「日本の友人と世界の卓球界に『三十六計と卓球』を捧げる」 荘則棟
第十七計 抛磚引玉 レンガをもって玉を引き出す(エビで鯛を釣る)
魚を釣る場合、まず餌(えさ)を付ける。玉を得るため、まずレンガを投げる。
小さいもので大を誘う。安い物で高価な物を引き寄せる。小さな利をもって大きな利益を得る。
古代戦術の例
紀元前700年、楚国(そのくに)が絞国(こうのくに・春秋時代の小さな国)を攻撃していた。
絞軍は城門を閉じ中にたてこもった。楚軍は数回攻撃を試みたが、城を攻め落とすことはできなかった。
そこで、楚の武王は大夫(官名)屈瑕(くつか)の策を採用した。
すなわち絞軍の軽率、短気、無策、貪欲(どんよく)で無計画な欠点を利用した策である。
武王は兵に命じて毎日柴(しば)刈りに行かせた。山の中は地形が複雑で待ち伏せに最適であるが、最初は護衛を一切つけなかった。
すると絞軍は城から出てきて、柴を全部盗んで行った。得をした絞軍はますます大胆になり、競(きそ)って略奪を始めた。
ある日、絞軍は山のふもとまで追いかけてきた。そこには楚軍が待ち伏せしており、絞軍の退路を遮断(しゃだん)した。
一方、城を守っている絞兵は孤立して弱くなり、楚軍は綱梯子(つなのはしご)を使って入城し、絞軍は投降した。
卓球における応用例
私が卓球を習い始めた頃は、攻撃、カット、ペンタイプ、シェークタイプなど、すべてを練習した。
しかし中国男子シングルスチャンピオンの王伝燿(ワンチュアンヤオ)選手の、ペンタイプ中・後陣両面攻撃を見て以来、これこそが自分の習得すべき技であり、最も先進的な打法であると感じ、思わず強烈に引き寄せられた。
寝食も忘れて動作の模倣(もほう)練習を始めた。しかし、しばらくしてから、自分は体が小さく腕の力もさほど強くないので、この打法が自分に完全にマッチングしていないことに気が付いた。
その時、私は苦悩、迷い、焦りのどん底に陥った。
ただし自分の性格と技法からみて、両面攻撃が最適だと考えていた。
ある日、女子トップ選手である孫梅英(スンメイイン)選手と男子の呉宏(ウーホン)選手が、練習試合をしていた。突然彼女は弾くような一撃をした。その力はさほど大きくなく、そしてまた相手の台には届かなかったが、弾くような一撃は実に素早く、突然で、意外性に満ちていた。もし球が相手の台に届いていたら、呉選手はその球を受けることができなかったであろう。
私はその時、この潜在力を秘めた動作を、自分の得意技にすることを心に決めた。
それ以来私は大きな情熱を抱いて、弾く一撃ができるように練習に専念した。
一時期の実践錬磨により、動作はどうにか様(さま)にはなったが、まだひよこの状態であり、速度と力の威力が欠けていた。
その後さらに模索した結果、バックハンドでは球を打つ前に肘関節を突き出し、球を打つと同時に肘関節を素早く後ろに引き、モーメントを大きくすることにした。
この動作は物理学のテコの作用と同じで、技術は一歩前進したことになる。
私はこれに勇気付けられ、手首の作用についても研究した。
手首は調節の機能のみならず、本当の潜在力と役目は、独特の発力機能であることが分かった。
そこで手首の「後ろを引き、前を投げ出す(手首を利かす)動作を完成させ、バックハンドからの爆発力も威力を増し、私の前・中陣両面攻撃法が完成したのである。
前人の触発誘導がなければ、状況は別のものとなっていただろう。
感想
1.鋭敏な観察力と洞察力を養い、日常生活の平凡な出来事の中から、瞬時に消え去るが大きな潜在力と生命力を持つ「芽」を捕らえることが大事である。
もちろん芽を育てるのは容易ではないが、この芽は歴史的発展を成すこともある。
ただし、この芽は勤勉、多聞で思考と観察に満ち、新鮮な事柄を追い続ける人にのみ縁がある。
2.芸術の生命は新しい創作である。抛磚引玉が一度出来たとすれば、それは一つの前進であり発展である。これを何度も繰り返し、逐次発展していく。
3.新しいものを創作できないものは英雄にはなれない。これは規則であり哲理でもある。
諸家の長所を学び、吸収し、蓄え、自分の元来の基礎の上でこれを錬磨し、純度を高め、成熟させる。技が熟せば巧(こう)となり、巧となれば変化が生じ、変化は新しきを導き、高い技術レベルへ発展していき、優越性と生命力が生まれる。
4.抛磚引玉は、先にレンガを必要とし、その後に玉を見る。レンガを大事にしないものには玉は見られない。思考、連想してこそ、それらの類似に出会い、またこれを自分の得意技にすることが出来る。
5.物を投げれば反響する。水が石に当たれば音が出る。人が志を抱けば功を成す。
紀元前700年、楚国(そのくに)が絞国(こうのくに・春秋時代の小さな国)を攻撃していた。
絞軍は城門を閉じ中にたてこもった。楚軍は数回攻撃を試みたが、城を攻め落とすことはできなかった。
そこで、楚の武王は大夫(官名)屈瑕(くつか)の策を採用した。
すなわち絞軍の軽率、短気、無策、貪欲(どんよく)で無計画な欠点を利用した策である。
武王は兵に命じて毎日柴(しば)刈りに行かせた。山の中は地形が複雑で待ち伏せに最適であるが、最初は護衛を一切つけなかった。
すると絞軍は城から出てきて、柴を全部盗んで行った。得をした絞軍はますます大胆になり、競(きそ)って略奪を始めた。
ある日、絞軍は山のふもとまで追いかけてきた。そこには楚軍が待ち伏せしており、絞軍の退路を遮断(しゃだん)した。
一方、城を守っている絞兵は孤立して弱くなり、楚軍は綱梯子(つなのはしご)を使って入城し、絞軍は投降した。
卓球における応用例
私が卓球を習い始めた頃は、攻撃、カット、ペンタイプ、シェークタイプなど、すべてを練習した。
しかし中国男子シングルスチャンピオンの王伝燿(ワンチュアンヤオ)選手の、ペンタイプ中・後陣両面攻撃を見て以来、これこそが自分の習得すべき技であり、最も先進的な打法であると感じ、思わず強烈に引き寄せられた。
寝食も忘れて動作の模倣(もほう)練習を始めた。しかし、しばらくしてから、自分は体が小さく腕の力もさほど強くないので、この打法が自分に完全にマッチングしていないことに気が付いた。
その時、私は苦悩、迷い、焦りのどん底に陥った。
ただし自分の性格と技法からみて、両面攻撃が最適だと考えていた。
ある日、女子トップ選手である孫梅英(スンメイイン)選手と男子の呉宏(ウーホン)選手が、練習試合をしていた。突然彼女は弾くような一撃をした。その力はさほど大きくなく、そしてまた相手の台には届かなかったが、弾くような一撃は実に素早く、突然で、意外性に満ちていた。もし球が相手の台に届いていたら、呉選手はその球を受けることができなかったであろう。
私はその時、この潜在力を秘めた動作を、自分の得意技にすることを心に決めた。
それ以来私は大きな情熱を抱いて、弾く一撃ができるように練習に専念した。
一時期の実践錬磨により、動作はどうにか様(さま)にはなったが、まだひよこの状態であり、速度と力の威力が欠けていた。
その後さらに模索した結果、バックハンドでは球を打つ前に肘関節を突き出し、球を打つと同時に肘関節を素早く後ろに引き、モーメントを大きくすることにした。
この動作は物理学のテコの作用と同じで、技術は一歩前進したことになる。
私はこれに勇気付けられ、手首の作用についても研究した。
手首は調節の機能のみならず、本当の潜在力と役目は、独特の発力機能であることが分かった。
そこで手首の「後ろを引き、前を投げ出す(手首を利かす)動作を完成させ、バックハンドからの爆発力も威力を増し、私の前・中陣両面攻撃法が完成したのである。
前人の触発誘導がなければ、状況は別のものとなっていただろう。
感想
1.鋭敏な観察力と洞察力を養い、日常生活の平凡な出来事の中から、瞬時に消え去るが大きな潜在力と生命力を持つ「芽」を捕らえることが大事である。
もちろん芽を育てるのは容易ではないが、この芽は歴史的発展を成すこともある。
ただし、この芽は勤勉、多聞で思考と観察に満ち、新鮮な事柄を追い続ける人にのみ縁がある。
2.芸術の生命は新しい創作である。抛磚引玉が一度出来たとすれば、それは一つの前進であり発展である。これを何度も繰り返し、逐次発展していく。
3.新しいものを創作できないものは英雄にはなれない。これは規則であり哲理でもある。
諸家の長所を学び、吸収し、蓄え、自分の元来の基礎の上でこれを錬磨し、純度を高め、成熟させる。技が熟せば巧(こう)となり、巧となれば変化が生じ、変化は新しきを導き、高い技術レベルへ発展していき、優越性と生命力が生まれる。
4.抛磚引玉は、先にレンガを必要とし、その後に玉を見る。レンガを大事にしないものには玉は見られない。思考、連想してこそ、それらの類似に出会い、またこれを自分の得意技にすることが出来る。
5.物を投げれば反響する。水が石に当たれば音が出る。人が志を抱けば功を成す。
(翻訳=佐々木紘)
筆者紹介 荘則棟
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
本稿は卓球レポート1993年12月号に掲載されたものです。