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「卓球は血と魂だ」 第二章 三 道場十五戒③

三 道場十五戒

自分の卓球を完成できるのは、早くても十年かかる

 誰が日本最強で、誰が世界最強であるか、という議論になると、なかなか結論を出しにくい。相撲でも、双葉山なのか、大鵬なのか、また現役力士の誰なのか、いろいろ好き嫌いや観点があるだろう。

 卓球で日本最強ということになれば、多くの観方は、男子で藤井則和、女子で松崎キミ代に落ちつくようだ。藤井選手が全日本をとったのは戦後の昭和二十一年で、当時たしか二十二、三才。もし第二次世界大戦がなかったら、昭和十八、九年ごろ、彼が十八-二十才でチャンピオンになったかもしれない。藤井則和君が卓球に出会ったのは三、四才の頃。京都大学の学生集会所が関西学生リーグの会場であり、その食堂の責任者の子供(藤井少年)が、毎日学生選手たちとピンポンをはじめた、というわけだ。出会いの早さ、天与の才能と体格など、理想的な環境と出だし、と云えた。

 松崎選手が全日本をとったのは専修大学二年生(その翌年世界チャンピオン)、卓球を始めて八年だが、これは早い方。ただし小学生三年から父を相手のキャッチボールは何かの基礎になっている。長谷川信彦選手は愛知工大一年生(十八才)で全日本をとった最年少選手だが、そして十九才で世界を制した日本選手としての記録をもつが、両親や兄さん達が卓球選手で、この卓球一家の中で小さい時から卓球を見、ボールに親しんでいた。

 荻村伊智朗選手が全日本をとったのは二十才(日本大学)、世界をとったのは二十一才で、卓球をはじめたのは正式には高校一年、卓球歴最短距離の選手といえる。しかし、中学時代の体操選手としてのスポ-ツ選手の基盤が役立っていた。

 そして現在、久しぶりに若いチャンピオンが出現した。二十才で全日本三冠王となった斉藤清選手(熊谷商-明大)は中学一年で卓球を始めたのだから、七、八年の早さだ。熊商の吉田安夫先生によると「中学時代の金丸武夫先生の力が大きい。いわゆる多球練習方式で内容と量の濃い教え方をした。その上に教育面でもきびしい教師であったことが、よい成果を生んだ、と思う」と語られる。

 このへんが日本卓球選手として、最も短距離でタイトルをとった選手の例であろうと思う。但し、私が云いたいのはタイトルをとったことと、その選手の卓球の完成という意味はちがう、ということだ。その選手にとって、持てる才能を完全に発掘し発揮した時、という意味で云えば、以上述べた人々の場合も、初タイトルのあと、になるのである。

 永い卓球の歴史を誇る欧州の指導者に云わせれば、ピョッと出てきてタイトルをとり、すぐやめていった選手の評価は高くない。タイトルをとり、周囲が認め、挑戦を受け、その中でタイトルをとりつづける選手が真のチャンピオン、となる。また、タイトルはとれなかったが、長い間名選手の位置にいたとか、プレーの内容がすばらしく、長期間卓球界に活躍をつづけた、というような選手が高い評価をうけるのである。そんな点から云えば、アジアでは男子の荘則棟(中国)。女子の松崎キミ代というところになるであろうか。以上述べたことは、幸いにして全日本とか世界に挑戦できた選手について論じたのであるが、そんなタイトルと関係なく、自己のいろいろな事情を環境の中でベストを尽くし、自己の才能を開花させていった選手も、人々に広くは知られないけれども、知る人ぞ知る、かくれた立派な選手も多い、と思うのである。

 磨かざれば玉は光らず、という言葉がある。五年磨いて光り出す玉もあれば十年磨いてはじめて光り出す玉もある。

 才能を見出し、方向づけをするまでに、ムダな数年がかかる場合が多い。才能を磨き上げる数年、そしてその人独自の卓球と戦略を完成するまでにまた数年、即ちどんなに早くても十年はかかる、と云いたいのである。

 そして、それでもなお、選手本人にとって真に満足できない場合も多い、といえるのではなかろうか。

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