第一章 わが卓球の創造 -選手、役員時代-
六 戦後の卓球復活と特殊サービス
昭和二十年八月六日、広島市宇品十丁目のバラック兵舎にいた私は、あの原子爆弾の洗礼を浴びたが(もう十秒早くボタンが押されていたら、その時に即死)、幸運にも生き残り、八月十五日終戦、九月九日に郷里柳井に復員した。
その当時、すべての日本人が虚脱状態であった。私は自宅の戸棚から古いラケットや、とっておきの何ダースかのボールを探し出し、自家の菓子工場に古い卓球台を持ち込んで、翌日から練習を開始した。先輩も後輩も集まってきた。数日後、“柳井卓球研究会”という小さい看板を揚げ、道行く人々の関心を集め、練習にも熱が入ってきた。
しかし数ダースのボールは、たちまち残りがなくなってきた。割れたボールを何とかノリで貼りつけて使ったのもそのころのことだった。その頃、私の妻の両親の不幸が知らされてきた。妻の実家は東京で戦炎にあい、両親と妻の姉妹弟なども全員火傷していたのである。両親の病気見舞いとか、その後の葬儀がつづき、私は妻に代って度々上京しなければならなかった。
多くの人々が味わったことであるが、こうした不幸な出来事が、私にとっては後の戦後の仕事の道をきり開くきっかけになっていったのである。
実のところ戦後のわが家はどうして生活するかに迷っていた。戦前の菓子製造業を復活するかどうか、これがまず第一であるが、父はあきらめようと云った。当時、菓子の製造を始めるには、材料(小麦粉とか砂糖とかタマゴなど)はいずれも統制品であり、ヤミをやらねばできない商売だった。そんなわけで、思いきって製造工場の器具類を売り払った金で当分の生活費にあてていた。
父が私にすすめたのは、彼自身が好んでいた美術商への道だった。東京の知人を紹介する、と云ったが、私はいやだった。そのころ私にびっくりする話が持込まれた。昭和十七、八年ごろ奈良市郊外の国民勤労訓練所時代の私の上司だった山村三平医学博士からだった。「神戸で進駐軍相手にキャバレーを開くことになった。しっかりした支配人が欲しい。ぜひ君にやってもらいたい」というものだった。
尊敬していた山村先生からのお話であり、仕事としては面白いことかもしれないが、私には全然興味のわかない話で、お断り申上げた。
そんなことがあったが、たびたび上京の途次、大阪と東京をかけ廻って卓球のボールをさがした。そのついでに友人達から依頼された野球ボールやテニスやバレー用具などをさがしてあっせんしていた。田舛に頼めば運動具が手に入る、という噂が広まって行き、やがて、じゃあ運動具店をやろうか、ということで父に相談した。
父はよかろう、と云った。私は少し資本を出してくれとお願いしたところ「それはダメだ。商売というものは無から有を生み出していくものだ。自分でやれ」という。怒った私は、自分のカメラや身ぐるみ売り払った金や米で仕入れをはじめた。柳井卓球協会長であった吉村和人氏が、三千円貸して下さり、妻の実家がこの金を使え、と云って四千円貸して下さったのが、すべての資本だった。
このようにして昭和二十一年七月に、タマス運動具店を開業したわけであり、旅行困難な時代だったが、毎月大阪へ四回、東京へ二回、仕入れのピストン旅行をくりかえしていた。
この一方で、私の選手生活も精力的に始まっていた。六月、大阪で開催された戦後初の公式戦、東西対抗戦には私は西軍代表の中に選ばれ、二回の対戦で二勝をあげ、十対九で勝った西軍のため健闘した。その翌日の東西二十名で行われた個人トーナメントで、私は準決勝に進出、抜群の強さを誇った藤井則和選手とセットオールの接戦で敗退した。
この結果が評価され、その年の十一月戦後第一回の国体兼全日本選手権大会(於宝塚)で、私は第七位にシードされ、決勝に進出し藤井選手に敗れたが、全日本第二位、ダブルスでも自分で指導した後輩の光田利之君と組んで第二位、混合複も同じく私が育てた高校生村井シゲ子君と組んで第三位となった。一躍全日本の上位選手となった私は、その翌年四月の山本杯争奪全国選抜大会でも第二位となるなど、その後四年間連続ランク上位を維持することができた。
一方、柳井卓球協会の西日本選手権大会を復活、第一回は二十一年六月に開催、この大会で私は単で優勝、複でも光田利之君と組んで優勝した。
このようにして、ハードな仕事をこなしながらも、なぜ私が好成績を上げることができたかについては、いろいろな理由がある。
まず第一は戦前に今選手の卓球を模倣したために陥入ったスランプから脱し、自己の持ち味を生かす自然のグリップを会得したことだ。第二には戦時中の私は体操の指導者としての生活をし、体操の研究をしていたことによってボディワークがよくなっていたことである。このボディワークという言葉は、当時私が初めて言い出した言葉だ。
第三にはサービスとフットワークの研究で、ずば抜けた努力をした、ということだ。体の小さい私は、逆に背の低い人しか出せない独特なサービスを、といろいろ研究してみた。
沢山の種類のサービスを考え出し、ひそかに訓練してみた。その最たるものは、しゃがみ込んで出すカットサービスだ。全日本選手権でも大きな威力を発揮した。一年後からは全国的にマネをするようになり、これがだんだんエスカレートして現在の投上げサービスになってきた、と考えている。
サービス技術も人マネではダメである。自分が苦心して考え出したものは根が深く、ひと味違った威力がひそんでいるのである。私はフォアの前から、しゃがみ込んで相手のバックのネット際に出すカットサービスを基本にした。
ネット際に小さい球、しかも物凄く切れた球でなければならない。相手がそれになれてきても、返球はフォアに上ってくるから第三球で勝負できる。やっとなれた、と思う頃には全く同じフォームでストレートに深くつく球、そして同じ構え、同じフォームでクロスにスピードボールも織り込むのである。
この小さい基本の球、これは小さく低いバウンドでなければならない。相手のグリップの特徴によって、相手のバック前よりもミドル前の方が効く場合もある。こうした考え方は、その一例を述べたに過ぎない。
サービスは試合に勝つための最も効果的な武器である。この練習は相手なしで一人でやれる。恵まれぬ環境にあった私は、サービス技術とフットワークだけは日本一になろう、という決心をし、その努力をやったのである。
[卓球レポートアーカイブ]
「卓球は血と魂だ」 第一章 六 戦後の卓球復活と特殊サービス
2013.05.16
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