~ただ試合に参加するだけだった中学時代~
私が卓球を始めたのは中学2年。学校で机をならべて、下敷きでピンポン球を打つことから始まり、卓球というものがおもしろくなり、卓球部に入部しました。中学での成績はふるわず、参加するのみというようなものでした。それで、中学3年の12月ころに、顧問の先生から卓球を伸ばしたいのなら興国高校に行けば、良い指導者(田中拓先生)がいるから一度いってみないかといわれ、見学に行き、この先生ならと思い興国高校に入学しました。
~試合より練習の方がきびしかった~
入学当時は、一年生が15人もいて、全員やる気十分で、朝の6時30分から8時まで練習をやり、放課後は4時30分から7時30分まで規定練習をやり、その後11時くらいまで練習をやりますが、みんなやるので自分も負けたくない、という気持ちで毎日毎日必死で練習しました。学校の練習というものが、とても充実していました。そんな日が続いて、約1カ月がすぎ、1年生の中でもトップクラスに入ることができました。そのころの主な練習方法は、勝つ卓球を目的とし、サービスから3球目・5球目、レシーブから4球目攻撃の練習がほとんどでした。またゲーム練習を多くとり入れ、試合に慣れるように心がけていました。そんなことからサービスと3球目、レシーブと4球目主体の卓球が少しずつできてきたと思います。
精神面は、田中先生がすごくきびしかったのが、非常にプラスになったと思います。練習でも試合でも同じように、真剣な気持ちでしたが、むしろ、練習の方がきびしかったといえます。やはりきびしい練習があったから、試合で思いきったプレーができたのだと思います。高校時代にやっていたトレーニングは、ランニング3~4km、ダッシュ30m×5~6回、腕立て伏せ50回、腹筋50回、手首の強化のために、ビール瓶を100回ぐらい振っていました。体の動きがよくなるように、できるだけ集中してやっていました。ただ、惰性でダラダラやるより短時間をできるだけ集中しました。
~少しずつ上位にくい込めたことが自信になった~
愛知工業大学に入学して、やはり卓球の名門であるだけに、練習というものがきびきびしていました。練習ばかりでなく日常生活もきびしいものだったので、高校とはくらべられないほど、精神が鍛えられたと思います。大学に入り、今までやっていた卓球とは変わり、ラリー戦が必要になってきました。それで自分も、学校の練習によって知らず知らずのうちに、ラリーがひけるようになっていました。入学したころは、小岩さん('72年全日本学生チャンピオン=現在ミツミ電機)も3年生の中にいて、自分なりに参考にし、大学で自分の目的だった"勝てる卓球"というものを学びました。下級生のころは優勝というものには、あまり縁がなかったのですが、だんだん上位にくいこんでいくうちに自信がついてきて、卓球というものを、もっと深く本格的にやるようになり、4年目にして、全日本学生で優勝することができました。
大学でのトレーニングは、早朝6時から始まり、ロードワーク、うさぎとびなど、ほとんどがパワーアップを目的にしたものでした。シーズンオフの冬期間は、朝と夜に、2度トレーニングをやっています。夜のトレーニングは、体育館の3分の2ぐらいを使って、ダッシュ・ストップ・ダッシュなど敏しょう性を養うものでした。
~スマッシュに結びつけるパターン練習を多くやった~
練習は平日で、6時から10時までで、時間単位にフットワーク、システム練習、サービスレシーブ、オールサイドを個人別に、また相手をかえながらやりました。卓球が小さくならないように、色々な相手と練習なり、ゲームを進んでやるようにしました。10時までの基本練習が終わると、あとはフリーで残って練習をやりました。フリーの時は、集中力を高めることに重点をおき、自分の長所を生かし、欠点をなくすような効果的な練習をしました。たとえば、半面対全面の試合や、サービスをきめてゲームをやったりしました。その中でも自分が最も多くやったのは、ボールをたくさん使った練習です。相手にカット性のボールをあげてもらい、ツッツキ打ち、ツッツキをドライブ、カットをスマッシュや連続スマッシュを数を決めてやりました。ただやるのではなく、ミスした分だけ、卓球台のまわりをうさぎとびをしたり、腕立て伏せをやったり、罰をきめてやっていました。また、自分はショートが得意だったから、それを生かす攻撃パターンを練習しました。相手の下回転や横回転サービスをフォアに切れたツッツキで返し、相手がループドライブしたのをバックはプッシュ、フォアはスマッシュするというような、ゲームの中で多く使うパターンを練習しました。
技術面で苦労したのは、レシーブ、レシーブからの4球目攻撃と、バックハンドでした。試合で最も失点率の高いものなので、時間をかけて練習しました。また、自分の卓球は前陣攻守型なのですが、表ソフトの速いピッチで攻めてくるタイプなどに対して、前で逆に打ちかえしたり、後陣でロビングやドライブでねばれるようにも練習しました。
私が目指している卓球は、両ハンド攻撃でフォアハンドのスマッシュをきめていくというものなので、ラリーがひけるようになってからは、主にきりかえからのスマッシュを強化しました。
練習例をあげてみると、
①バックへ来たドライブをショートで全面に送り、全面に返ってきたボールをオールスマッシュする
②レシーブを速いタイミングではらったり、止めたりして、3球目攻撃を全面にしてもらい、フォアハンドスマッシュできめる
③バックストレートの長いサービス(カット性や、ドライブ性のもの)から、レシーブを全面に強打(ドライブ)してもらい、3球目を鋭い振りでピッチを速くして相手の逆コースをつくように打つ
④フォアハンド、バックハンドの変化サービスから、3球目ドライブ、5球目スマッシュする。浮いたボールは、できるだけスマッシュするようにした。自分の得点源であるサービスは、常に練習しています。サービスほど練習の効果のあがる技術はないと思います。しかし、あくまでもサービスはスマッシュにもっていくための手段であって、サービスだけの練習にはならないように注意しています。
~全日本学生の優勝で満足するのではなく今の自分をもっと高めていきたい~
これからの卓球のとりくみ方について私は、ほんとうの意味で、強い卓球というものを学んでいきたいと思います。何本も何本も入れるという手数で勝負する卓球もたいせつではあるけれど、ヨーロッパ、中国、誰に対しても効くようにボールの威力という点でもっと考えていこうと思います。うまいカットマンやショートやハーフボレーを抜くことのできるようなスマッシュなり、ドライブというものを使ってみたいと思います。それにつけ加えて、変化の鋭いサービスや、コースをつくレシーブなど、自分のやらねばならない課題はたくさん残っていると思います。ずっと卓球をやってきて、全日本学生のタイトルをとったことはやはりうれしいけれど、優勝したからといって、これが最高ということはないと思います。練習のできる環境があるのだから、それに甘えずもっと自分を高めるように、生活や練習をやっていきたいと思います。大学生活も残り少ないことだから、卒業後のこともありますが、一日一日をたいせつにして好きな卓球に打ちこんでいきたいと思います。
たむらたかし 愛知工業大学4年
1974全日本学生1位
(1975年3月号掲載)
私が卓球を始めたのは中学2年。学校で机をならべて、下敷きでピンポン球を打つことから始まり、卓球というものがおもしろくなり、卓球部に入部しました。中学での成績はふるわず、参加するのみというようなものでした。それで、中学3年の12月ころに、顧問の先生から卓球を伸ばしたいのなら興国高校に行けば、良い指導者(田中拓先生)がいるから一度いってみないかといわれ、見学に行き、この先生ならと思い興国高校に入学しました。
~試合より練習の方がきびしかった~
入学当時は、一年生が15人もいて、全員やる気十分で、朝の6時30分から8時まで練習をやり、放課後は4時30分から7時30分まで規定練習をやり、その後11時くらいまで練習をやりますが、みんなやるので自分も負けたくない、という気持ちで毎日毎日必死で練習しました。学校の練習というものが、とても充実していました。そんな日が続いて、約1カ月がすぎ、1年生の中でもトップクラスに入ることができました。そのころの主な練習方法は、勝つ卓球を目的とし、サービスから3球目・5球目、レシーブから4球目攻撃の練習がほとんどでした。またゲーム練習を多くとり入れ、試合に慣れるように心がけていました。そんなことからサービスと3球目、レシーブと4球目主体の卓球が少しずつできてきたと思います。
精神面は、田中先生がすごくきびしかったのが、非常にプラスになったと思います。練習でも試合でも同じように、真剣な気持ちでしたが、むしろ、練習の方がきびしかったといえます。やはりきびしい練習があったから、試合で思いきったプレーができたのだと思います。高校時代にやっていたトレーニングは、ランニング3~4km、ダッシュ30m×5~6回、腕立て伏せ50回、腹筋50回、手首の強化のために、ビール瓶を100回ぐらい振っていました。体の動きがよくなるように、できるだけ集中してやっていました。ただ、惰性でダラダラやるより短時間をできるだけ集中しました。
~少しずつ上位にくい込めたことが自信になった~
愛知工業大学に入学して、やはり卓球の名門であるだけに、練習というものがきびきびしていました。練習ばかりでなく日常生活もきびしいものだったので、高校とはくらべられないほど、精神が鍛えられたと思います。大学に入り、今までやっていた卓球とは変わり、ラリー戦が必要になってきました。それで自分も、学校の練習によって知らず知らずのうちに、ラリーがひけるようになっていました。入学したころは、小岩さん('72年全日本学生チャンピオン=現在ミツミ電機)も3年生の中にいて、自分なりに参考にし、大学で自分の目的だった"勝てる卓球"というものを学びました。下級生のころは優勝というものには、あまり縁がなかったのですが、だんだん上位にくいこんでいくうちに自信がついてきて、卓球というものを、もっと深く本格的にやるようになり、4年目にして、全日本学生で優勝することができました。
大学でのトレーニングは、早朝6時から始まり、ロードワーク、うさぎとびなど、ほとんどがパワーアップを目的にしたものでした。シーズンオフの冬期間は、朝と夜に、2度トレーニングをやっています。夜のトレーニングは、体育館の3分の2ぐらいを使って、ダッシュ・ストップ・ダッシュなど敏しょう性を養うものでした。
~スマッシュに結びつけるパターン練習を多くやった~
練習は平日で、6時から10時までで、時間単位にフットワーク、システム練習、サービスレシーブ、オールサイドを個人別に、また相手をかえながらやりました。卓球が小さくならないように、色々な相手と練習なり、ゲームを進んでやるようにしました。10時までの基本練習が終わると、あとはフリーで残って練習をやりました。フリーの時は、集中力を高めることに重点をおき、自分の長所を生かし、欠点をなくすような効果的な練習をしました。たとえば、半面対全面の試合や、サービスをきめてゲームをやったりしました。その中でも自分が最も多くやったのは、ボールをたくさん使った練習です。相手にカット性のボールをあげてもらい、ツッツキ打ち、ツッツキをドライブ、カットをスマッシュや連続スマッシュを数を決めてやりました。ただやるのではなく、ミスした分だけ、卓球台のまわりをうさぎとびをしたり、腕立て伏せをやったり、罰をきめてやっていました。また、自分はショートが得意だったから、それを生かす攻撃パターンを練習しました。相手の下回転や横回転サービスをフォアに切れたツッツキで返し、相手がループドライブしたのをバックはプッシュ、フォアはスマッシュするというような、ゲームの中で多く使うパターンを練習しました。
技術面で苦労したのは、レシーブ、レシーブからの4球目攻撃と、バックハンドでした。試合で最も失点率の高いものなので、時間をかけて練習しました。また、自分の卓球は前陣攻守型なのですが、表ソフトの速いピッチで攻めてくるタイプなどに対して、前で逆に打ちかえしたり、後陣でロビングやドライブでねばれるようにも練習しました。
私が目指している卓球は、両ハンド攻撃でフォアハンドのスマッシュをきめていくというものなので、ラリーがひけるようになってからは、主にきりかえからのスマッシュを強化しました。
練習例をあげてみると、
①バックへ来たドライブをショートで全面に送り、全面に返ってきたボールをオールスマッシュする
②レシーブを速いタイミングではらったり、止めたりして、3球目攻撃を全面にしてもらい、フォアハンドスマッシュできめる
③バックストレートの長いサービス(カット性や、ドライブ性のもの)から、レシーブを全面に強打(ドライブ)してもらい、3球目を鋭い振りでピッチを速くして相手の逆コースをつくように打つ
④フォアハンド、バックハンドの変化サービスから、3球目ドライブ、5球目スマッシュする。浮いたボールは、できるだけスマッシュするようにした。自分の得点源であるサービスは、常に練習しています。サービスほど練習の効果のあがる技術はないと思います。しかし、あくまでもサービスはスマッシュにもっていくための手段であって、サービスだけの練習にはならないように注意しています。
~全日本学生の優勝で満足するのではなく今の自分をもっと高めていきたい~
これからの卓球のとりくみ方について私は、ほんとうの意味で、強い卓球というものを学んでいきたいと思います。何本も何本も入れるという手数で勝負する卓球もたいせつではあるけれど、ヨーロッパ、中国、誰に対しても効くようにボールの威力という点でもっと考えていこうと思います。うまいカットマンやショートやハーフボレーを抜くことのできるようなスマッシュなり、ドライブというものを使ってみたいと思います。それにつけ加えて、変化の鋭いサービスや、コースをつくレシーブなど、自分のやらねばならない課題はたくさん残っていると思います。ずっと卓球をやってきて、全日本学生のタイトルをとったことはやはりうれしいけれど、優勝したからといって、これが最高ということはないと思います。練習のできる環境があるのだから、それに甘えずもっと自分を高めるように、生活や練習をやっていきたいと思います。大学生活も残り少ないことだから、卒業後のこともありますが、一日一日をたいせつにして好きな卓球に打ちこんでいきたいと思います。
たむらたかし 愛知工業大学4年
1974全日本学生1位
(1975年3月号掲載)