~大学までのわたし~
わたしは小学校の頃野球が好きで、将来甲子園に出場したいという目標を持っていました。しかし、小学校の先生から「お前は体が小さいから他のスポーツで一流になれ」と言われ、わたしは野球の次に卓球が好きでしたので卓球を始めました。
それがきっかけで三橋中学(福岡県山門郡)の卓球部に入部しました。そこには森雄三郎先生というたいへん熱心な指導者がおります。森先生の育てられた選手には、昭和43年ジュニアチャンピオンの古賀先輩、そして後輩には、昨年度のインターハイ三冠王の渡辺君(熊谷商)がいます。
三橋中学という卓球をするためには恵まれた環境の中で、夏休み等の休みはいっさいなく、きびしい練習が続き、わたしも生来の負けず嫌いでがんばりました。
三橋中時代の練習は、OBが福岡市内の福岡大学や博多高校に多いため、わたしたちはその頃よく他流試合に出かけ、いろいろなタイプの人と試合をすることができました。このことはわたしにとって、たとえ先輩であろうとも気迫を持って戦えば負けることはないと思い、同時に試合慣れという意味では貴重な経験を積むことができたと思っています。
その後、地元の柳川商業高校にすすみ、やはり卓球部に入りました。高校の3年間は、自分なりに一生懸命やりましたし、インターハイなどにも出場しましたが、満足な成績は残せませんでした。そして今考えてみるとわたしの卓球はその頃マンネリ化していたのだと思います。
~九州産業大学に入って~
家庭の事情もあって、進学するか就職するかずいぶん迷いました。結局、九産大の相原監督(中大OB)や森先生のすすめもあって、九州産業大学へ入学しました。
大学で卓球ができたことは、わたしの一生の喜びです。幸いにも全日本学生に優勝することができ、大学当局、部長先生、監督さんをはじめ、わたしを応援してくださった多くの人に御恩返しができたとうれしく思っています。
大学に入学した当時は、相原監督の経営しておられる平和台卓球センターにおいてママさん卓球の指導の手伝いもしました。この練習場は台のはしから壁までの距離が短いのでカットマンとしては前陣で打球点を落とさないようなカットを引かなければなりませんでした。このことは現在のわたしの卓球の大きな土台となり、台からあまり離れないでカットができるようになりました。わたしのような比較的小柄なカットマンにとってたいへん必要な技術だと思います。
大学へ入学する時、ある先輩から「これからのカットマンは、ただ相手の返球をカットでしのいでいき、相手が打ちあぐんだときにこっちが反撃するというようなオーソドックスな戦型では勝てない」と言われ、わたしもそのとおりだと思い、そしてわたし自身独自の今までにないカットマンの戦型を身につけようと考えました。相原監督もその考えで、次のことに留意して練習しました。
①バック側をアンチスピンラバーに張り替える。と同時にカットに著しく変化をつける
②攻撃型に対しても互角に戦えるだけの、攻撃力+サービス力を身につける
③以上のことと前陣カット打法をミックスする
これらの練習方法として、カットに変化をつけるために、裏ソフトラバーで切らないカットをして、アンチスピンラバーで切るようなカットをそれぞれノーミスで100本、その途中でミスをすれば、元にもどって1本から始める。この時の練習相手にはカット打ちのうまい人を選びました。
攻撃力をつけるためにはいろいろな種類のサービスからの3球目攻撃を練習の合い間にはさみました。そしてゲーム練習でそれらの事項を積極的に取り入れ、ミスをおそれず毎日実行しました。
今ではこれらの練習の成果が現れ、カットに変化がつき、攻撃力も身について、プレーの幅をつけることができたと思っています。
~試合と練習~
わたしをこの4年間指導してくださった相原監督は「試合こそが何よりもすぐれた練習だ」という信念の持ち主です。そこで、わたしたちは小さな大会から大きな大会にいたるまで、出場できる試合にはほとんど出場してきました。そのために大学事務局やOBに経済的な負担もずいぶんかけましたが、そのおかげでわたしたちはいつも試合のことを考え、常に目的意識を持って練習に取り組むことができました。このことは同時に"試合で何かを身につける"という考えになり、試合が終わるたびに自分なりにメモを取り、対戦相手の研究をし次の試合でどの部分を修正するかということを翌日からの練習にとり入れる、というようになってきました。
この繰り返しによって、技術面や精神面(団体戦のムードに呑まれず実力を十二分に発揮するという力)等が向上したと思います。
試合で学んだといえば、わたしは大学2年の時、西日本学生選手権に出場し、近畿大学の五藤選手の試合ぶりを見ました。得点するたびに気合いを入れ、全身で声を出しているのをみて、「これだ!」と思いました。
それ以来わたしはこのことを試合(特に団体戦)に取り入れ効果を上げています。
また、わたしがここまでこれたのは、入学当初から常に"打倒福岡大学"という目標を意識してきたことです。わたしの考えとして良い意味でのライバル意識を持つということは、自分の力(技術面、精神面)を高めるのに重要なことだと強く思っています。
~全日本学生選手権~
昨年の11月の全日本学生選手権の期間中、普通ならわたしたちのような地方から遠征してきたものにとって、試合前の練習は、勝手がわからず無理だと思っていました。しかし、監督さんの努力で会場近くの卓球場を確保することができ、その卓球場で試合の直前まで自分の納得のいく練習ができました。このためにわたしのようなスロースターターな選手でも1回戦から調子を出すことができ、あまり苦戦もなく勝ち進み、この大会の最初のやまばである3回戦で、世界ランキングに入っている近大の五藤選手に勝つことができたと思っています。
この試合を切りぬけたことによってわたしの好調さにさらに拍車がかかり、学生卓球界のトップクラスの坂本選手(日大・昨年度全日本学生チャンピオン)にも勝ち、ついには決勝まで進み、絶好調の当たりで日大の清水選手に勝つことができました。
今、試合を振り返り、わたしがその好調さを維持することができたのは、試合前に十分な練習ができるような環境を作り、自信を持たせてくださった監督さんのおかげであり、改めて卓球というスポーツには心理的なものが重要だ、ということを痛感しています。
~今後の目標~
わたしは日本楽器へ入社が内定し、社会人になっても卓球を続けられるというよい環境に恵まれることになりました。これを機会に自分の力にいっそうみがきをかけ卓球面においても、人間的にも成長しなければならないと思います。
まだまだわたしの技術は未熟です。多くの人から貴重なアドバイスをいただき、また自分でも工夫をし、より高い世界に適用する技術を身につけたいと考えています。
今後は世界選手権を目ざし、それを目標にがんばりたいと思います。
よしだかつゆき 福岡・九州産業大学
1979年全日本学生単優勝
(1980年2月号掲載)
わたしは小学校の頃野球が好きで、将来甲子園に出場したいという目標を持っていました。しかし、小学校の先生から「お前は体が小さいから他のスポーツで一流になれ」と言われ、わたしは野球の次に卓球が好きでしたので卓球を始めました。
それがきっかけで三橋中学(福岡県山門郡)の卓球部に入部しました。そこには森雄三郎先生というたいへん熱心な指導者がおります。森先生の育てられた選手には、昭和43年ジュニアチャンピオンの古賀先輩、そして後輩には、昨年度のインターハイ三冠王の渡辺君(熊谷商)がいます。
三橋中学という卓球をするためには恵まれた環境の中で、夏休み等の休みはいっさいなく、きびしい練習が続き、わたしも生来の負けず嫌いでがんばりました。
三橋中時代の練習は、OBが福岡市内の福岡大学や博多高校に多いため、わたしたちはその頃よく他流試合に出かけ、いろいろなタイプの人と試合をすることができました。このことはわたしにとって、たとえ先輩であろうとも気迫を持って戦えば負けることはないと思い、同時に試合慣れという意味では貴重な経験を積むことができたと思っています。
その後、地元の柳川商業高校にすすみ、やはり卓球部に入りました。高校の3年間は、自分なりに一生懸命やりましたし、インターハイなどにも出場しましたが、満足な成績は残せませんでした。そして今考えてみるとわたしの卓球はその頃マンネリ化していたのだと思います。
~九州産業大学に入って~
家庭の事情もあって、進学するか就職するかずいぶん迷いました。結局、九産大の相原監督(中大OB)や森先生のすすめもあって、九州産業大学へ入学しました。
大学で卓球ができたことは、わたしの一生の喜びです。幸いにも全日本学生に優勝することができ、大学当局、部長先生、監督さんをはじめ、わたしを応援してくださった多くの人に御恩返しができたとうれしく思っています。
大学に入学した当時は、相原監督の経営しておられる平和台卓球センターにおいてママさん卓球の指導の手伝いもしました。この練習場は台のはしから壁までの距離が短いのでカットマンとしては前陣で打球点を落とさないようなカットを引かなければなりませんでした。このことは現在のわたしの卓球の大きな土台となり、台からあまり離れないでカットができるようになりました。わたしのような比較的小柄なカットマンにとってたいへん必要な技術だと思います。
大学へ入学する時、ある先輩から「これからのカットマンは、ただ相手の返球をカットでしのいでいき、相手が打ちあぐんだときにこっちが反撃するというようなオーソドックスな戦型では勝てない」と言われ、わたしもそのとおりだと思い、そしてわたし自身独自の今までにないカットマンの戦型を身につけようと考えました。相原監督もその考えで、次のことに留意して練習しました。
①バック側をアンチスピンラバーに張り替える。と同時にカットに著しく変化をつける
②攻撃型に対しても互角に戦えるだけの、攻撃力+サービス力を身につける
③以上のことと前陣カット打法をミックスする
これらの練習方法として、カットに変化をつけるために、裏ソフトラバーで切らないカットをして、アンチスピンラバーで切るようなカットをそれぞれノーミスで100本、その途中でミスをすれば、元にもどって1本から始める。この時の練習相手にはカット打ちのうまい人を選びました。
攻撃力をつけるためにはいろいろな種類のサービスからの3球目攻撃を練習の合い間にはさみました。そしてゲーム練習でそれらの事項を積極的に取り入れ、ミスをおそれず毎日実行しました。
今ではこれらの練習の成果が現れ、カットに変化がつき、攻撃力も身について、プレーの幅をつけることができたと思っています。
~試合と練習~
わたしをこの4年間指導してくださった相原監督は「試合こそが何よりもすぐれた練習だ」という信念の持ち主です。そこで、わたしたちは小さな大会から大きな大会にいたるまで、出場できる試合にはほとんど出場してきました。そのために大学事務局やOBに経済的な負担もずいぶんかけましたが、そのおかげでわたしたちはいつも試合のことを考え、常に目的意識を持って練習に取り組むことができました。このことは同時に"試合で何かを身につける"という考えになり、試合が終わるたびに自分なりにメモを取り、対戦相手の研究をし次の試合でどの部分を修正するかということを翌日からの練習にとり入れる、というようになってきました。
この繰り返しによって、技術面や精神面(団体戦のムードに呑まれず実力を十二分に発揮するという力)等が向上したと思います。
試合で学んだといえば、わたしは大学2年の時、西日本学生選手権に出場し、近畿大学の五藤選手の試合ぶりを見ました。得点するたびに気合いを入れ、全身で声を出しているのをみて、「これだ!」と思いました。
それ以来わたしはこのことを試合(特に団体戦)に取り入れ効果を上げています。
また、わたしがここまでこれたのは、入学当初から常に"打倒福岡大学"という目標を意識してきたことです。わたしの考えとして良い意味でのライバル意識を持つということは、自分の力(技術面、精神面)を高めるのに重要なことだと強く思っています。
~全日本学生選手権~
昨年の11月の全日本学生選手権の期間中、普通ならわたしたちのような地方から遠征してきたものにとって、試合前の練習は、勝手がわからず無理だと思っていました。しかし、監督さんの努力で会場近くの卓球場を確保することができ、その卓球場で試合の直前まで自分の納得のいく練習ができました。このためにわたしのようなスロースターターな選手でも1回戦から調子を出すことができ、あまり苦戦もなく勝ち進み、この大会の最初のやまばである3回戦で、世界ランキングに入っている近大の五藤選手に勝つことができたと思っています。
この試合を切りぬけたことによってわたしの好調さにさらに拍車がかかり、学生卓球界のトップクラスの坂本選手(日大・昨年度全日本学生チャンピオン)にも勝ち、ついには決勝まで進み、絶好調の当たりで日大の清水選手に勝つことができました。
今、試合を振り返り、わたしがその好調さを維持することができたのは、試合前に十分な練習ができるような環境を作り、自信を持たせてくださった監督さんのおかげであり、改めて卓球というスポーツには心理的なものが重要だ、ということを痛感しています。
~今後の目標~
わたしは日本楽器へ入社が内定し、社会人になっても卓球を続けられるというよい環境に恵まれることになりました。これを機会に自分の力にいっそうみがきをかけ卓球面においても、人間的にも成長しなければならないと思います。
まだまだわたしの技術は未熟です。多くの人から貴重なアドバイスをいただき、また自分でも工夫をし、より高い世界に適用する技術を身につけたいと考えています。
今後は世界選手権を目ざし、それを目標にがんばりたいと思います。
よしだかつゆき 福岡・九州産業大学
1979年全日本学生単優勝
(1980年2月号掲載)