自分ひとりで勝負を左右するスポーツはないものかと考え、中2のときに卓球を選びました。部員が多く、学校ではほとんど練習できないので、毎晩卓球場へかよいました。3年で団体戦に初出場しましたが、ラストで1年生に負け、人一倍負けず嫌いの私はこのくやしさで卓球の虫になりました。
◇毎日、寝る前に腕立てと腹筋運動
高校へ進学後も練習環境には恵まれず、卓球の本を読み、町の卓球場で夜10時ごろまで練習しました。トレーニングは、ランニング、うさぎ飛び、シャドープレーなど。練習内容は、クロスのフォア打ち、3球目攻撃、ショートなど。町の卓球場ではゲーム練習ばかりでした。また寝る前に、20分間の腕立てと腹筋運動を必ずやりました。このころは、腕立ては25回ぐらいしかできませんでした。
高1の県大会では1回戦で負けましたが、地区予選にパスしたことで少し自信をつけ、インターハイ出場を目標に練習量をふやしました。ところが、無理がたたって2カ月間も入院するはめになりました。その間、みんなは練習して強くなっていると思うとくやしくて、卓球に関する本をたくさん読みました。病気がなおってからの私の卓球は、試合になると練習の半分しか力が出ず、悩みに悩みました。そして何度も卓球をやめようと思いました。そんなとき、顧問の鷲尾、本堂両先生が、「がんばって絶え間なく努力していれば、いつかは必ずその努力が実る、決してくじけてはいけない」と励ましてくださいました。
◇バテるまでフットワーク練習
希望していたインターハイにも出れず、高校の卓球生活も終わり、家庭の反対を押し切って名古屋商大に進学しました。1年のときは、よく中京大学や愛知県スポーツ会館へ練習に行きました。入学直後の東海新人大会では運よく決勝まで進出でき、自分でも夢のように思ったぐらいです。しかし、なによりもうれしかったのは、高校時代の努力が実ったんだなぁということがわかったことです。また努力すれば何事も成功するということを再認識して、それからは練習量もふやし、毎日7時間はかかさずやりました。
内容はフォアクロス、バッククロスのロングを各10分間、ショート10分間、スマッシュされたボールをショートで止める練習15分、ショート打ち15分、オールサイズのフットワークを動けなくなるまで―40分間ぐらい。バックハンド15分、3球目攻撃20分、その後ゲーム練習をバテるまで連続して20セットぐらいやりました。
1年の秋には国体、全日本に出場、国体ではあこがれていた高橋さん(シチズン時計)と試合ができ、ほんとうにうれしかったです。2年生になってからは卓球を主体にした生活をするようになりました。成績も試合ごとによくなり、春の中部日本学生選手権では、単複とも優勝することができましたが、東海学生選手権では決勝で負けました。私はカットが打てないので、先輩からドライブをおぼえるようすすめられ、そのためか、このころから少し攻撃がおそくなりました。3年生になってからは、バックハンド、ロビング等、いろいろな技術を身につけることができ、プレーにも幅がでてきたように思います。自分の得意とする3球目攻撃とショートもかかさず練習しました。
◇長谷川選手との猛練習が良薬
春の中部日本学生選手権では、準々決勝で長谷川選手(愛工大)、決勝では馬場園選手(愛工大)を破り、連続優勝することができました。しかしその直後、体の具合が悪く病院へ行ったところ、医師に入院しなくてはいけないと言われ、そのとき私は死刑の宣告でもされたように苦しみました。死んでもいいから卓球をやりたいと思いました。私にとっては今が一番大事なときだったからです。病気も案外早くなおり、それからの私は今までおくれたぶんを取りもどすために、昼は学校で4時間やり夜は愛工大で長谷川選手と約1カ月練習し、1晩中やったこともありました。そのとき、夜中にラーメンをつくってふたりで食べたあの味は、一生忘れることのできない何物にもかえがたいおいしいものでした。ふたりの練習内容はゲーム練習ばかりでした。負けたらいろいろな罰を与えるようにして、いつも30セットから40セットぐらいやりました。そのおかげで東日本学生選手権で5位に入り、全日本選手権でもランク決定までゆくことができました。また、世界選手権の候補選手にまで選ばれました。
4年生になってからは、フォアとバックの切りかえの練習や、ドライブでフットワーク練習も課題に取り入れ、トレーニングのほうは、一番きらいであったランニングも10~20㌔ぐらいであれば平気で走れるようになり、高校時代から寝る前に毎晩やっていた腕立てと腹筋も100回ぐらいは平気でやれるようになっていました。4年生の全日本選手権では、ようやくベスト16に入ることができました。私は東京へ出て卓球をやり直そうと決心して東京青果へ入社しました。
それからの練習は、仕事があるので練習時間も4時間ぐらいになり、練習場もないのでいろいろな大学へ行き練習をやっています。惰性に走ることなく真剣にボールと取りくむようになりました。練習内容はほとんどゲーム練習で、トレーニングは鉄アレイ(7㌔)を使用、ランニング25分間、腹筋や腕立てもやります。ゲーム以外の技術練習はドライブ練習(フットワーク、3球目攻撃)、台上でツー・バウンドするツッツキ練習、フォアとバックの強打をフォアで回り込みスマッシュする練習、ショート等です。いろいろな大学へ行くので毎日変化のある練習ができ、マンネリにならないことがいいと思います。春の全日本実業団では全勝、都市対抗でも優勝することができ、また全日本社会人選手権でも予想以上に決勝まで進出でき、先輩の木村さんに3対1で負けましたがほんとうにうれしかったです。その日から、また全日本のために練習を始めました。
全日本の期間中は毎日30分間走りつづけました。それがよかったのか、シングルスではベスト4に入ることができました。今後の課題としては、まず精神面をもっと強くすることと、中陣からの攻撃を取り入れること、そして切り替え(フォア・バック)をよくすること。レシーブをできるだけフォアではらう練習を多くすることです。
◇限界を伸ばす努力を
最後に中高校生に言いたいことは、トレーニングでもフットワークでもなんでもそうですが、自分の限界を少しずつ伸ばしていくようにしなくてはいけない。限界を伸ばすということは、そこに死点(死ぬほどの苦しさ)がある。それを打ち破ってこそ進歩というものがあるのだと信じています。
そして自分が強くなりたいと思ったら、人並みの練習だけではいけない。ひとが1やれば自分は3やるとか、ひとと同じようなことをやっていては、ひとと同じだけの“力”しかつくれない。何事にもよらず、常に死点を求めて努力して、日本卓球界のために、がんばってください。努力していれば、いつかは実ります。
抱負としては、私と高校時代から兄弟のようにして卓球をやってきた1年後輩の加藤正人君(病気で死亡)のために、「君の分までがんばって日本選手権をとる」と心に誓って練習に励んでいます。
にしい とくやす 三重・高田高→名古屋商大出。
23歳。東京青果勤務。左利き、ペン、裏ソフトの攻撃選手、
身長169センチ、体重62キロ。趣味は、映画。全日本選手権3位。
(1968年2月号掲載)
◇毎日、寝る前に腕立てと腹筋運動
高校へ進学後も練習環境には恵まれず、卓球の本を読み、町の卓球場で夜10時ごろまで練習しました。トレーニングは、ランニング、うさぎ飛び、シャドープレーなど。練習内容は、クロスのフォア打ち、3球目攻撃、ショートなど。町の卓球場ではゲーム練習ばかりでした。また寝る前に、20分間の腕立てと腹筋運動を必ずやりました。このころは、腕立ては25回ぐらいしかできませんでした。
高1の県大会では1回戦で負けましたが、地区予選にパスしたことで少し自信をつけ、インターハイ出場を目標に練習量をふやしました。ところが、無理がたたって2カ月間も入院するはめになりました。その間、みんなは練習して強くなっていると思うとくやしくて、卓球に関する本をたくさん読みました。病気がなおってからの私の卓球は、試合になると練習の半分しか力が出ず、悩みに悩みました。そして何度も卓球をやめようと思いました。そんなとき、顧問の鷲尾、本堂両先生が、「がんばって絶え間なく努力していれば、いつかは必ずその努力が実る、決してくじけてはいけない」と励ましてくださいました。
◇バテるまでフットワーク練習
希望していたインターハイにも出れず、高校の卓球生活も終わり、家庭の反対を押し切って名古屋商大に進学しました。1年のときは、よく中京大学や愛知県スポーツ会館へ練習に行きました。入学直後の東海新人大会では運よく決勝まで進出でき、自分でも夢のように思ったぐらいです。しかし、なによりもうれしかったのは、高校時代の努力が実ったんだなぁということがわかったことです。また努力すれば何事も成功するということを再認識して、それからは練習量もふやし、毎日7時間はかかさずやりました。
内容はフォアクロス、バッククロスのロングを各10分間、ショート10分間、スマッシュされたボールをショートで止める練習15分、ショート打ち15分、オールサイズのフットワークを動けなくなるまで―40分間ぐらい。バックハンド15分、3球目攻撃20分、その後ゲーム練習をバテるまで連続して20セットぐらいやりました。
1年の秋には国体、全日本に出場、国体ではあこがれていた高橋さん(シチズン時計)と試合ができ、ほんとうにうれしかったです。2年生になってからは卓球を主体にした生活をするようになりました。成績も試合ごとによくなり、春の中部日本学生選手権では、単複とも優勝することができましたが、東海学生選手権では決勝で負けました。私はカットが打てないので、先輩からドライブをおぼえるようすすめられ、そのためか、このころから少し攻撃がおそくなりました。3年生になってからは、バックハンド、ロビング等、いろいろな技術を身につけることができ、プレーにも幅がでてきたように思います。自分の得意とする3球目攻撃とショートもかかさず練習しました。
◇長谷川選手との猛練習が良薬
春の中部日本学生選手権では、準々決勝で長谷川選手(愛工大)、決勝では馬場園選手(愛工大)を破り、連続優勝することができました。しかしその直後、体の具合が悪く病院へ行ったところ、医師に入院しなくてはいけないと言われ、そのとき私は死刑の宣告でもされたように苦しみました。死んでもいいから卓球をやりたいと思いました。私にとっては今が一番大事なときだったからです。病気も案外早くなおり、それからの私は今までおくれたぶんを取りもどすために、昼は学校で4時間やり夜は愛工大で長谷川選手と約1カ月練習し、1晩中やったこともありました。そのとき、夜中にラーメンをつくってふたりで食べたあの味は、一生忘れることのできない何物にもかえがたいおいしいものでした。ふたりの練習内容はゲーム練習ばかりでした。負けたらいろいろな罰を与えるようにして、いつも30セットから40セットぐらいやりました。そのおかげで東日本学生選手権で5位に入り、全日本選手権でもランク決定までゆくことができました。また、世界選手権の候補選手にまで選ばれました。
4年生になってからは、フォアとバックの切りかえの練習や、ドライブでフットワーク練習も課題に取り入れ、トレーニングのほうは、一番きらいであったランニングも10~20㌔ぐらいであれば平気で走れるようになり、高校時代から寝る前に毎晩やっていた腕立てと腹筋も100回ぐらいは平気でやれるようになっていました。4年生の全日本選手権では、ようやくベスト16に入ることができました。私は東京へ出て卓球をやり直そうと決心して東京青果へ入社しました。
それからの練習は、仕事があるので練習時間も4時間ぐらいになり、練習場もないのでいろいろな大学へ行き練習をやっています。惰性に走ることなく真剣にボールと取りくむようになりました。練習内容はほとんどゲーム練習で、トレーニングは鉄アレイ(7㌔)を使用、ランニング25分間、腹筋や腕立てもやります。ゲーム以外の技術練習はドライブ練習(フットワーク、3球目攻撃)、台上でツー・バウンドするツッツキ練習、フォアとバックの強打をフォアで回り込みスマッシュする練習、ショート等です。いろいろな大学へ行くので毎日変化のある練習ができ、マンネリにならないことがいいと思います。春の全日本実業団では全勝、都市対抗でも優勝することができ、また全日本社会人選手権でも予想以上に決勝まで進出でき、先輩の木村さんに3対1で負けましたがほんとうにうれしかったです。その日から、また全日本のために練習を始めました。
全日本の期間中は毎日30分間走りつづけました。それがよかったのか、シングルスではベスト4に入ることができました。今後の課題としては、まず精神面をもっと強くすることと、中陣からの攻撃を取り入れること、そして切り替え(フォア・バック)をよくすること。レシーブをできるだけフォアではらう練習を多くすることです。
◇限界を伸ばす努力を
最後に中高校生に言いたいことは、トレーニングでもフットワークでもなんでもそうですが、自分の限界を少しずつ伸ばしていくようにしなくてはいけない。限界を伸ばすということは、そこに死点(死ぬほどの苦しさ)がある。それを打ち破ってこそ進歩というものがあるのだと信じています。
そして自分が強くなりたいと思ったら、人並みの練習だけではいけない。ひとが1やれば自分は3やるとか、ひとと同じようなことをやっていては、ひとと同じだけの“力”しかつくれない。何事にもよらず、常に死点を求めて努力して、日本卓球界のために、がんばってください。努力していれば、いつかは実ります。
抱負としては、私と高校時代から兄弟のようにして卓球をやってきた1年後輩の加藤正人君(病気で死亡)のために、「君の分までがんばって日本選手権をとる」と心に誓って練習に励んでいます。
にしい とくやす 三重・高田高→名古屋商大出。
23歳。東京青果勤務。左利き、ペン、裏ソフトの攻撃選手、
身長169センチ、体重62キロ。趣味は、映画。全日本選手権3位。
(1968年2月号掲載)