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わたしの練習㉞奥田昭和 3球目とバックハンドを重点的に

 卓球は、小学校の体育の時間に習ったのがきっかけとなり、中学に入ってから本格的に行うようになりました。初め野球部に入りたいと思ったのですが、背が低いので無理だと言われ、卓球部を選んだのです。練習内容は教室の机をかたづけて、基礎練習と試合とで、2時間程度だったと思います。毎日素振りの練習で、人指し指をおでこにぶつけてとか、ひじと体の距離は何センチあけて、手首を落とさずとか、定規で計ったような型にはまったものでした。また良い指導者もおらず、先輩の残してくれた練習方法のみにたよった練習でした。

 ◇卓球をしているときの目は生きている

 卓球がだんだん好きになり、高校に入るなら強い八王子工高にと思ったら、運よく合格することができました。入部者が80人くらいで台が2台、上級生が練習したあとの5分間が私たちの練習する時間で、あとの時間はトレーニングと素振りのみだったため、1ヵ月後には10人くらいになってしまい、そのため練習量は日増しにふえていきました。学校での練習は基本練習を中心とし、終わってからの夜のクラブの練習は社会人とのゲーム練習が主でした。ゲーム練習は1回負けると30分くらい番が回ってこないので、勝つことを目的としてやりました。このころは、私自身授業よりも卓球の方に重きを置いていましたので、先生にはよく“授業のときの目は死んでいるが、卓球をしているときの目は生きている”と言われました。
 2年の終わりころから、都大会にも上位に入れるようになり、試合をするのが楽しくなりました。3年になってからは、大会を捜しまわったくらいでした。初めてのインターハイ代表になったときはうれしかったのですが1回戦で森川選手(現専大)に敗れ、技術の未熟、精神面の弱さを身をもって体験するとともに、ますます闘志がわいてきました。このころ徐々に勝てるようになったため、大学へいっていっそう卓球をやりたいと思っていましたところ、国学院大学に入学することができました。
 2部の学校でしたので、私自身1部の選手に対して劣等感を持つと同時に、4年になるまでには1部にいこうと思っていました。4年の秋季リーグ戦で実現できたことは、私が卓球をやってから今までで最高の喜びであったと思います。このため、私自身2部の選手は1部の選手の2倍やらなければ同じ実力にはなれないと思い、早く追いつこう追い抜こうと思って練習しました。このころは基礎ができていなかったためかやることが一杯で、また気持ちもあせっていたため、ただボールを打ったことによって満足感を味わっていました。今から考えると充実した練習ではなかったと思います。こんな私だったので、同級生の「つき合いが悪いけど勘弁してやる。だから卓球をしっかりやれ」という理解ある言葉を耳にいっそう練習しました。

 ◇サービス、レシーブ、3球目

 1、2年のころは午後11時前に帰ることはなく、現在でも10時前に帰ると母に「何かあったの」といわれることがあります。このため電車での1時間半は最高の睡眠時間でもあったのです。また、すわれないときは電柱を目で追いかけて目の運動をしたり、つまさき立ちをしたり、釣り革を使って手首の運動をしたり、また駅から家までの30分間にはバッグを振り回したり、手を速く振ったりして腕を鍛えました。こんなことから、自分の周囲には卓球に役立つものがたくさんあると思いました。
 1年生のとき、先輩のスケールの大きいドライブ対ドライブに何度か魅了させられ、自分の卓球に不安を抱きましたが、先輩に「お前はお前なりの卓球をしなくてはいけない。あのラリーを打ち破るような速攻を身につけるように」と言われました。速攻にはサービス、レシーブ、3球目は得点打を作る必要条件なので、これに重点をおいて練習しましたが、練習のときはよく攻めることができるのですが試合のときにはなかなかうまく打てません。負ければ負けるほど小さな白球が憎らしく、いつかはこの吹けば飛ぶようなボールを自分の思うとおりにしたいと思いました。
 2年のとき、運よく関東学連の合宿に選ばれたことによって勇気づけられ、私自身いっそうがんばろうと決意しました。が、秋に父との死別により卓球をすることがむずかしくなり、一時は(やめよう、どんなことをしても続けよう)などと気持ちがはっきりせず、ただ途方に暮れる毎日でした。が、母、兄弟からの支援があり、ますます練習に励みました。このようなことから卓球にかける情熱は次第に燃え、“やれるところまでやろう、その結果はどうであろうと。それまでの過程を努力して、自分を苦のなかに放り込んで、その苦に自分がどれだけ耐えられるか試してみたい”と思いました。
 練習をやれないときの苦しみは人一倍ありました。これを痛切に感じたのは、3年の夏、不注意から両手に火傷をしたときです。医者からは“1ヵ月間”との診断でした。こんなに休んだら卓球から見放されてしまうのではないか、という気持ちで苦しい毎日でした。卓球ができないことが、私にとってこんなに苦しいものかと痛感しそれからは身体に十分注意を払うようにしています。このような一つ一つの苦しみが私の心の支えとなり、困難なことにぶつかってもそれをも克服するだけの力を養ってくれました。

 ◇攻めを複雑にする練習を

 大学での練習は、体育館を授業で使用するため5時間の練習なので、夜は明大や法大の選手と練習させていただきます。練習方法は、前にも述べたように3球目を重点的に行い、今まではフォアハンドだけで打っていましたが、強い人との試合では攻めがおそくなってしまうので、バックハンドでも攻められるよう心がけて練習しています。また自分が本当に自信をもって3球目を打てるサービスを常に心がけて練習し、どんなに競っても躊躇(ちゅうちょ)なく打てるようにしようと思っています。
 サービスは相手がいなくてもできるし、体が疲れていてもできると思います。試合など見に行ったときは、良いサービスをメモしておいて自分に適するように工夫します。またレシーブは、試合でミスが多いので徹底的に練習します。私自身、レシーブによって試合が攻撃になるか守備になるか決まってしまうというのが持論でしたので、どんなサービスでも自分の思うとおりにレシーブできるように練習しました。特に今はバックハンドでのレシーブを練習しています。また、フォアで回りきれないときのバックハンド、またはショートを練習中です。特にショートはプッシュだけのショートでしたので、体勢が悪くてもプッシュしてしまいボールの返球がますます速くなってしまいますので、ストップ性のショートも練習しています。日本の場合では前後のフットワークはあまり行われていないように思いますので、ストップ性ショートは有効打になるのではないでしょうか。
 私は打ちだすとただ打つだけで、相手を前後に動かすようなボールの強弱がないため単調な攻めになってしまうので、気をつけて練習しています。また、ショート打ちをしながらフォアに飛びついて打ったり、フォアクロスを打っていてバック側に打ってもらい、出足を速くする練習をします。
 カットマンに対しては、ただループだけにたよる私なので、それでチャンスボールが作れないときは負けてしまいます。だから、ロングマンに対するときと同じように攻めを複雑にする練習を考えながらやっています。けれど学校にはカットマンがあまりいないため、カットマンのいる練習場にいきますが、なかなか学校の人とちがって思うようには練習できません。そのようなときは、ツッツキ打ち、3球目をどんな変化球に対しても打てるように練習しています。

 ◇練習のときに苦しめ

 トレーニングは腕立て伏せ、サーキット・トレーニングや鉄アレイ振りを行い、腹筋運動は特に重点的に行います。トレーニングは苦しいものですが、やらされるという消極的なものでなく、この苦しみがピンチに立たされたときの一本となり、鉄アレイ振りをやることによってスマッシュを速くしようとするように、積極的に目的をもってするようにしています。試合のとき苦しむよりも、練習のとき苦しんだ方がよいという考え方でやっているわけです。球を打つように直接技術として感じられないため、ついおろそかにしがちですが、その結果はすぐ試合にあらわれてきます。土壇場(どたんば)でのがんばりや、不可能と思えるようなボールに飛びついたりなど、地味ですがボールを打つ以上にしっかりやらなければならないと思います。最後に、“なせばなる”精神に基づいて、打倒中国というでっかい夢を見ながら、これからも努力していくつもりです。

おくだ あきかず
今春国学院大学卒。旺文社入社。
裏ソフト。ペンの攻撃選手。
昭和41年の東京硬式選手権第3位

(1966年4月号掲載)

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