卓球生活中に私の練習には大きくわけて三つの時期があったように思う。
年代的にわけると昭和23年から27年までが第Ⅰ期、27年から29年までが第Ⅱ期、29年から今日までが第Ⅲ期になる。
第Ⅰ期・・・オールフォアで出発
第Ⅰ期(都立西高1年9月~都立大2年)の練習は、量は1日3~9時間、内容はフォアハンドのロング打法が60%、ゲーム(試合練習)20%、その他(サービス、レシーブ、オールサイズ、フットワーク、バックカット、ツッツキなど)20%といったところ。プログラムは高校1年のときは上級生の指導によっていたが、2年からはキャプテンになったりした関係もあり、自分で決めてやった。
技術内容はオールフォアで出発し、動き回った。一枚ラバーを使っていて(高校3年まで)、連続打ちの最高記録は高校卒業当時で400に満たなかった。現在反省すると、練習の効率上からいっても、少し単調に過ぎた嫌いがあり、もっとバックハンドやショートなどを練習するべきであったと思う。しかもそれをフォアとの連けいにおいて捉(とら)えてゆく練習を積んでいたら、と思う。
この時期の練習の特色は、無我夢中でベストをつくしていただけで特にはっきりした目的・目標がなく、そのため、方法もグラツキが多かった。たとえば、高校3年になってから身体的トレーニングの必要性を痛感し、部員に放課後40分のランニングと体操をやらせようとしたが徹底しないので、個々の放課ごとに自分が連れてトレーニングをした。このため1日に2回も3回もランニングと体操ばかり繰り返すことになり、2カ月後には完全にオーバーワークになり胸痛を覚えたので一時中止したりした。めちゃくちゃというほかはない。試験中、受験勉強中、正月等も練習は休まなかった。
第Ⅱ期・・・フォア打ち2000往復
第Ⅱ期(都立大2年~日大3年)には、佐藤博治選手の世界選手権優勝、リーチ・バーグマンの来日等によって世界タイトルという目標とそのための方法が定まったので、計画的な練習を始めた。しかし、このときの計画的な練習というものは、世界選手権をとるための計画のみであり、自分の身体の限界とか健康管理などには第Ⅰ期同様、無視にも等しい態度でのぞんだ。したがって、これがスポーツマンだとして大多数の人々にお推(すす)めできるものではない。練習の量は第Ⅰ期と変わらぬが、時間的には夜間練習が圧倒的に多くなり、夜11時ぐらいで止めるのは早い方だった。吉祥クラブ(東京・武蔵野市)では夜12時前に止めることの方が少ないくらいだったように記憶しているし、日大でも道上先輩との練習は新宿通過午前1時17分の終電車までときまっていた。
この時期に最初の世界選手権(編集部注:昭和29年のロンドン大会)を獲得したが、技術内容は、フォア打ちで2000往復ぐらいはいつでも、2、3回の試技でやることが出来たしフットワーク練習も連続40分ぐらいはこたえなかった。矢尾板監督や天野氏(専大0B、吉祥クラブ元主将)河田選手にショートやロングで振り回してもらったが、へたばったことがなかった。カットも相当練習した。実戦にツッツキを多用して京都の本庄選手や、東京の浅野選手、仙台の中田鉄士選手らを破り、後にストックホルム大会でベルチックとの団体戦でこれを応用する土台となった。バックハンドはフォアハンドにもってゆくまでのつなぎであるというように考えていたのでスマッシュは台の上のボールだけに限り、ドライブを主にした。ショートはほとんど使わなかった。カット打ちの練習が量としては非常に増加したが、これは目標がヨーロッパの強敵を打ち破るためであったので当然だと思う。カット打ちの練習は、やはり、1000本でも2000本でも粘る練習と、ネットから3㎝ぐらい浮いたボールは全部スマッシュする練習とを平行してやった。
この時期に、藤井(岩手大)山口(明大)山田(日大)等のすぐれたカットプレイヤーを練習相手に持てたことは幸運だった。世界選手権に優勝するには、自分の最大限の努力もさることながら、このような自分の力ではどうしようもない「幸運」に恵まれることも一つの条件だと考えてもよいのではないだろうか。その点で、私のみならず、競技人口の多い日本に生を受けた卓球選手は外国の選手よりも出発点においてすでに幸運に恵まれていると考えることができよう。これは、日本人のみならず他国人についてもいえると思う。たとえば、先般の第6回アジア選手権大会で男子単準決勝に進出した韓国の朴選手なども、名電工―日大という日本卓球界の一級道路を歩んだからこそ、といっても過言ではあるまい。
第Ⅲ期・・・病気と斗いながらオールラウンド卓球へ
私は昭和29年の国体(北海道)のとき、右足腓腸筋(ひちょうきん=「ふくらはぎ」のこと)のひどいけいれんを山田選手(静岡)との試合中に起した。山田選手とは年来の好敵手で、対戦成績もタイであったが、このときの私は絶好調で第1セットを10本そこそこでとり、第2セットでバックハンドのスマッシュをのび上りながら決めた瞬間にけいれんを起したのだった。足の中に棒が通ったような感じが1カ月以上も続き、マッサージを続けたがよくならなかった。そのまま秋のシーズンが始まってゆくので、アセッた。それまでのつまさきだけで動いていたフットワークをときどきかかとをつけてリラックスさせるやり方に切りかえたり、ショートを多用したり、オールカットの練習をしたり、で練習の方法もちがってきた。更に1月に入ると、真冬の北海道遠征の無理(夜行列車が多かった)がたたって朝日賞の翌日に倒れて黄疸(おうだん)と診断されるまもなく身体が黄色になり、1カ月近く寝込んでしまった。治って1カ月もするまもなくオランダでの世界選手権に出場しなければならなかった。この間に、中華台北遠征(29年8月)、欧州遠征(11~12月)などを挟み、それまでのガムシャラな選手生活、練習方法を反省する機会を得た。
食生活に気をつけるようになり、脂肪、アルコールなどを極端に避け、野菜、果実、動物性たんぱく質、乳製品を多くとるようになり、ハウザー食や西式健康法なども試みてみた。10時以後の練習も控えたり、それまでは誰も試みなかった運動靴の底にスポンジを入れたものを注文製作させたりしたのもこの頃からだ。
プレーとしては、はっきりとオールラウンドを目指すようになった。私がもし、この第Ⅲ期の転換を怠っていたら、その後5回にわたっての世界選手権大会日本代表の栄与をになうことはできなかったろう。練習量は3~5時間ぐらいに減ったが、一つの練習の効果が最大限に達すると次に移るようにし、練習効率は最大限に発揮できるようにもしたし、身体的トレーニング法も、水道橋(東京)の佐伯ジムに昭和30年暮から約3カ月通い、マスターした。こうして、2度目の世界選手権優勝(31年東京大会)ができたのだが、この間の1カ年間が、自分の卓球生活中、一番苦しい日々の連続だった。
現在は、このときからの練習法を守り、合宿時で1日5~8時間、日常2~5時間くらいの練習量を維持している。ロードワークは最大限15~20キロ、少ないときが5~6キロといったところ、平均すると1週間に3日ぐらい。ウエイトトレーニングも1日おきぐらい。練習は1週間に5日ぐらいになろう。食物のとりかたも基本的には変わりがないが、最近は肝臓の方も回復したので、カツのころもをよけて食べるようなことはなくなった。
※編集部注―
朝日賞 朝日賞は文化部門、社会奉仕部門、体育部門(体育賞)の三つにわかれている。体育賞はその年に最も活躍したスポーツ選手に(朝日新聞社から)贈られる名誉ある賞で、荻村選手はこれまでに6回受賞している。これは全スポーツ界を通じて最高の受賞回数である。
ハウザー食 アメリカのハウザーという人の名をとったもの。黒い穀類、それにモヤシのようなもの、糖蜜、チーズ、ヨーグルトなどを中心とした食事で、カロリーはあまりたくさんとらないで、あとは新鮮な野菜や果物をとる。
ウエイト・トレーニング 練習によって技術が上達する。しかし力やスタミナなどをつけるには練習以外のトレーニングが必要である。トレーニング方法には現在4種類ほどあるが、ウエイトトレーニングはそのうちの一つで、バーベルを使って行うもの。
(1963年4月号掲載)
[卓球レポートアーカイブ]
わたしの練習①荻村伊智朗 練習に三つの時期
2015.10.14
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