにコツがわかりだし、10本のうち7、8本入るようになり、学校のリーグ戦でも上位のほうに進出するようになりました。このとき、見ることの大切さを思い知らされました。2年の夏のインターハイでベスト8に入り、全日本選手権のジュニアで2位になれたのも、このバッククロスがあったからだと思います。
しかし、バッククロスにだけ練習が集中し、フォアクロスがほとんどおろそかになってしまい、よく先生に「今野のフォアクロスは笊(ざる)だ」とか「トンネルだ」とか言われました。が、試合でフォアクロスだけついてくる選手はいませんでした。そしてアジア選手権(1967年8月シンガポール)のジュニア代表に選ばれ、思いがけなく優勝することができました。そして進学か就職かでさんざん悩みましたが、自分でどこまでやれるかをためすため後藤学長、長谷川さんなどのお話しもあって愛知工業大学に進学することにしました。
入学したころは、高校と違い昼=学校、夜=6時半から10時すぎまでの練習がからだにこたえ、また自分で練習計画をつくるでもなし、ただ夢中で毎日をすごしていました。
◇フォアクロスの強化とカット打ち
全日本大学対抗が近づいたころ、毎晩学長がみえられるようになり、練習内容やそのムードも緊張したものになってきました。私はフォアクロスの強化に努めました。スイング、腰の使い方、タイミングなど細かく教わりました。その結果、以前よりプレーに幅ができ自信をもってやれるようになりました。また男子選手が相手でしたので、強いボールやドライブは比較的とれるようになりましたが、女子のような軽いボールをほとんどとっていないので、ショート打ちを多く練習しました。トレーニングは、ランニング、腕立てふせ、腹筋、ダッシュなどで、これを男子といっしょにするのでほんとうに苦しく、ランニングのときも途中で歩こうと思ったことが何度もありました。が、そのたびに皆に励まされ、いつもラストでしたが最後まで走り通しました。
全日本選手権前の練習はゲーム中心でしたが、その他の自由練習のときは、フォア・バックの切りかえ、サービスからの3球目、レシーブからの4球目、カット打ちなどを練習しました。そして全日本で3種目に優勝できたのは運も良く、パートナーにめぐまれ、また学長が毎晩みえられたので練習が試合より緊張していたこと、技術的にも精神的にも絶好調だったことなどがあげられます。ただカットマンに対しての攻めが単調だったことを深く反省させられました。
現在はカットマン対策として、カット打ちからのスマッシュ、ストップからのスマッシュ、カット打ちでねばる、この三つを練習しています。ロングマンに対しては、フォアストレートへのスマッシュ、フォアストレートへのショート、フットワーク、3球目などを練習中です。また、先手必勝を目標とするためレシーブから攻撃するようにしています。スタミナの点ではまだまだ欠けていますが、どんな長時間にわたる試合でも耐えられる体力をつくるため、練習が終わったあとランニング、ダッシュ、馬飛び、腹筋、腕立てふせ、時にはサーキットなどのトレーニングをしています。
これからの課題として、どんなタイプの選手にも自分の卓球である前陣速攻をおし通せる選手に、そしてどんな場面でも動揺しない、からだは小さくとも心の広い選手になりたいと思います。技術面では、カンを養う、3球目、5球目の攻撃、柔軟性を養うなど、より高度な技術を目標にがんばりたいと思います。
こんの やすこ 愛知工業大学1年。岩手・久保学園高出。
19歳。右きき、ペン(丸型)、表ソフトの前陣速攻型。
身長152㎝、体重46kg。’68年全日本選手権で団体、
混合複、女子複に優勝。全日本ランキング4位。
(1969年4月号掲載)