数多くの夢を持って慶大に入ってから、すでに4年の月日が過ぎ去ろうとしている。残り少なくなった学生生活を思うと、なんとなく感傷的になってくる今日この頃である。
◇大学2年まで・・・猛練習すれど成果あがらず
この間、いろいろなことがあったけれども、生活は常に卓球を主に展開されてきた。そしてその卓球の練習量、練習方法が大学2年頃と3、4年の時とずいぶん違ってきていることに気がつく。特に卓球というスポーツにたいする考え方がずいぶん変わった。高校時代、ある程度の自信をもち、自分の将来に自信をもって大学に入ってきたものの、2年までは練習すれど結果は期待はずればかりであった。
2年までの練習は、体力強化、基礎練習を重点的に練習した。
なぜこの2年間好成績をおさめることができなかったかを考えると、練習というものが、晴れの大会で、自分の持てる力を発揮することにあるということがわからなかったためであろうと思う。こんな馬鹿げたことはないと思う。常に最終目標を勝つことに置いていながら、その努力は勝つための努力ではなくて内容のない練習をしていたのである。このことは3年の秋になって始めて気がついた。卓球をはじめてから8年目にやっと気がついたことである。昔から“人間はその瞬間、瞬間にベストをつくせ”といわれている。それまでにこの言葉を知っていたけれどもこの言葉の含むものは知らなかったのである。2年間というもの、ほとんど休みなしに毎日4~5時間の練習をし、ランニングも4,000㍍以上は走っていた。そして、自分自身でも精一杯努力しているのだとその頃は思っていた。しかし身体の鍛錬という意味では確かに努力していたけれども、本当の目的の方即ち勝つことにたいする努力は十分にしていなかったのである。要するに≪いま練習している内容が果たして実戦で使えるものかどうか≫を考えてやっていなかったのである。もう少し早く気がついていたら、と思う。
3年の春、関東大学リーグで2部に転落した。これを機に改めて自分をふりかえり、練習方法をかえた。それまで逆転負けすることが多く、またセリ合うとほとんど負けたことから、守りに自信をもてるようになれば逆転されることもなくなるのであろうと考え、コートから後方にさがりゆっくりとロングを1カ月ほど続けた。その結果、練習においてしばしば窮地を脱することができるようになった。このように打たれても取れるというある程度の自信がついてから、次に、コートについて相手が充分な態勢を取る前に返球することに重点をおいて練習した。そして、あるとき、いたずら半分にフォアからの小さいサービスを使ったところが意外に効果がある。これはいけるぞということで、それからはこのサービスと3球目の攻撃ばかりを練習した。毎日が楽しい頃であった。
結果は意外に早くあらわれ、この年の早慶戦で中国遠征から帰られたばかりの木村さんに勝つことができた。これが非常な刺激となり、練習にもますます身が入るようになった。自分はもともと少し鈍感なので、刺激を与えられるとモリモリ力が湧いてくるらしい。アジア大会強化合宿参加(昭和37年7月)もやはりそうであった。一流選手との生活、今日の自分をこの合宿参加なしに考えられぬ。この合宿を通じて最も印象的であったのは、荻村さんの準備体操である。腕のあげさげ一つにも気力がこもっている。これから厳しい練習をしようとするのであるからその準備は当然内容のあるものでなければならぬ。ラケットを握る前にすでに自分と一流選手との間には差があったのである。またボールを拾いに行く時などもダッシュしていく。練習する心構えからして違うのであるから、自分との差がつくのは当然であると思った。これから4カ月ばかり自分でも驚くほど、充実していた。
◇日中対抗以後・・・中国式卓球をとり入れる
3年の秋、日中交歓卓球大会が開かれ、全く幸運にも全日本軍のメンバーに加えられた。中国の卓球を始めてみて感じたことは、ずいぶん簡単にミスをし、それにもかかわらず別に何でもないというような顔つきをしていることであった。自分ならとてもああ簡単にミスはできない。それでも中国選手は強いのである。フォームとかフットワークにしても、何か中途半端に思えたのであるが、最近はそれらすべてが合理的なのだというような気がする。不思議なことである。同じ中国選手でも、フォームやプレーのスタイルがだいぶ違う。正統的な中国の卓球は荘選手の卓球ではないかと思う。中国の卓球に接してから、中国の卓球になかなか勝てないことから、自分も一つ中国の卓球を真似、それに日本的なものを加えて自分独自の卓球をしようと思うようになった。まずフォア打ちから始めた。もっぱら頭の中に彼らのフォームを思いだしての練習である。クロスならかなり入るようになり、次にバックハンドに移った。バックハンドはすぐできるようになった。しかしどうしても中国式卓球をすることはできなかった。フットワークが打法についていかず、腰の回転もやはり長年やってきた日本的なものになってしまう。それならば、やはりボールの威力がでる日本従来の打法の方がよいように思われた。けれども、こうした練習をしたおかげで、ゲーム中、時々おかしな態勢でも手はでるようになった。
◇現在・・・実戦練習に重点
4年になってからは、あくまでも実戦練習をしようということに重点を置き、練習も基礎練習はいっさいやらず、いきなりオールの練習をした。また準備体操をしないでゲームをやったり、時々同じ相手と何セットも連続でゲームをするようになった。それまであまりやらなかったことで新たにやりだしたのは、腕立てである。毎日やるうちに、30回は楽にできるようになり、毎日100回近くやった。なぜ腕立てを始めるようになったかというと、就職問題等で練習不足になりがちであったので、それを補うためにやり始めた。しかし、腕立てが卓球にプラスするものであるかどうかはわからない。というのは、テレビで野球を見ていると、元投手の解説者が、投手の腕にあまり筋肉がつくのはよくないことだというのを聞いたからである。投げるのも、ラケットを振るのも、腕を振ることが生命である。自分もこの頃、腕に力が入り、調子がよくなかったのでそれ以来、やめている。
実戦練習ばかりやっていると、自分の弱点がしだいにわかってくる。それ故、改めて基礎練習の意味を知り、その日、その日で、入らないものを取り上げ、練習するようにした。実戦練習だと、長い間、精神を入れてやることができない。自分の場合、1時間位は連続してできるが、それ以上だと、判断が鈍り、勘も効かなくなる。この時間をだんだんと伸ばしていくことが必要だ。
このような練習をしているうちに、今まで気づかなかったことにも気づくようになった。サービスは威力ある3球目があってこそ10の力が発揮できるのであり、3球目がなければ、5以下の力しかないとか、カットサービスは威力あるロングサービスがあってこそ、カットサービスの良さがでるとか、一つのことをもとに次から次へと関連していく。そして一つとして無駄だということがないのを知り、一球一球おろそかにできなくなる。
また“ポイント”(勝負どころ)における一発勝負にたいしても、それまでとは違う考え方をするようになった。以前は、これを“相手の予期しない場所に返球し、その虚をついて一気に攻略する”という考え方で、この攻略の際に運を天にまかす気持ちでのぞむことが多かった。どうも自信はない、入る可能性もあまりありそうにもない。しかし、いままで通りの事をやっていたのでは勝てそうにもない。仕方なく打っていく。この仕方なくという気持ちは、決して積極的な、進歩のある気持ちではない。消極的であり、いわば、すてばちの気持ちである。これではいけないと思う。一発勝負をするということは、こういったことでなく、あくまでも、これなら自分の得点にできるだろうという6割以上の可能性があるものを試みることが一発勝負であると思う。
◇本当の“私の練習”は大学3年以後
以上“私の練習”と題して感じたことを断片的に書きましたが、自分でも努力すれば必ず進歩することがわかったので、努力を続けて更に前進したい。幸いにして、未だかつて人より、“コースがよい”とか“すごいボールだ”などといわれたことはない。まだ伸びる可能はあるのである。
それに本当の“私の練習”は大学3年にして始まり、まだわずか1年しか練習していない初心者である。
たかはし ひろし
全日本硬式ランキング6位、アジア選手権優勝、関東学生選手権優勝、前陣で両ハンドを使っての速攻が得意。東京・高輪高出身。慶大4年。
(1963年12月号掲載)
[卓球レポートアーカイブ]
わたしの練習⑨高橋浩 試合で勝つための練習
2015.10.30
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