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卓レポ名勝負セレクション 
The Little Hercules カリニコス・クレアンガ Select.1

 卓球レポートは国内外のさまざまな大会へ足を運び、およそ半世紀にわたり、あまたの熱戦を映像に収め続けてきた。その膨大な映像ストックの中から、語り継がれるべき名勝負を厳選して紹介する「卓レポ名勝負セレクション」。
 今回は、豪快なプレースタイルで「小さなヘラクレス」と称されたクレアンガ(ギリシャ)の名勝負をお届けする。
 初めに、何志文(スペイン)との2003年世界卓球選手権(以下、世界卓球)パリ大会男子シングルス2回戦をお届けしよう。

■ 観戦ガイド
卓球に懸け、16歳の時に亡命を決断したクレアンガ
決断の肯定を目指し、堅守の何志文に猛然と立ち向かう

 小柄な体格ながら、豪快なフルスイングを連発するプレースタイルでファンを魅了したクレアンガ。その勇壮なプレーぶりからギリシャ神話に出てくる英雄・ヘラクレスに例えられるが、クレアンガの生まれはギリシャではなく、ルーマニアだ。
 クレアンガは、ピストリツァというルーマニア北部の都市に生を受けたが、当時、独裁政権下にあったルーマニアでスポーツに打ち込むのは簡単なことではなかったようだ。クレアンガは16歳のとき、ヨーロッパジュニア選手権大会期間中にギリシャへ亡命する。

「僕がギリシャに亡命した理由は、100パーセント卓球のため。(チャウシェスク政権下の)あの時代、ルーマニアに残っていたら、卓球を続けることはできなかった。だから、亡命を決意した(卓球レポート2003年12月号)」

 卓球に懸け、祖国を脱したクレアンガ。それが、どれほどの決断だったのかは余人が推し量れることではない。クレアンガは卓球レポート2003年12月号のインタビューでギリシャへの亡命について多くを語らなかったが、亡命当時16歳の彼が世界のトップレベルまで行けるという保証はどこにもなく、それは大きなリスクを背負った決断だったに違いない。
 しかし、クレアンガは亡命してから14年の時を経て、2003年世界卓球パリ大会に詰めかけた大観衆の前で自身の決断が正しかったことを証明する。
 
 世界ランキング9位(2003年5月1日発表)で世界卓球パリ大会に臨んだクレアンガは、男子シングルス2回戦で何志文(スペイン)と対戦する。
 何志文は、サウスポー(左利き)のペン表ソフト速攻型で、元中国代表の経歴を持つ帰化選手だ。当時、40歳を越えるベテランである。年齢に加え、世界ランキングもパリ大会当時62位と高くはなかったが、最強中国の代表として鳴らした絶妙なボールさばきとコース取りは健在で、何志文は難敵として世界から警戒されていた。

 試合が始まると、クレアンガの強烈な攻めと何志文の堅守がかみ合い、見応えのあるラリー戦が続く展開になる。クレアンガは持ち味のフルスイングで攻めかかるが、しかし、何志文の詰め将棋のようなコース取りに振り回されてゲームカウント1対3と追い込まれ、マッチポイントを握られてしまう。
 絶体絶命の場面をクレアンガはどのように脱するのか。窮地にあってもフルスイングをやめないクレアンガの勇気に満ちたプレーは必見だ。また、クレアンガの豪快なプレーもさることながら、名人芸のようなサービスの配球とラケットさばきでクレアンガを翻弄する何志文のプレーも、観る者に大きなインスピレーションを与えてくれるに違いない。
 男子シングルス2回戦とラウンドこそ早いが、クレアンガの「剛」と何志文の「柔」が鮮やかなコントラストを描きながらせめぎ合ったこの試合は、知られざる名勝負だ。
(文中敬称略)

(文/動画=卓球レポート)

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