「日本の友人と世界の卓球界に『三十六計と卓球』を捧げる」 荘則棟
第二十八計 上屋抽梯 屋根に登って梯子をはずされる
思考能力がない、または貧欲なために人の罠にはまり、自分の退路を断たれる。
あるいは繭のように自分で自分を縛る。自分が掘った落とし穴に自分が落ちる愚か者。
古代戦術の例
この計は『三国志・蜀書・諸葛亮伝』に記されている。
[1]荊州牧劉表(りゅうひょう)の長男劉琦(りゅうき)は、継母(ままはは)が幼い弟を溺愛(できあい)し、日頃からいじめられていた。このことで劉琦は何度も諸葛亮(しょかつりょう)に安住の策を教え乞(こ)うたが断わられた。
ある日、劉琦は諸葛亮をニ階に誘い、召し使いに梯子をはずさせ「本日、上は天に届かず、下は地にいたらず、貴殿の話は直接私の耳に達します。どうかご指教ください」と願い出た。諸葛亮はかれの切実な願いに心を打たれ、春秋時代(紀元前770~476年)に晋献公(しんけんこう)の妃が申生(しんしょう)と重耳(じゅうじ)を迫害しようとした事柄を例に挙げた「申生は家にいたため殺害されたが、重耳は外地にいたため安全だった」。
劉琦はその意味を悟り、父に自分を江夏(現湖北省の雲夢)へ派遣するよう願い出て、継母を避けることによって身の安全を守った。
[2]蜀漢建興9年(紀元231年)2月、諸葛亮は5回目の曹魏北伐を行なった。魏軍を撃破した頃は初秋で連日大雨が降り、行軍が大変困難な状態となっていた。食糧を運ぶ輸送隊長の李厳(りげん)は、このままでは食糧が期日内に到着できず責任を取らせられると考え、後主劉禅(りゅうぜん)の名を使い「成都へ即引き返せ」と嘘(うそ)の伝令を諸葛亮に伝えた。
伝令を受けた諸葛亮は国内で何事が起きたのかわからず、撤退の準備をしていた。しかし今撤退すれば司馬懿(しばい)は必ず大軍を率いて追撃してくる。そこで諸葛亮は"上屋抽梯(屋根に登って梯子をはずされる)"策を用いることにした。司馬懿が慎重派なので、まず小さな利を与えて罠に陥れた後、重火砲で襲撃することにした。
一方、司馬懿は諸葛亮が撤退したことを知ると、将軍張郃(ちょうごう)に1万の兵馬を率いて追跡するよう命じ、自分も3万の人馬を率い後から追うことにした。こうすれば諸葛亮が如何(いか)なる計を用いても大丈夫だと考えた。出発前、司馬懿は将軍張郃に「蜀軍(諸葛亮の軍隊)は撤退したが、途中で待ち伏せをしている可能性もある。よって最新の注意を忘れるな」と再度念を押した。
張郃が兵を率いて追撃していると目の前に混乱した蜀軍の姿が見えた。蜀軍の大将魏延(ぎえん)と王平(おうへい)が交互に応戦してきたが、数回の手合いで二人とも逃げ出し、一面に鎧兜(よろいかぶと)や戦馬が散乱していた。張郃はますます図に乗り深追いした。
一方、魏延は諸葛亮の命令通りに張郃を木門道口に誘い込むと、馬を谷へと進めた。追いかけてきた張郃は目の前の功績に気を取られて司馬懿の言葉などとっくに忘れ、まして大軍が後ろから応援にきているとあって、谷の中へと突進していった。
その時、号砲と共に山頂から矢が嵐の如(ごと)く一斉に放たれ、張郃は乱戦の中で命を落とした。司馬懿の大軍が駆けつけた時、戦闘は既に終わり、木門道口には死体が一面に転がり、谷は血で赤く染まっていた。蜀軍は既に撤退し、影かたちすらなかった。司馬懿は諸葛亮の再度の待ち伏せを恐れ、追撃をあきらめ撤退した。
卓球における応用例
私は卓球の素質を備えた子供を多く見てきた。しかし、各方面の条件が全て整っているのもかかわらず、暫(しばら)く経つと伸びなくなる。これは戦略的訓練の教訓とすべきである。
訓練と養兵は「実」を取り「虚」を捨てなければならない。樹木のように根が深ければ葉は茂り、幹が強固であれば枝も栄える。
一部コーチの訓練方法は「実」の面において誠に情けない。戦術、サービス、道具の威力などに頼るために費やしている精力と時間が早すぎ、多すぎ、且つ不適切である。フットワークや手の動きの合理化と基礎訓練を無視し、基本訓練による実力が充実していないため、人材が埋もれていく。これは、志を持たず、目先の利益を追求し、苗をつまんで上に引き上げ"伸びた伸びた"と自画自賛しているのと同じである。
私の40数年来の卓球生活の体験と観察では、基本技術をしっかり身につけている者は、連続且つ安定して伸び、良い成績をおさめ、絶好調時のスポーツマンとしての寿命もそれ相応に長くなる。また、一時的なスランプがあっても慌てず、短期間で元に回復する。基本技術があまり身についていない者は、仮に良い成績を挙げたとしても、それは一時的なもので、スポーツマンとしての寿命は短い。基本技術を無視する者は、歴史から淘汰(とうた)され、上屋抽梯(屋根に登って梯子をはずされる)が如く、自分で困難を作り出し、自ら滅びる。
感想
1・梯子をはずすのであるから、先(ま)ず梯子をつけておかなければならない。その目的は、敵を罠に陥れ、殲滅(せんめつ)することである。
2・何事をやるにも大局を主とし、脈絡と根幹を明確にし、高い観点から物事を判断し、間違いを避けなければならない。
3.如何なる事業も、堅実、穏歩の発展規則を遵守しなければ成功しない。良き基礎は将来の発展の源であり、成功に向かうステップである。根を深く張った者は沢山の果実を得る。心が浮いている者、高望みをする者、あるいは欲に満ちた者は、花のみ咲き実は結ばず、失敗の泥沼に陥る。
この計は『三国志・蜀書・諸葛亮伝』に記されている。
[1]荊州牧劉表(りゅうひょう)の長男劉琦(りゅうき)は、継母(ままはは)が幼い弟を溺愛(できあい)し、日頃からいじめられていた。このことで劉琦は何度も諸葛亮(しょかつりょう)に安住の策を教え乞(こ)うたが断わられた。
ある日、劉琦は諸葛亮をニ階に誘い、召し使いに梯子をはずさせ「本日、上は天に届かず、下は地にいたらず、貴殿の話は直接私の耳に達します。どうかご指教ください」と願い出た。諸葛亮はかれの切実な願いに心を打たれ、春秋時代(紀元前770~476年)に晋献公(しんけんこう)の妃が申生(しんしょう)と重耳(じゅうじ)を迫害しようとした事柄を例に挙げた「申生は家にいたため殺害されたが、重耳は外地にいたため安全だった」。
劉琦はその意味を悟り、父に自分を江夏(現湖北省の雲夢)へ派遣するよう願い出て、継母を避けることによって身の安全を守った。
[2]蜀漢建興9年(紀元231年)2月、諸葛亮は5回目の曹魏北伐を行なった。魏軍を撃破した頃は初秋で連日大雨が降り、行軍が大変困難な状態となっていた。食糧を運ぶ輸送隊長の李厳(りげん)は、このままでは食糧が期日内に到着できず責任を取らせられると考え、後主劉禅(りゅうぜん)の名を使い「成都へ即引き返せ」と嘘(うそ)の伝令を諸葛亮に伝えた。
伝令を受けた諸葛亮は国内で何事が起きたのかわからず、撤退の準備をしていた。しかし今撤退すれば司馬懿(しばい)は必ず大軍を率いて追撃してくる。そこで諸葛亮は"上屋抽梯(屋根に登って梯子をはずされる)"策を用いることにした。司馬懿が慎重派なので、まず小さな利を与えて罠に陥れた後、重火砲で襲撃することにした。
一方、司馬懿は諸葛亮が撤退したことを知ると、将軍張郃(ちょうごう)に1万の兵馬を率いて追跡するよう命じ、自分も3万の人馬を率い後から追うことにした。こうすれば諸葛亮が如何(いか)なる計を用いても大丈夫だと考えた。出発前、司馬懿は将軍張郃に「蜀軍(諸葛亮の軍隊)は撤退したが、途中で待ち伏せをしている可能性もある。よって最新の注意を忘れるな」と再度念を押した。
張郃が兵を率いて追撃していると目の前に混乱した蜀軍の姿が見えた。蜀軍の大将魏延(ぎえん)と王平(おうへい)が交互に応戦してきたが、数回の手合いで二人とも逃げ出し、一面に鎧兜(よろいかぶと)や戦馬が散乱していた。張郃はますます図に乗り深追いした。
一方、魏延は諸葛亮の命令通りに張郃を木門道口に誘い込むと、馬を谷へと進めた。追いかけてきた張郃は目の前の功績に気を取られて司馬懿の言葉などとっくに忘れ、まして大軍が後ろから応援にきているとあって、谷の中へと突進していった。
その時、号砲と共に山頂から矢が嵐の如(ごと)く一斉に放たれ、張郃は乱戦の中で命を落とした。司馬懿の大軍が駆けつけた時、戦闘は既に終わり、木門道口には死体が一面に転がり、谷は血で赤く染まっていた。蜀軍は既に撤退し、影かたちすらなかった。司馬懿は諸葛亮の再度の待ち伏せを恐れ、追撃をあきらめ撤退した。
卓球における応用例
私は卓球の素質を備えた子供を多く見てきた。しかし、各方面の条件が全て整っているのもかかわらず、暫(しばら)く経つと伸びなくなる。これは戦略的訓練の教訓とすべきである。
訓練と養兵は「実」を取り「虚」を捨てなければならない。樹木のように根が深ければ葉は茂り、幹が強固であれば枝も栄える。
一部コーチの訓練方法は「実」の面において誠に情けない。戦術、サービス、道具の威力などに頼るために費やしている精力と時間が早すぎ、多すぎ、且つ不適切である。フットワークや手の動きの合理化と基礎訓練を無視し、基本訓練による実力が充実していないため、人材が埋もれていく。これは、志を持たず、目先の利益を追求し、苗をつまんで上に引き上げ"伸びた伸びた"と自画自賛しているのと同じである。
私の40数年来の卓球生活の体験と観察では、基本技術をしっかり身につけている者は、連続且つ安定して伸び、良い成績をおさめ、絶好調時のスポーツマンとしての寿命もそれ相応に長くなる。また、一時的なスランプがあっても慌てず、短期間で元に回復する。基本技術があまり身についていない者は、仮に良い成績を挙げたとしても、それは一時的なもので、スポーツマンとしての寿命は短い。基本技術を無視する者は、歴史から淘汰(とうた)され、上屋抽梯(屋根に登って梯子をはずされる)が如く、自分で困難を作り出し、自ら滅びる。
感想
1・梯子をはずすのであるから、先(ま)ず梯子をつけておかなければならない。その目的は、敵を罠に陥れ、殲滅(せんめつ)することである。
2・何事をやるにも大局を主とし、脈絡と根幹を明確にし、高い観点から物事を判断し、間違いを避けなければならない。
3.如何なる事業も、堅実、穏歩の発展規則を遵守しなければ成功しない。良き基礎は将来の発展の源であり、成功に向かうステップである。根を深く張った者は沢山の果実を得る。心が浮いている者、高望みをする者、あるいは欲に満ちた者は、花のみ咲き実は結ばず、失敗の泥沼に陥る。
(翻訳=佐々木紘)
筆者紹介 荘則棟
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
1940年8月25日生まれ。
1961-65年世界選手権男子シングルス、男子団体に3回連続優勝。65年は男子ダブルスも制し三冠王。1964-66年3年連続中国チャンピオン。
「右ペン表ソフトラバー攻撃型。前陣で機関銃のような両ハンドスマッシュを連発するプレーは、世界卓球史上これまで類をみない。
1961年の世界選手権北京大会で初めて荘則棟氏を見た。そのすさまじいまでの両ハンドの前陣速攻もさることながら、世界選手権初出場らしからぬ堂々とした王者の風格は立派であり、思わず敵ながら畏敬の念をおぼえたものだ。
1987年に日本人の敦子夫人と結婚。現在卓球を通じての日中友好と、『闖と創』などの著書を通じて、卓球理論の確立に力を注いでいる」(渋谷五郎)
本稿は卓球レポート1995年3月号に掲載されたものです。