小さいころから、体は丈夫で、スポーツはなんでも好きでした。ですから、中学2年(香川県高瀬中)のとき森先生という方が卓球部へさそってくれなかったら、ほかのスポーツを選んでいたかも知れません。卓球部といっても、田舎(いなか)のせいか、女子部員は少なく、男子と一緒の練習でした。卓球がおもしろくて、毎日暗くなるまで練習しました。
中高校時代・・・男子と一緒に練習
練習はほとんど自己流で、フォアの打ち合いと試合練習(ゲーム)だけ。何本打ち合いが続けられるか、数えながらやったりしたものです。高校に入ってからは、これにショート、フットワークの練習が多少加わった程度で、大体同じような練習内容でした。とにかくガムシャラなフォアハンドロングの卓球だったわけです。いま考えてみると、私自身はこれで良かったと思いますが、これからの中高校生は最初からオールラウンドを目指し、バックハンドなども練習した方が良いのじゃないでしょうか。“中学時代からバックハンドを使うと小さくカタまってしまう。フォアハンドで動きまわる荒けずりな卓球の方が将来性があってよい”と、よく言われますが、技術が小さくカタまらないように、よく指導してやりさえすれば大丈夫だと思うのです。
いまでもそうですが、ランニングはニガ手でした。あまり心臓が強い方ではなく、幾分貧血ぎみのせいだと思います。それでも高校へ進んでからは、毎日3キロぐらいは走りましたし、ウサギとびなどもやりました。特に高校3年になってからは、インターハイで第2位になったこともあって非常にハリきっていました。大学へ進んで思う存分卓球をやろうと心に決めていましたので、3年の10月ごろから毎朝40分ほど走ったりしました。
中高校時代をふりかえって幸いだったと思うことは、女子部員が少ないため男子の中に入って一緒に練習していたことです。これが、卓球選手としてはあまりよい環境でない所に育ったにもかかわらず順調に成長できた大きな原因のように思います。男子にも負けるのがクヤしくて、よく頑張ったものです。よほど負けず嫌いだったのでしょう。
もう一つ幸いだったことは、昭和29年のインターハイが香川県丸亀市であったことです。高校1年であるし、当時の香川県はそれほどレベルが高くありませんでしたので、1回戦か2回戦で負けるものと思っていました。ところが第3シードの木実谷選手(東京)を破ってランクに入りました。この勝利が私に大きな自信と意欲を与え、その後の私の活躍を約束してくれたのですから…。
大学時代・・・へばるまで練習
32年4月、両親の反対を押しきって、あこがれの専修大卓球部へ。甘竹さんがキャプテンで野平さん、津野さん、波岡さん、星野さんらがおり、女子では設楽さんがキャプテンでした。地方におって指導者や有名選手のプレーに接することの少なかった私にとって、大学で良い先輩に恵まれたことは幸福でした。練習の合い間には、先輩のプレーをよく見、いろいろと勉強したり、指導を受けたものです。
しかし、大学の1年間は、いろんな面でつらいものでした。合宿所(川崎市生田登戸)の生活には慣れないし一方ではいきなり有名選手のそろった中に入って自分の存在がやけに小さく羨望、劣等感又強くならなくちゃ…というアセリもありました。体力にしても、ある程度自信をもっていたのに、合宿3日目には何もできないくらいヘバってしまう状態で高校時代のランニングのやり方は甘かったんだな、と痛感したことでした。歯をくいしばりながら頑張るうち、1年の後半に行われた東日本学生、全日本学生に優勝できたときは、とてもうれしかったし、さあこれからだと思いました。
大学1~2年の間は、私の卓球生活中で最も練習の充実した時期です。毎日、4~5時間はやりました。7~8時間やった日もあります。設楽さんが練習好きな人だったので、それにつられてバテるまでやりました。そして人よりも多く練習をやっていないと落ちつかないし、練習や試合が楽しくてしょうがなかった時代です。ランニング、ウサギとび、腕立てふせ、柔軟体操はみんなと同じ、あるいはそれ以上にやりました。
練習の内容としては、いまの専大の選手にもいえることですが特に私の場合ロング戦でさきに攻めている時は強いが、攻められた時に弱い欠点がありました。バックへ2本、3本と連打されるとさがってラケットにボールをあてるのが精一杯で何も出来ませんでした。それで、攻められた時になんとかして打ち返す練習を多くやりました。相手にさきに攻めてもらい、ロビングで返しながら反撃のチャンスには強打して、逆に攻めて行くという練習です。この方法は力の弱い女子選手には難しいですが少しずつ出来るようになってから私の卓球に幾らかの巾を与えてくれました。また、中高校時代はこれといった目標があるわけではなく、ただ卓球が好きでやっていたわけですが、大学に入ってからはなんといっても世界選手権という目標が出来たのでカット打ちの練習もしぜんにふえました。
私のフォアハンドを“剛球”とか“男まさり”とか言う人がありますが、実は大学1年ごろまでは打球にスピードがなく、最初設楽さんのスピードボールを見て驚いてしまいました。腕立て伏せを1回もできないほど腕の力は弱いものでした。ただ肩だけは強く、小学校6年か中学1年の時にクラスでソフトボール投げ競争をしたら50メートルを投げ、私が一番でした。なんとかして設楽さんのような強打を…と思って腕立てなどで腕を強くすることを考え、2年生ごろからどうやら20回ぐらい腕立てができるようになり、フォアハンドにスピードがついてきました。フォームも体全体を使うように変えたり、フリーハンド(左手)の使い方を工夫(それまでは左手は打球の際に固定したままだった)したりしたのがよかったようです。しかし、いまでも腕はそう強くないところをみると、私のスマッシュのスピードは肩の力がモノを言ってるのかも知れません。
大学2年の年は、私にとって最も恵まれた年でした。東日本学生、全日本学生に2連勝、全日本選手権の初優勝、そしてドルトムントの世界大会優勝…と。登り坂で体力もあったし、江口さん、大川さん(現岡田夫人)ら先輩に追いつこうと夢中でハリきっていました。でも、世界チャンピオンになってからは無意識のうちに気持がゆるんだのか、追われる立場を少しずつ意識し出したのか―それに加えて大学3年の夏に坐骨神経痛をわずらいました。当時、フォアハンドが7割~7割5分の卓球でバックへきたボールでもよくフォアで回り込んで打っていたのですが、坐骨神経痛にかかってからはフォアで回り込もうとすると痛みます。フットワーク練習も思うようにできなくなりました。これを境に、私の卓球は少しずつオールラウンド卓球へと変わって行きました。これは神経痛のためともう一つはオールラウンド卓球が理想的だと思ったことの両方によるものです。このころからバックハンドを多用するようになりましたし、トレーニングの量はへってきています。フットワーク練習なども軽くしかやりません。こうしたことが試合の成績にも現れ、33・34年とにぎった全日本のタイトルも35年は山泉さん(現伊藤夫人)に、36年は関さんに奪われました。苦しい時代でした。
現在・・・試合=練習
36年に日興証券へ勤務してから、練習量はガタンとへりました。週に4日、1日1~1.5時間平均です。また痛み出すとこわいので、トレーニングはやりません。社会人1年目は午後5時の勤務が終わると、グッタリ疲れて練習の気力もうすれがちでした。その上、北京大会(36年4月)以後はビッグゲームもあまりなく、カンがにぶって試合に出るのがこわかった。そんな状態でしたので、国体予選、東京選手権などで惨敗し、もう駄目なのかなと思ったりしました。いろいろ悩みました。
幸い社会人2年目の去年は、勤務にも慣れた上、中国遠征、アジア競技大会、日中対抗などのビッグゲームに出場でき、合宿と試合の連続で練習時間に恵まれたことが全日本で勝てた原因だと思います。学生時代とちがって、いまは試合が練習です。
この1、2年練習量がへるにしたがって足の動きもにぶくなり、それだけバックハンドを振る度合いが多くなっています。大体、現在はフォアとバックが5分5分ぐらいで、去年の全日本選手権準決勝の伊藤さんとの試合などはフォアがきまらず、バックハンドで得点するような状態でした。バックハンドそのものは学生時代よりも安定度を増し、ハジく力もついて、台の上の比較的小さなボールでも打てるようになったのですが、フォアの力は衰えてきています。やはり、いまもってフォアハンドとバックハンドの両立のむずかしさに苦しんでいます。フォアの好調のときはバックが入らず、バックの入るときはフォアがきまらないのです。これはラケットの角度と足の位置の関係からだろうと思います。
≪筆者=全日本硬式ランキング第1位・24歳。高校3年のときから表ソフトを使用≫
(1963年5月号掲載)
[卓球レポートアーカイブ]
わたしの練習②松崎キミ代 卓球が好きで好きで
2015.10.16
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