二 コーチの哲学
ニ、ベンチの任務は激励
私自身、自分の試合の時には大声を出したりしない方だったが、時々は自分をはげますためのカケ声をかけた。自身の気力をふるい起すためだ。私は主将とか監督とかでベンチに入ると、どうも他の人より大声を出していたようだ。
時には、他の人々から見られて恥ずかしいな、と思いながらも、選手を勝たせたい一心で、つい声が出てしまうのだった。
ただし、この声の出し方には注意が肝要だ。やたらに大声を出しつづけるのがよいわけではない。また長いことばをしゃべるのは良くない。試合をやっているのは選手だから、その自主的敢闘精神を高めるためのカケ声でありたい。試合中、やたらとあっちだ、こっちだとか、打てとかねばれとか、別々の指示を云って選手を困らせる場面をみることもある。
ベンチの指示は一本になっていないといけないし、ベンチに依頼心を起させるのはもっと悪い。伊藤を支援する時のベンチは大津監督に私が支援する形をとり、その二人の意志は一致していた。ここに強さがあり、力強さが選手にもヒシヒシと伝わるだろう。三者が一体になれたのである。
私は世界選手権大会等でただ一人で日本選手のコートサイドで勝手に応援していたこともある。一九六五年リュブリアナ大会とか、六七年ストックホルム大会などは、個人戦になると、同時間に日本選手が四人も試合している場面が起った。誰一人応援がいない場面が出てくると、私のような者でも役に立つ。
ある時、コートサイドで「ヨーシ!ヨシ!」、と大声でやっていた。後ろから私の肩を叩く人があるので振りかえると顔見知りの大会役員だ。「ホワット・イズ・ミーン・ウーシュ!」(ウーシュという意味は何か)と聞いている。顔つきから見て私を叱りに来たのではない、とわかり、「それはグッドという意味だ」と答えたら、「オーケー、サンキュー」と云って帰っていった。ヨーシはウーシュと聞こえるらしい。
私がベンチで、選手に一番多く声をかけるのは、このヨーシ!だ。ヨーシ!とかガンバレ!なら益あって害はない。しかし、他の言葉なら、言うべき時が大切だ、と思う。チャンス!バンカイ!リード!あと一本!そこだそこだ!など、その場面に適した言葉がある。いまやっている選手と同じ気持で、彼の気力を盛り上げてやりたいものである。
拍手は大いによい。次に自分の試合が迫っている選手は拍手をしない方がよい。声だけで応援すべきだ。他の選手たち、特に試合のないベンチの人達はしっかり拍手をしてやらねばならぬ。ベンチの指導者は、ベンチ全体を盛り上げ、選手に自信と信頼を与え、選手を燃やさなければならないのである。
もう一度、伊藤-シェラー戦にふれるが、私が第二セットの終盤でベンチに走った時、実は何も自信はなかった。しかし、そんな素振りは見せてはならない。苦しんでいる時の選手は患者であり、コーチはよい医者でなければならない。医者は自信と威厳をもっていなければ患者から信頼されない。本当のことを云えば、選手とコーチ監督は一緒に苦しみ、一緒に戦うものだが。
あの時、伊藤はカゼをこじらせて肺炎にかかってしまっていたようなものだ。肺炎は四十度の高熱が何日もつづく。平素から心臓の弱い人はその高熱に心臓がまいって死んでいくのである。人間が全力あげて病気と闘かう時に高熱が起る。肺炎などの高熱をともなう病気になっても、ふだん心臓の強い人はそれに耐え、一週間がんばる力があれば肺炎などの熱病で死ぬことはない。
この時の伊藤は、第三セットが四十度の高熱との戦いだった。心臓の強い選手、即ち平素からいかなる形の苦しみにも耐える訓練を体験している選手は、その苦しみに耐え抜くのである。平素の錬磨が甘い選手はこんな苦しいせり合いになると、試合を投げ出すか、気力が不足して相手の勢いに押し切られるのだ。
伊藤-シェラー戦の高熱は第三セットだった。そして第四セットの前半戦だったが、ここでシェラーの方の心臓が破れたのである、と私は思う。
伊藤の優勝が決った時、私と親しかったチボ・ハランゴゾ元選手がとんできた。「伊藤と田舛のコメントを聞きたい。この試合はあんたの勝利だ」と云った。ちなみにドイツの監督は彼の弟のハランゴゾ氏(元ユーゴの名選手)だった。
その監督も私の親しい人だったが、これは日本とドイツの戦いだ。また、外から見れば田舛の勝利のように見えたのかもしれないが、実は大津監督の冷静な分析が私に自信を与えたのである。私は大津監督を支援しただけである。くり返して云うが、ベンチで最も大切なことはベンチが一体になることなのである。
[卓球レポートアーカイブ]
「卓球は血と魂だ」 第二章 二-ニ、ベンチの任務は激励
2013.07.08
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