ダイナミックなフォアハンドの写真とともに、史上最強の攻撃選手と紹介されることの多い松崎キミ代。2度の世界チャンピオンタイトルをつかんだ彼女については、すでに『卓球やらせて』『世界の舞台で』(発行・卓球レポート編集部)の2冊の著書をはじめ、様々な形で世に紹介されている。しかし、世界の頂点に登りつめるまでのエピソードは、これらに語られたこと以外にもまだまだ存在する。彼女の才能、勝負への意識の高さ、卓球への真摯(しんし)な気持ち...。それらは時代を超えて、現代の若き選手にとって世界を狙うための何らかのヒントになるに違いない。
初めて見た卓球の驚きと、
『球の軌道』にひかれる
松崎キミ代と卓球との出合いは、小学5年生に入って間もない頃だった。ある日、放課後で友達と遊んでいた松崎は、講堂で"その光景"を見た。カーン、コーン、という音が室内中に響き、そこに2人の青年が汗を流して白球を追いかけていたのである。
「心地よい音と、何本も続くラリーに目がくぎ付けになった」と、松崎は当時の光景を思い返す。それからというもの、来る日も来る日もそのラリーを見るために講堂に通った。それまで遊んでいた友達を先に帰して青年たちがラリーするさまを飽きるまで見学し、日の落ちた道を一人で帰っていた。当時、帰り道には街灯などはなく、女の子が一人で帰るには怖すぎる道だったが、卓球を見た満足感からか、松崎は怖いなどと思っていなかったと笑う。「見学中に、時折こっちに飛んでくるボールを必死に追いかけ、ソフトボールでならした自慢の肩で、エイッと返球するだけで満足だったんです」と松崎は言う。
これが、松崎が初めて見た卓球であり、これだけならある女の子が卓球に興味を持ったというどこにでもある話として終わってしまうところだ。
しかし、松崎の場合、きわめて珍しい点を「卓球にひかれた理由の一つ」と挙げている。それは「球の軌道」である。松崎は、「ボールが直線的に飛んでいるように見えるのだが、ある地点から急激にドロップしていく。そのボールが描く放物線に非常に強くひかれた」と語っている。初めて卓球を見た者の中で、いったいどれだけの人が「球の軌道」に目をとめるだろうか。卓球競技の本質ともいうべきものである。彼女はわずか10歳足らずで、初めて見た卓球でその点に着目し、大きな魅力を感じたという。この事実は、松崎キミ代の才能と輝かしい将来を少なからず暗示していたのではないかとさえ感じる。
こうして、わずかながら卓球に近づいていくものの、松崎自身が卓球を始めるのは中学生になってからである。
道具を使った遊び、ソフトボールで
鍛えた肩がかけがえのない財産に
地元・上高瀬中学校(その後、高瀬中学校に名称変更)に入学した松崎は、当然のように卓球部に入部した。初めてラケットを持ち、卓球台についたときのことを松崎は今でも鮮明に覚えている。
卓球経験はないものの、講堂で見た光景は詳細に覚えていたため、こんなふうにサービスを出していたはず...と、見よう見まねでサービスを出したところ、自分のコートにワンバウンドもしないで、相手コートにかっ飛んでいってしまった。「見ていたのと、実際にやってみたそのギャップは相当なものでしたが、それでもとても心地よかった」と、松崎。かつて見た青年のようにラリーできるようになったのは、入部してからずっと後のことだった。
負けず嫌いの性格で、なおかつ卓球が大好きな松崎は、本来なら誰よりも長く練習して強くなりたいと思うはずなのだが、当時、彼女は家業の酒屋を手伝わなくてはならず、毎日練習することは到底できなかった。たとえ練習できる日であっても、わずか30分程度で切り上げなければならない。少しでも帰宅時間が遅くなろうものなら、両親から叱られ「卓球なんぞに...」と小言を言われる。そうした松崎自身ではどうにもならない事情から「卓球をしたい」という気持ちは次第にしぼんでいってしまった。
そんな閉まりかけた松崎の卓球人生の扉を開けてくれる人が現れた。それが、中学2年生になったとき赴任してきた森賢一先生である。もしも森先生によって卓球の素質が見出されていなければ、松崎はまったく違った人生を送っていたであろう。松崎は森先生を「恩人」と語っている。
松崎は小学校時代から野球やソフトボールが得意で、郡の中学校対抗のソフトボール大会に選ばれ、負けはしたものの見事にサードをこなした。偶然にもそれを見た森先生が彼女を「卓球部」に誘ったのだ。それも、いきなり「中学生大会で、香川県で1位にさせてやる!」という口説き文句つきだ。森先生は、卓球の技術というよりも子供の素質を見抜くことに優れ、そしてその選手に情熱を持たせてくれる、「監督の要素を持ち合わせた先生」であった。さらに、松崎が卓球部に入るにあたって、森先生自ら家に出向き、放課後は家業を手伝うのが当然で卓球はどうせ単なる遊びだろうと考えていた両親を粘り強く説得し、松崎が放課後に卓球ができる環境づくりを手伝ってくれた。「これで叱られることなく、堂々と卓球ができる」。松崎は、森先生と出会ったことに心から感謝した。
スポーツ選手に限らず何事かに大成した人は、必ずといってよいほど素晴らしい人との出会いを経験し、チャンスをつかんでいる。松崎も中学2年生にしてその"人"に出会い、そしてその人の言葉に「本当に、先生が私を1位にしてくれるのかしら...」と半信半疑ながらも、「やってみよう」と目標ができたのである。
片や森先生はというと、サードの守備の身のこなしから「単なる運動神経の良さだけでなく、松崎は飛んでくるボールに対してのリズム感、足の運びが優れており、それは卓球で欠かせないものだったので卓球を勧めたのだ」と、松崎を評していた。
この評価については、松崎自身も「男の子がする遊びが得意で、特にクギ立て(土にクギを、できるだけ敵のそばに立てて囲んでいく遊び)やメンコなど、道具を使って標的に当てる遊びは自分でも驚くほど上手にできた」と言っている。加えて野球やソフトボールが好きだったおかげで遠投を得意とし、女の子の中では群を抜いて肩が強かったという。余談だが、小~高校時代の松崎は持久力が乏しく、走ることを苦手としていた。
しかし、こうした道具を使った遊びや他のスポーツなどで培ったカンや筋肉などは、のちの松崎の日本および世界での活躍の基盤となったことは間違いない。遊びと他のスポーツは、まさにかけがえのない財産であったのである。
男女一緒の練習試合。でも
男子にも「絶対に負けない」
松崎は何より「負けるのが本当に嫌いだった」と言う。たとえビー玉や独楽(こま)回しなどの単なる遊びであっても、たとえ男子と競うものであっても、「絶対、負けたくない」という気持ちでいっぱいだった。後述するが、松崎は毎日行われる練習試合で、常に勝つことを考えていたという。ともすればおざなりになりがちな部内の練習試合を、全力で戦い、負けでもしようものなら、次こそ絶対に勝ってやると闘志を燃やす。練習時間は日没までと短く、練習内容は、情報が多く技術指導がある程度確率されつつある現代卓球の練習内容に比べたら大変シンプルなものだが、競技に必要不可欠な勝負への執念はすさまじいものがあった。
中学校での部活動は、教室内に卓球台を持ち込み、日が沈むまで行うというものだった。
【練習内容】
1.フォアハンドロングのクロス打ち(30~40分間)
2.男女一緒に試合
クロス打ちでは、試合までに調子を出すことに集中し、また相手に打ち負けることだけはしないようにと心がけたという。
ショートやツッツキ、サービスなど、その他の技術はすべて部内の練習試合の中で覚えていった。負けず嫌いの松崎は、サービスが取れなくて負けた試合の後は、練習用の台でレシーブ練習を行った。また、試合中に相手のサービスが取れないときは、ゲームの間にいろんなレシーブ法を試みて、何とか試合中に効果的なレシーブ法を見つけられるように努力した。負ければ当分試合の順番が回ってこないのだから、誰もが必死に試合に勝とうとする。その中でも、松崎は相手のサービスの特徴、スイングのクセ、弱点などを観察し、人一倍「勝ち」にしがみついた。
この毎日の真剣試合は、全国大会などで初めて当たった選手に対し、サービスの攻略法、技術の弱点などを素早く把握し戦術を組み立てるのに、非常に役に立ったという。
中学3年生になり、森先生が約束したとおり松崎は見事、中学生大会で香川県1位に輝いた。
初出場のインターハイで14位
高校は地元の高瀬高校に入学。中学にも増して日々の練習に打ち込んだ。もちろん、女子ばかりではなく男子の選手とも真剣試合をしたのは中学時代と同じである。松崎はあっという間にその才能を開花し、高校1年生のインターハイでは強豪選手を破り、いきなり14位と好成績を残した。
高瀬高校では、フォアハンド、ショート、ツッツキ、ツッツキからの攻撃といった練習も増えたが、必ず試合も行った。高校に入ってからは、4キロほどの池の周りを走るのが日課になっていたが、走ることが苦手な松崎は、最初の頃は途中から歩いていたという。
さて、高校時代の松崎はロングサービスからの3球目攻撃を得意としていた。しかし、彼女の場合サービスはフォアサービスしかなく、1年生のインターハイではバックサービスのなさを痛感し、自宅でも暇があればバックサービスの練習に時間を費やした。
また、レシーブに回っても、ロング戦の打ち合いだけは負けたくなかった松崎は、何とかして相手のロングサービスを封じ、有利な展開に持っていけるような練習を考えた。「飛びつきのレシーブはたくさん練習したし、レシーブの時の出足の速さ、タイミングに気をつけた」と松崎は語る。
松崎の理想は男性的な卓球であり、ロング戦は必ず制することである。
勝つための試行錯誤
松崎は高校時代で、当時のありとあらゆるラバーを試している。一枚ラバー、裏ソフトラバ、一枚ラバーに薄いゴムのようなものを貼ったもの、スポンジ、マジックラバーなど、自分に適したラバーを見つけようと必死だった。とくに高校3年生のインターハイでは、良い成績を残すことが将来の道を切り開く条件と考えており、両親を説得するためにも「上位に入らなければならない」と心に誓っていた。
松崎は当時の全日本チャンピオンである田中利明選手の豪快なフォアハンドに憧れており、田中選手と同じ裏ソフトラバーに替えてみた。しかし、どのような打ち方をしても威力のあるボールは打てないし、安定性もない。「これではインターハイ本戦で成績を残せない」。焦りばかりがつのる。
そこでわらにもすがる思いでトライしたのが、表ソフトラバーだった。当時一枚ラバーの選手が多く、表ソフトはそれに比べるとスピードがあり回転がかかるので、「相手を打ち抜く」卓球を目指す松崎にとってはベストパートナーに思えた。インターハイまであと1カ月を切っており、不安はもちろんあったが、松崎は賭(か)けに出た。「裏目に出て目標の上位に残ることができなかったら、そのときは潔く大学進学はあきらめよう。高校時代にそれほど進歩がなかったということだ」
ふたを開けてみると、インターハイでの松崎の快進撃は続き、気がつけば準優勝であった。決勝は苦手なカットマンに1-2で負けたが悔しさはなく、松崎の胸は「これで大学で卓球をするんだ」という強い意志に満ちあふれていた。
その翌年、松崎は東京の専修大学に入学した。
(2000年6月号掲載)