~姉を目標に~
若い頃から卓球選手だった私の両親は、自宅に卓球場を作り、毎日楽しそうに汗を流していました。そんな両親を見て、私も小さい頃から自然にラケットを握りました。
小学校の頃は、冬の体育の授業で卓球がありましたし、近隣の小学校3校が集まっての卓球大会が行われることもあって、友だちを誘って家でよく練習したものです。
中学生になり、私は姉と同じ卓球部に入りました。が、部員が多く、台が廊下に3台しかありませんでしたので、ボールを打つよりサーキットトレーニングをする方が多い毎日でした。そのため、帰宅した後、夜間開放になっている高校に行って練習しました。
練習といっても、一般の人を相手にゲームばかりで、基本練習(フォアハンドのクロス打ち、ショート、フットワークなど)はあまりやる時間がありませんでした。
姉が北陸3県の中学大会で優勝したり、2、3年と全国大会で16以内に入ったりして、県では抜群に強かったので目標にしていました。しかし、私は3年生になって全国大会に出場しましたが、1回戦で負けてしまいました。「もっともっと強くなりたい」という気持ちでいっぱいになり、高校進学についていろいろ考え相談し、東京成徳短大付属高校に進みました。
希望に胸をふくらませてやる気いっぱいで高校生になった私でしたが、寮生活でしたのでいろいろな規則もあって、練習時間はあまり多く取れませんでした。
当時の練習内容は、フットワーク、サービス・レシーブからのオールなどを含めた基礎練習が主で、土、日曜日にゲーム練習を取り入れていました。
インターハイでは、2年生の時ダブルスでランク決定まで進みましたが、3年生の時のシングルスは2回戦で負けてしまいました。大変残念でしたが、高校時代は技術面よりも、寮生活の中から精神面で多くのことを学ぶことができ、貴重な経験だったと思っています。
~カット打ちとカット攻め~
大学は、「教師になりたい」ということもあって、日本体育大学に進みました。大学生になると寮生活にも慣れ、時間的にも随分余裕が出てきました。
1、2年の頃は、まず筋力、体力をつけることと基礎技術練習に重点をおきました。朝ランニングをしたり、サーキットトレーニング(特に腹筋を多く)をして体力向上を心がけ、技術面では規定練習を3~4時間した後、自主練習を1時間~1時間半ぐらいしました。
カットマンが苦手だった私は、特にカット打ちに重点をおいて、毎日必ず対カット練習をしました。
対カットの練習内容は
①ラケットを振り切った時、ラケットが台の中に入っているようにする(台について下がらないこと)
②ネットより自分側のコートを横に3分割(ネット側・真ん中・エンド側)の真ん中部分に入れる
③打球したボールは放物線を描くようにする。打球したボールの頂点は自領コートの中にあるようにし、ネット上10~15cmの高さでネットを越すように打つ。(自分が思っているよりもカットが切れていたり、切れていなかったりするので、多少変化の誤差があってもミスしないように)
...以上の注意点をしぼって、ノーミスで続ける練習をしました。ノーミスで続けられるようになると、「カット打ち」ではなく、「カット攻め」の練習へと変えていきました。
「カット攻め」の内容は
①ボールをバックに集め、ミドルに伸びるドライブ
②ボールをミドルに集め、バックに速い沈むドライブ
③ドライブだけでは勝てないので、ミート打ち(角度打ち)を混ぜてスマッシュ
カットマンに対して、ボールに強弱、長短をつけられるようになれば、ロングマンに対しても通用するということで、対カットから対ロングの練習へと課題を増やしていきました。同時に、自分のプレーを写真・ビデオに撮ってもらい、動きやフォームについても研究しました。
大学3年になり、東日本学生や全日本学生でランク入りし、徐々に自分の力を発揮できるようになりました。
その頃から、サービス練習に重点をおき、変化をつけるために手首の強化を常に心がけました。
サービス練習は、ある程度は誰でも練習するのでしょうが、私の場合、サービスによって相手の逆をつくということより、サービスでポイントできるようにしたかったので、とにかく時間をかけていろいろな変化サービスが出せるように、一球でも多く練習しました。また、オールに打ってもらって、"しのぎ"やロビングの練習に取り組み出したのもこの頃からです。
~韓国遠征の成果~
4年になり、日本体育大学と韓国の漢城大学との間に交流ができ、夏には韓国遠征の機会を得ました。観光の予定を返上し、積極的に練習やゲームに取り組みました。この韓国遠征でピッチの速さやサービスなど、たくさんのことを学びました。特に気がついたことは、韓国の選手は、構える時のラケット位置が高いということです。そこで私もさっそくラケットを高く構えてみました。
ラケットを高く構えると、ムダな動きが少なく、先に攻めやすくなります。ドライブとミート打ちをうまく使いわけることもでき、最初はまったく歯が立たなかったのですが、徐々に自分の思うプレーができるようになり、ついに1勝をあげることができました。帰国してからも、ラケットを構える位置を高くすることを忘れずに練習しました。この韓国遠征が一つのきっかけとなったのは事実です。また、この頃が技術的に最も伸びた時期だと思います。
学生生活最後の年に、全日本選手権で3位に入賞できたことは、本当に嬉しい思い出です。
~全日本前の重点練習内容~
社会人になり地元に戻った私は、学生の頃と同じ時間練習しようと思っても無理なので、自分の力を維持するために、どんなに少ない時間でも毎日必ずラケットを握るということが課題です。その点、家に卓球場があり、家族と練習できることは、大変恵まれています。
昨年の全日本選手権の前に力を入れた主な練習は
①フットワーク・切り替え(ピッチを速く、とにかく足を動かす)
②ドライブに強弱をつける
㋑手首を使って、小さいフォームでボールに回転をかける
㋺タイミングを速くし、フォアへは速いドライブ、バックへはループドライブの練習
③ドライブ+ミート打ち(ドライブをかけたあと、相手にショートで返してもらい、それをミート打ち)
④ドライブ処理、および"しのぎ"(バック側はショートで止め、フォア側は強打)
⑤サービス(同じモーションから多種類)
㋑ドライブ性ロングサービス、ナックル性サービスをオールコートへ
㋺横・下回転サービスを、長いのはサイドぎりぎり、短いのは台上でツーバウンド以上するようにオールコートへ
...などです。
幸い、2年連続全日本選手権で3位になりましたが、目標は日本代表として世界選手権に出場することです。今後も自分自身を磨き、研究心を忘れず、より一層努力していきたいと思います。そのためには、短い練習時間の中で、質の高い練習が必要です。特にバック系技術(バックロング、ショートなど)の向上、サービス、レシーブなどの課題に取り組みたいと思います。
また同時に、教師としての立場を生かして、一人でも多くの卓球愛好者を増やし、素晴らしい選手が育つように努めたいと思っています。
ヤン・ヨンジャ 韓国、22歳
右、ペン、裏ソフトドライブ主戦オールラウンド型。
反応の速さを生かしたドライブ+スマッシュが武器。
'83年世界単2位。世界・東京大会後、体調を崩したが、完全復調。ニューデリーでの活躍が見もの
(1986年9月号掲載)
若い頃から卓球選手だった私の両親は、自宅に卓球場を作り、毎日楽しそうに汗を流していました。そんな両親を見て、私も小さい頃から自然にラケットを握りました。
小学校の頃は、冬の体育の授業で卓球がありましたし、近隣の小学校3校が集まっての卓球大会が行われることもあって、友だちを誘って家でよく練習したものです。
中学生になり、私は姉と同じ卓球部に入りました。が、部員が多く、台が廊下に3台しかありませんでしたので、ボールを打つよりサーキットトレーニングをする方が多い毎日でした。そのため、帰宅した後、夜間開放になっている高校に行って練習しました。
練習といっても、一般の人を相手にゲームばかりで、基本練習(フォアハンドのクロス打ち、ショート、フットワークなど)はあまりやる時間がありませんでした。
姉が北陸3県の中学大会で優勝したり、2、3年と全国大会で16以内に入ったりして、県では抜群に強かったので目標にしていました。しかし、私は3年生になって全国大会に出場しましたが、1回戦で負けてしまいました。「もっともっと強くなりたい」という気持ちでいっぱいになり、高校進学についていろいろ考え相談し、東京成徳短大付属高校に進みました。
希望に胸をふくらませてやる気いっぱいで高校生になった私でしたが、寮生活でしたのでいろいろな規則もあって、練習時間はあまり多く取れませんでした。
当時の練習内容は、フットワーク、サービス・レシーブからのオールなどを含めた基礎練習が主で、土、日曜日にゲーム練習を取り入れていました。
インターハイでは、2年生の時ダブルスでランク決定まで進みましたが、3年生の時のシングルスは2回戦で負けてしまいました。大変残念でしたが、高校時代は技術面よりも、寮生活の中から精神面で多くのことを学ぶことができ、貴重な経験だったと思っています。
~カット打ちとカット攻め~
大学は、「教師になりたい」ということもあって、日本体育大学に進みました。大学生になると寮生活にも慣れ、時間的にも随分余裕が出てきました。
1、2年の頃は、まず筋力、体力をつけることと基礎技術練習に重点をおきました。朝ランニングをしたり、サーキットトレーニング(特に腹筋を多く)をして体力向上を心がけ、技術面では規定練習を3~4時間した後、自主練習を1時間~1時間半ぐらいしました。
カットマンが苦手だった私は、特にカット打ちに重点をおいて、毎日必ず対カット練習をしました。
対カットの練習内容は
①ラケットを振り切った時、ラケットが台の中に入っているようにする(台について下がらないこと)
②ネットより自分側のコートを横に3分割(ネット側・真ん中・エンド側)の真ん中部分に入れる
③打球したボールは放物線を描くようにする。打球したボールの頂点は自領コートの中にあるようにし、ネット上10~15cmの高さでネットを越すように打つ。(自分が思っているよりもカットが切れていたり、切れていなかったりするので、多少変化の誤差があってもミスしないように)
...以上の注意点をしぼって、ノーミスで続ける練習をしました。ノーミスで続けられるようになると、「カット打ち」ではなく、「カット攻め」の練習へと変えていきました。
「カット攻め」の内容は
①ボールをバックに集め、ミドルに伸びるドライブ
②ボールをミドルに集め、バックに速い沈むドライブ
③ドライブだけでは勝てないので、ミート打ち(角度打ち)を混ぜてスマッシュ
カットマンに対して、ボールに強弱、長短をつけられるようになれば、ロングマンに対しても通用するということで、対カットから対ロングの練習へと課題を増やしていきました。同時に、自分のプレーを写真・ビデオに撮ってもらい、動きやフォームについても研究しました。
大学3年になり、東日本学生や全日本学生でランク入りし、徐々に自分の力を発揮できるようになりました。
その頃から、サービス練習に重点をおき、変化をつけるために手首の強化を常に心がけました。
サービス練習は、ある程度は誰でも練習するのでしょうが、私の場合、サービスによって相手の逆をつくということより、サービスでポイントできるようにしたかったので、とにかく時間をかけていろいろな変化サービスが出せるように、一球でも多く練習しました。また、オールに打ってもらって、"しのぎ"やロビングの練習に取り組み出したのもこの頃からです。
~韓国遠征の成果~
4年になり、日本体育大学と韓国の漢城大学との間に交流ができ、夏には韓国遠征の機会を得ました。観光の予定を返上し、積極的に練習やゲームに取り組みました。この韓国遠征でピッチの速さやサービスなど、たくさんのことを学びました。特に気がついたことは、韓国の選手は、構える時のラケット位置が高いということです。そこで私もさっそくラケットを高く構えてみました。
ラケットを高く構えると、ムダな動きが少なく、先に攻めやすくなります。ドライブとミート打ちをうまく使いわけることもでき、最初はまったく歯が立たなかったのですが、徐々に自分の思うプレーができるようになり、ついに1勝をあげることができました。帰国してからも、ラケットを構える位置を高くすることを忘れずに練習しました。この韓国遠征が一つのきっかけとなったのは事実です。また、この頃が技術的に最も伸びた時期だと思います。
学生生活最後の年に、全日本選手権で3位に入賞できたことは、本当に嬉しい思い出です。
~全日本前の重点練習内容~
社会人になり地元に戻った私は、学生の頃と同じ時間練習しようと思っても無理なので、自分の力を維持するために、どんなに少ない時間でも毎日必ずラケットを握るということが課題です。その点、家に卓球場があり、家族と練習できることは、大変恵まれています。
昨年の全日本選手権の前に力を入れた主な練習は
①フットワーク・切り替え(ピッチを速く、とにかく足を動かす)
②ドライブに強弱をつける
㋑手首を使って、小さいフォームでボールに回転をかける
㋺タイミングを速くし、フォアへは速いドライブ、バックへはループドライブの練習
③ドライブ+ミート打ち(ドライブをかけたあと、相手にショートで返してもらい、それをミート打ち)
④ドライブ処理、および"しのぎ"(バック側はショートで止め、フォア側は強打)
⑤サービス(同じモーションから多種類)
㋑ドライブ性ロングサービス、ナックル性サービスをオールコートへ
㋺横・下回転サービスを、長いのはサイドぎりぎり、短いのは台上でツーバウンド以上するようにオールコートへ
...などです。
幸い、2年連続全日本選手権で3位になりましたが、目標は日本代表として世界選手権に出場することです。今後も自分自身を磨き、研究心を忘れず、より一層努力していきたいと思います。そのためには、短い練習時間の中で、質の高い練習が必要です。特にバック系技術(バックロング、ショートなど)の向上、サービス、レシーブなどの課題に取り組みたいと思います。
また同時に、教師としての立場を生かして、一人でも多くの卓球愛好者を増やし、素晴らしい選手が育つように努めたいと思っています。
ヤン・ヨンジャ 韓国、22歳
右、ペン、裏ソフトドライブ主戦オールラウンド型。
反応の速さを生かしたドライブ+スマッシュが武器。
'83年世界単2位。世界・東京大会後、体調を崩したが、完全復調。ニューデリーでの活躍が見もの
(1986年9月号掲載)