昭和39年の末、子供を誕生。一時中断していた卓球を、大阪ベテラン会に所属して、再び昨年の都市対抗を振り出しに始めました。なにしろわが家には親子3人だけで子供の世話をみてもらう人はいません。幸いに姉の家が市内なので、2~3時間あずけたり、自分で練習場につれて行ったりして、暇を見つけては練習をしています。しかし、出産、育児による1年余りの空白は、一時に取りもどせるものではありません。
昨年の暮れの全日本選手権大会で2回戦で敗退、この試合で私はすごく考えさせられました。何が原因で敗れたか?それは、昨年の岐阜国体での試合で自分自身予想外の成績だったので、卓球を軽くみてしまったからだと思いました。ほんの小さな油断が全日本2回戦敗退となり、再び私は卓球に挑戦する気になったのです。
◇毎日の練習
私自身、特に好き嫌いな相手はありません。練習場に行ってみて、高校生、大学生、社会人、誰とでも練習をやっていただける人ならばやります。そして、特に自分がこの練習をやりたい、また相手がこういう練習をしてほしいと頼まれたとき以外は、いつの場合においてもすぐにゲームに入ってしまいます。
私のように家庭の主婦であり母親の立場ですと、他の選手よりどうしても練習時間が短く、やむをえず実戦的な練習方法になってしまいます。一般の選手(特に学生)のように練習する時間が十分にあるならば、フォアの乱打から始めてフットワークなど、いろいろな基礎練習を行い、その後ゲームに入るのが一番自然な練習だとは思いますが、なかなかそれができないのが現在の状態です。最近の私の練習時間はだいたい1日2時間前後で、これもできるだけ毎日練習するよう努めていますが、あまりにも1日の仕事が多くありすぎ、練習できない日も多々ある状態です。
◇家庭との両立
家庭との両立、この問題が一番難しく、結婚すると引退する選手が圧倒的に多い原因だと思います。一つの物事を完全になしうることは、なかなか難しく容易ではありません。まして私には、家庭と卓球とを完全に両立さすことはなおさら難しくできません。そうかといって、好きな卓球をあきらめる気もなく、学生時代に学業と卓球とを努力して、両方とも自分自身が満足できる結果が出たので、家庭と卓球においても…と努力しています。
主婦―母親―卓球選手と分けた場合、どれかが犠牲となります。やはり、一般に考えて卓球が犠牲となります。その卓球を1日少しでもよいから練習するとすれば、自分のする仕事がふえます。これは自分が納得してのことだから当然のことです。どうすれば普通の人たちと同じようにやっていけるか。
私は、一般の選手がやっているトレーニングとか体操など、実際にラケットを持つまでの練習を、私は生活に取りいれて(織りこんで)やっています。足を鍛える、腕を強くする、これなどは工夫すれば私生活にいくらでも、卓球につながる仕事がたくさんあります。たとえば、朝早く起きて走るとか、子供を連れての買い物にしても、腕を強くするには十分です。階段の上り下りも考えています。
そして、卓球場に行き卓球をしているときは、ほんの1、2時間であっても卓球だけしか考えません。練習がすめば、母親としての立場にかえり、家庭人となる。しかし、こうわりきっていても、好きな卓球なので、もう少し練習したいと思うことはたびたびあります。この家庭との両立に一番必要なことは、またなくてはならないものは、現在、家庭の理解と協力だと思います。このおかげで好きな卓球を続けられる私は、シアワセ者だと感謝しています。
この理解と協力に報いるためにも、重荷になるいろいろな家庭の仕事、精神的な悩みなどは、むしろファイトで押し切らねばならないと覚悟しています。現在このような覚悟で、考えで努力していますが、私自身、果たしていつまで続けられるものか、事情が許すかぎり若い人たちの高進を願ってがんばりたいと思います。
◇学生時代の練習
大学(大阪樟蔭女大)に入った当初の私の卓球は、ただフォアハンドで打つだけで、とにかく猪突型の卓球でした。当時の菅井監督から種々の基礎練習を教わり、1年生の間は試合の前の4、5日の他は、あけても暮れても午後3時から9時まで、基礎練習の毎日だったと記憶しております。
当時(昭和29年)の女子学生界のレベルは、今と違って関西の方が高く、私自身四国(愛媛県出身)から大阪に出て関西のレベルについて行くにはとても難しく、ほど遠い夢でした。でも、卓球をやるからには強くなりたいし、また“他人ができて自分にできないことはない。それができないのは自分の努力が足らないからだ”と自分に言い聞かせては練習したものです。
卓球を知らなかった自分は、監督、コーチの言われることは案外素直に、まじめに、言われたことだけしかしませんでした。周囲の練習している人を見れば、バックハンド、カット、いろいろな練習をしています。自分もやってみたい、早く一つでも違ったことをしてみたい、と思うときがたびたびありました。
高校時代の私は、家から学校まで片道約16㌔の山道を自転車で通学したことが、かえって足腰が自然に鍛えられ、体力的にも自信をつけました。大学に入って毎朝約4㌔のランニングをし、卓球の練習は授業が終わればすぐに卓球場へ行き、日曜日は午前10時から夜9時ごろまでの練習日程でした。
2年のころからゲームを主として、特に試合前をのぞきあまり女子と練習せず(当時の部員は2~3人でした)、男子のボールばかり打っていました。男子のボールを打っておれば、少々威力のある女子選手のボールもなんなく返球することができるし、また試合前になるとやはり女子選手のボールになれる必要があると思い、女子と練習するためあちこちの練習場に通いました。
◇中学、高校生に望むこと
卓球選手として進むならば、最後までどんな障害があろうともやりぬく覚悟がほしいと思います。私の中学、高校時代と比べて、現在の卓球界は、強化対策本部とか、コーチも多くあり、非常に環境が恵まれています。しかし、こういう恵まれた状態の中にあっても、自分から研究、努力、苦しさを求めて進んでもらいたいと思います。
根性を持つこと、持てば必ず自分の目的の方へ進んでいきます。
いとう かずこ
昭和32、35年全日本選手権者。
昭和41年の東京硬式選手権者。
(1966年5月号掲載)
[卓球レポートアーカイブ]
わたしの練習㉟伊藤和子 家庭の理解と協力で実戦練習を主体に
2015.12.30
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