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「卓球は血と魂だ」 第二章 一-ニ、全力つくした主将と監督

第二章 どうしたら勝てるか

一 感謝はするが満足はせず

ニ、全力つくした主将と監督


 個人戦出場を引退したあとの目標は、柳井町を全国都市対抗で優勝させることだった。(第一章七参照

 昭和二十八年八月十四日、私が三十三才になる直前、遂に柳井町(その翌年に柳井市)が全国優勝を遂げた。その夜、開催地の岡山市の旅館で、選手団はささやかな祝勝会をひらいた。みんな七年間の宿望を成し遂げ、うれし涙を流し、会は盛り上った。だが、一時間もすると私は何だか淋しい気持になってきた。

 主将として目標が達せられたあとのむなしさだった。私と共にチームを引っ張ってきた監督の中村清二先生も不思議に同じ気持になってきた様だった。「田舛さん、何だかむなしいねえ」と中村先生が云ったのである。「そうなんですよ。われわれは、やりましたけどねえ」と私はそう云っただけで、言葉がつづかなかった。

 七年間の労苦は報いられた。とてもムリだと思っていた私達の目標は達せられた。今ごろの言葉で云えば「ヤッターッ!」ということだろうが、私達柳井チームにとっては、とてもとても、そんな軽薄なものではなかった。三位が三度、準優勝が二度だから、他チームからは恐れられてはいたけれど、どこから選手を借りることも導入することも出来ない、人口二万の田舎チームにとって、全国優勝のカベは厚かった。もちろん、シニアの土井章選手以下の諸氏は常に「柳井一家」の意識に燃えて団結し、練習も試合もよく戦った。

 中村清二監督と主将の私は汽関車の役目で皆を引っ張ってきた。だが、長い間にはその二人どちらかがバテそうになったり、弱気になる時もあったが、必ず一方が相手を叱った。文句を云った。文句を云われた方はハラが立ったが、二、三日もすると気をとり直してがんばる気になった。

 仕事のため個人戦を引退した私にとって、団体戦で勝たねばならぬ、というのは楽なことではなかった。時には「ここまでやったんだから、もういいではないか」と思うこともあった。このような経過があり、やっと七年目にして手に入れた大カップなのに、燦然たるマッカサー元帥杯を前にして、二人とも無性に淋しくなったのである。

 執念に燃えた男の常習なのであろうか。私にはよくあることなのだが、私は中村先生を見て熱い共感をおぼえた。二人はその言葉は誰にも云わなかった。そのあと二人は、まわりの選手たちから「今夜は飲みましょうよ」とさかんに励まされたのである。

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