「日本の友人と世界の卓球界に『三十六計と卓球』を捧げる」 荘則棟
第二十七計 假痴不癲 気が狂ったふりをして、勝機を窺(うかが)う
表面上は、耳も聞こえず言葉も話せない、気が狂い、何の能力もなく、
ただ人生を無意味に送っているように装っているが、内心では全てに亙って詳細に分析している。
わざと偽りの表面現象を作り、内心の抱負や威勢を隠し、時機を窺い、後から人を制する。
古代戦術の例
紀元249年三国時代、曹爽(そうそう)と司馬懿(しばい)は朝権の奪い合いをしていた。
曹爽は魏主曹芳(ぎしゅ・そうほう)に願い出て、司馬懿を太傅(官名)に格下げし、彼の軍権を奪い取った。曹爽は更に曹氏一族と親戚知人をいろいろな重要ポストに据えた。この状況を見た司馬懿は、病気を理由に朝廷を休み、彼の息子司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)も官吏を辞めた。
一方、朝廷の曹爽は李勝(りしょう)を荊州刺史(官名)に命じ、お別れの挨拶(あいさつ)を名目に、司馬懿の自宅を訪ねさせ、近況を探らせた。知らせを聞いた司馬懿は、すぐ床に入り、頭冠を捨て、髪の毛を乱し、歩く時は二名の召し使いに両脇(りょうわき)を支えてもらった。李勝の荊州(けいしゅう)赴任の話に対し、わざと併州(へいしゅう)に聞き違い、耳が遠くなったとぼやき、召し使いが差し出したお茶もまともに飲めないふりをして衣服にこぼした。暫くして司馬懿は李勝に「私は年老い、病の身。今日明日にでも死ぬであろう。出来の悪い息子二人であるが、大将軍にお会いの節は、是非宜しくお願い申す」と言いながら咳きこみ、風前の灯(ともしび)の様子であった。李勝は別れを告げると、そのまま曹爽が待つ朝廷へと急ぎ、司馬懿の老いた姿を報告した。「司馬懿が死ねば、私は高枕で眠れる」と曹爽は喜んだ。
ある日、曹爽は魏主曹芳を高平陵に招き、先帝を偲(しの)ぶ祭典を行なった。大小官僚は全員同行し、城の中は空になっていた。司馬懿は急遽(きゅうきょ)息子二人と相談し、自家兵を率いて曹爽の大兵営を攻め落とし、城の外側を流れる洛河浮橋の守りを固め、高平陵にいる魏主曹芳宛てに手紙を届けさせた。
曹爽は城を乗っ取られ、大きなショックを受けた。魏主曹芳は曹爽に「司馬懿はただ単に大将軍の軍権を少し削ろうとしているだけで、別に意味はない。さて、君はどうするかね?」と聞いた。曹爽の弟は「魏主から天下に号令を出して頂ければ、司馬懿を討伐したいと思います」と願い出た。しかし曹爽は決心できず、一夜考えた結果、司馬懿の条件を呑(の)み軍権を引き渡すことにした。曹爽は朝廷の官員将兵達に「私は閣僚を捨て、億万長者として余生を送ることにしたよ」と語り、その後、隊を成して城に戻ってきた。
司馬懿はその場で曹爽一家と曹氏親戚を逮捕して首をはね、曹爽の財産を没収して国庫に入れた。この時より司馬懿は魏国の大きな権限を手中にした。曹芳は司馬懿を丞相(最高位の官名)に昇格させ、司馬氏親子三人は朝廷の政治を握ったのである。
卓球における応用例
1960年4月、中国ナショナル卓球チームは、天津市で、各省・市の代表チームが参加する招待試合を開催した。上海チームの張燮林(チャンシェリン)選手はツブ高ラバーを使う右ペンカットマンであった。彼のカットは極めて安定しており、回転の変化が強烈で、しかもチャンスとなると猛烈に反撃し、団体戦と個人戦においてはナショナルチームの名将を次々と倒した。王伝耀(ワンチョアンヤオ)、徐寅生(シュウインシェン)、楊瑞華(ヤンルイホア)、李富栄(リフーロン)、周蘭蓀(ジョウランスン)や私は、張燮林選手に敗れ、中国卓球界はこの話で持ちきりであった。
ナショナルチームの張均漢(チャンジュンハン)監督は、熱鍋の中のアリの如(ごと)くやりきれない顔つきでぐるぐる歩き回り、ナショナルチームの面子(めんつ)を保つためにも、張燮林選手を倒す選手がナショナルチームにいないものかと苦心し、指折り数えてみても残りは容国団(ロンクォトウアン)選手ただ一人であった。しかし、この頃の容国団選手は、体力及び技術共に最盛期を過ぎていた。だが、他に名選手はいない。
張均漢監督は困った顔つきで容国団選手に話しかけた「張燮林選手がナショナルチームの選手をなぎ倒している。名高いナショナルチームの誰一人も彼を倒すことはできないのであろうか。このままではチャンピオンの栄光は彼の頭上に輝く!」。聡明な容国団選手は監督の意図するところを悟り「その通りです。彼は実力があり、独特な回転変化球を持っています。僕は彼の試合を全部見ましたが、対戦しても勝ち目は薄いと思います」と答えた。これを聞いた監督は愕然(がくぜん)としてしまった。あの超人的な容国団が人に屈するとは、やはり往年チャンピオンの勢いはなくなったのであろう。監督は砂袋のように長椅子に腰掛け、ため息を吐いていた。
その時、容国団選手が「但し...」と言いかけた。監督は長椅子から跳ね上がるように「但し、なんだ」と聞いた。「彼との試合は体力を相当消耗します。今の僕の状態では試合後体力が回復しません」。
「わかった、張燮林選手に勝ったら三日間の休みを与える」「本当ですか」「俺の言葉に二言はない」と監督は答えた。実は、容国団選手は張燮林選手の非凡な強さに早くから目をつけ、細かく観察、分析し、攻略法を練っていたのである。しかし彼はそのようのことは一切口に出さなかった。
容国団選手と張燮林選手のベスト4争いが始まった。容国団選手はまず第一戦法を試みたが連続して2ゲームを落してしまった。張監督の額には脂汗が浮かび、両目は輝きを失っていた。第3ゲーム目が始まると、両国団選手は最も得意とする戦法に出た。戦局は即刻変化し、3ゲームを連取し逆転した。張監督の偏平な顔面は喜びの微笑みでしわくちゃになっていた。
感想
1.知らないふりをしているが実は知っている。行動しないふりをしているのは時が熟せず行動できないからである。よってチャンスを待つ。
2.上手な作戦家は虚偽的な英明の名声を追求せず、自分の勇敢さを宣伝しない。また、意を得て形を忘れたり、小さな勝ちで天狗にはならない。逆に、戦術をうまく運用し、表面には出さない。
3.沈黙しておれば戦略がばれる心配はない。知らないふりをすることは、他のチームの注目の的とならないため、試合では相手の意表を突くことができる。戦略が漏れていると、敵は的をめがけて正確に矢を放ってくる。假痴不癲(気が狂ったふりをして、勝機を窺う)は一種の計略であり、素養でもある。
4.勢力を蓄積する。成績と栄誉が自分の実力を超えているときは大変苦痛である。従って、乾いたスポンジが水を吸うように日頃から自分自身の実力の蓄積に努め、虚名や声望を追求してはならない。
5.一つの事業を成し遂げようと志す意思は、いかなる困難な立場に立たされても初心を貫徹し、雪辱に耐え我慢し、勝利を掴(つか)んだときでも喜びをほどほどにして実力を蓄える。
紀元249年三国時代、曹爽(そうそう)と司馬懿(しばい)は朝権の奪い合いをしていた。
曹爽は魏主曹芳(ぎしゅ・そうほう)に願い出て、司馬懿を太傅(官名)に格下げし、彼の軍権を奪い取った。曹爽は更に曹氏一族と親戚知人をいろいろな重要ポストに据えた。この状況を見た司馬懿は、病気を理由に朝廷を休み、彼の息子司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)も官吏を辞めた。
一方、朝廷の曹爽は李勝(りしょう)を荊州刺史(官名)に命じ、お別れの挨拶(あいさつ)を名目に、司馬懿の自宅を訪ねさせ、近況を探らせた。知らせを聞いた司馬懿は、すぐ床に入り、頭冠を捨て、髪の毛を乱し、歩く時は二名の召し使いに両脇(りょうわき)を支えてもらった。李勝の荊州(けいしゅう)赴任の話に対し、わざと併州(へいしゅう)に聞き違い、耳が遠くなったとぼやき、召し使いが差し出したお茶もまともに飲めないふりをして衣服にこぼした。暫くして司馬懿は李勝に「私は年老い、病の身。今日明日にでも死ぬであろう。出来の悪い息子二人であるが、大将軍にお会いの節は、是非宜しくお願い申す」と言いながら咳きこみ、風前の灯(ともしび)の様子であった。李勝は別れを告げると、そのまま曹爽が待つ朝廷へと急ぎ、司馬懿の老いた姿を報告した。「司馬懿が死ねば、私は高枕で眠れる」と曹爽は喜んだ。
ある日、曹爽は魏主曹芳を高平陵に招き、先帝を偲(しの)ぶ祭典を行なった。大小官僚は全員同行し、城の中は空になっていた。司馬懿は急遽(きゅうきょ)息子二人と相談し、自家兵を率いて曹爽の大兵営を攻め落とし、城の外側を流れる洛河浮橋の守りを固め、高平陵にいる魏主曹芳宛てに手紙を届けさせた。
曹爽は城を乗っ取られ、大きなショックを受けた。魏主曹芳は曹爽に「司馬懿はただ単に大将軍の軍権を少し削ろうとしているだけで、別に意味はない。さて、君はどうするかね?」と聞いた。曹爽の弟は「魏主から天下に号令を出して頂ければ、司馬懿を討伐したいと思います」と願い出た。しかし曹爽は決心できず、一夜考えた結果、司馬懿の条件を呑(の)み軍権を引き渡すことにした。曹爽は朝廷の官員将兵達に「私は閣僚を捨て、億万長者として余生を送ることにしたよ」と語り、その後、隊を成して城に戻ってきた。
司馬懿はその場で曹爽一家と曹氏親戚を逮捕して首をはね、曹爽の財産を没収して国庫に入れた。この時より司馬懿は魏国の大きな権限を手中にした。曹芳は司馬懿を丞相(最高位の官名)に昇格させ、司馬氏親子三人は朝廷の政治を握ったのである。
卓球における応用例
1960年4月、中国ナショナル卓球チームは、天津市で、各省・市の代表チームが参加する招待試合を開催した。上海チームの張燮林(チャンシェリン)選手はツブ高ラバーを使う右ペンカットマンであった。彼のカットは極めて安定しており、回転の変化が強烈で、しかもチャンスとなると猛烈に反撃し、団体戦と個人戦においてはナショナルチームの名将を次々と倒した。王伝耀(ワンチョアンヤオ)、徐寅生(シュウインシェン)、楊瑞華(ヤンルイホア)、李富栄(リフーロン)、周蘭蓀(ジョウランスン)や私は、張燮林選手に敗れ、中国卓球界はこの話で持ちきりであった。
ナショナルチームの張均漢(チャンジュンハン)監督は、熱鍋の中のアリの如(ごと)くやりきれない顔つきでぐるぐる歩き回り、ナショナルチームの面子(めんつ)を保つためにも、張燮林選手を倒す選手がナショナルチームにいないものかと苦心し、指折り数えてみても残りは容国団(ロンクォトウアン)選手ただ一人であった。しかし、この頃の容国団選手は、体力及び技術共に最盛期を過ぎていた。だが、他に名選手はいない。
張均漢監督は困った顔つきで容国団選手に話しかけた「張燮林選手がナショナルチームの選手をなぎ倒している。名高いナショナルチームの誰一人も彼を倒すことはできないのであろうか。このままではチャンピオンの栄光は彼の頭上に輝く!」。聡明な容国団選手は監督の意図するところを悟り「その通りです。彼は実力があり、独特な回転変化球を持っています。僕は彼の試合を全部見ましたが、対戦しても勝ち目は薄いと思います」と答えた。これを聞いた監督は愕然(がくぜん)としてしまった。あの超人的な容国団が人に屈するとは、やはり往年チャンピオンの勢いはなくなったのであろう。監督は砂袋のように長椅子に腰掛け、ため息を吐いていた。
その時、容国団選手が「但し...」と言いかけた。監督は長椅子から跳ね上がるように「但し、なんだ」と聞いた。「彼との試合は体力を相当消耗します。今の僕の状態では試合後体力が回復しません」。
「わかった、張燮林選手に勝ったら三日間の休みを与える」「本当ですか」「俺の言葉に二言はない」と監督は答えた。実は、容国団選手は張燮林選手の非凡な強さに早くから目をつけ、細かく観察、分析し、攻略法を練っていたのである。しかし彼はそのようのことは一切口に出さなかった。
容国団選手と張燮林選手のベスト4争いが始まった。容国団選手はまず第一戦法を試みたが連続して2ゲームを落してしまった。張監督の額には脂汗が浮かび、両目は輝きを失っていた。第3ゲーム目が始まると、両国団選手は最も得意とする戦法に出た。戦局は即刻変化し、3ゲームを連取し逆転した。張監督の偏平な顔面は喜びの微笑みでしわくちゃになっていた。
感想
1.知らないふりをしているが実は知っている。行動しないふりをしているのは時が熟せず行動できないからである。よってチャンスを待つ。
2.上手な作戦家は虚偽的な英明の名声を追求せず、自分の勇敢さを宣伝しない。また、意を得て形を忘れたり、小さな勝ちで天狗にはならない。逆に、戦術をうまく運用し、表面には出さない。
3.沈黙しておれば戦略がばれる心配はない。知らないふりをすることは、他のチームの注目の的とならないため、試合では相手の意表を突くことができる。戦略が漏れていると、敵は的をめがけて正確に矢を放ってくる。假痴不癲(気が狂ったふりをして、勝機を窺う)は一種の計略であり、素養でもある。
4.勢力を蓄積する。成績と栄誉が自分の実力を超えているときは大変苦痛である。従って、乾いたスポンジが水を吸うように日頃から自分自身の実力の蓄積に努め、虚名や声望を追求してはならない。
5.一つの事業を成し遂げようと志す意思は、いかなる困難な立場に立たされても初心を貫徹し、雪辱に耐え我慢し、勝利を掴(つか)んだときでも喜びをほどほどにして実力を蓄える。
(翻訳=佐々木紘)
筆者紹介 荘則棟
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
本稿は卓球レポート1995年2月号に掲載されたものです。