私にとって高校3年間は、とても幸運であったと思います。松井先生をはじめ数多くの諸先生にご指導を承ったこと、世界選手権や多くの遠征に出場できたこと、それに、数多くのすばらしい選手のプレーを見ることができ、アドバイスをいただいたことなどからです。
また、私の卓球人生で幸運と思えるのは、小学校3年生の時から10年間、技術面の指導はもちろん、精神的な面での私のささえになってくださった見城勉先生にめぐり会えたことです。
~インターハイ初優勝~
指宿インターハイ(昭和57年)は、私にとって忘れることのできない大会です。念願だった初の全国大会優勝でした。インターハイ2週間くらい前から食べ物がのどを通らない毎日でした。それまで3度決勝で敗れていたので不安になり、神経質になっていました。そのためか、インターハイまでに体重が7キロも減ってしまいました。
このインターハイに備えて特に練習した内容は、カット打ち、フットワーク、オールの切りかえ、サービス・レシーブからの攻撃が中心でした。カット打ちでは100本連続ラリーや、カット打ちでオールのフットワーク、攻めのドライブなどの練習をしました。フットワークをいくらしても不安ばかり残るので、試合では動けるようにフットワーク量を増やしてばかりいました。今思えば、体力がないのに、あんなにフットワークばかりしたらよけいに試合で足が動かなくなるのに、と笑えてきますが...。しかし、良い結果が出たのは、「自分はこれだけやったんだ、負けるはずがない」と自信を持てたことだと思います。ですから、今まではリードされるとそのまま負けてしまいましたが、この大会では逆転することができるようになりました。
この大会前に、前原選手(協和発酵)からタオルとアドバイスの手紙をいただきました。決勝戦では、そのタオルを使わせていただき、アドバイスの手紙は、試合のたびに読みました。その中で、「太っ腹!」「勇気」という言葉は、何度も私を励ましてくれました。
また、両親は、私の出場する大会はすべて見に来てくれていました。中学1年の北九州でも、中学2年の青森でも。そして今回の試合も見に来てくれる予定でしたが、私が両親が来ると心に甘えができるから来ないように言いました。今思うと、せっかく応援にかけつけようとしていたのに悪いことをしてしまったと思っています。このように、私が優勝できた過程には様々なことがあり、周囲の方々のおかげであると感謝しています。
~世界選手権に出場して~
世界選手権大会が昨年の4月末から5月の初めまで東京で開催されました。自分では、とても心残りのある大会でした。せっかく団体決勝に使っていただいたのに、自分の力を十分発揮することができなかったからです。けれども、この大会が私を大きく変えさせてくれたと思っています。
技術的には、攻めるドライブの必要性、レシーブの確実性、それに弱点は徹底的に攻められてしまうので、弱点をなくす努力をしなければいけないとつくづく感じました。試合というものの恐ろしさ、異常さも感じました。また、世界選手権前の90日合宿を通して、そしてまた大会を通して、人間性というものを学んだように思います。今だから言えますが、この大会が終わってからは、卓球をやめようと思っていました。が、今日まで続けてこられたのは、私のまわりにすばらしい人々がいてくださり、その方々が私をささえてくださったからです。
この大会後からインターハイまでは、速いドライブの強化、弱点をなくす、レシーブを確実に入れる、ことを課題として練習に取り組みました。同時に、世界選手権の合宿で教えていただいた鉄アレイのトレーニングも取り入れました。
~名古屋IH(インターハイ)から全日本まで~
私が一番伸びたのは名古屋インターハイ(昭和58年)から全日本選手権までの時期だと感じます。一つはインターハイの悔しさがあったからだと思います。特に決勝戦では、受け身になってしまい、思いきったプレーができなかったからです。本当に残念でした。ですから、次の試合からは、常に向かっていく気持ちで試合に臨もうと決心しました。
裏面にアンチをはった合板ラケットから、片面だけ裏ソフトをはったよく弾む単板ラケットに変えたのもこの頃です。異質攻撃型からオーソドックスな型に変えた理由は、
㋑技術の切れをよくする
㋺スピードをつける
㋩新ルールになる
...といったことからです。それに、自分の卓球そのものにとっても、そうあるべきだと思ったからです。
それから、アジアカップの中国遠征は大変勉強になりました。成績は、日本チームの中で私が一番悪く、16人中12位という成績でした。けれども、斉藤選手や小野選手にアドバイスをしていただきました。特に、「自分で考えて卓球をしていない」「ウラを使用しているのに表ソフトみたいなドライブをかけている」と、言われ、当たっているだけにショックでした。それからグリップについても話を聞かせてもらいました。また、ゲームの中では、まだレシーブが悪いと感じ、バックはショートだけでは絶対勝てないと感じました。
この遠征では、自分の技術の欠点をまざまざと見せつけられ、卓球に関する未熟さも痛感しました。ですから以後の練習は、自分の卓球は何が得点源なのか、どこが悪いのか、考えるように努めました。それと、ドライブのかけ方は、人のフォームを見たり、自分なりに研究したりしました。また、グリップも変えました。全日本優勝後にドライブが上手になったと言われたので、成果が少しは出たかな、と思っています。
11月の末からのヨーロッパ遠征では、ヨーロッパ選手や韓国の梁英子選手と対戦し、その時に自分の位置の大切さ、技術の狭さを感じました。けれども、ドライブを前でたたくフォームを身につけてこられました。帰国後は、常に台との位置を意識するように心がけました。
このように私は、多くの大会や遠征に出場でき、そのつど刺激を受け、新しい技術を学ぶことができ、新しい練習方法や自分の卓球を見直すことができたことは、幸いでした。
~全日本前の練習~
ヨーロッパ遠征から帰国して、全日本までの調整期間は約2週間しかありませんでしたが、あまり調子は悪くなっていなかったのが幸いでした。
練習で特に気をつけていたことは、もどりを速くする、前後の微調整ができるようにする、ドライブの種類を多くする、ことです。これらは、全日本で完璧とは言えませんが、試合に現れたので嬉しかったです。内容は、ゲーム、フットワーク、サービス・レシーブからの攻撃、回り込みが主でした。今までと異なったのは、規則的なフットワークをあまりせず、ランダムのフットワークを沢山取り入れました。これらの練習の目的は、前後の動きを良くする、戻りを速くすることによって多くのスマッシュを打てるようにする、対カットマンに強くなる、などです。
それから、今回の全日本で私が勝ち進むと嶋内選手と対戦するということで、毎日表ソフトの選手とゲームを行いました。
~これからの課題と抱負~
昭和58年度の全日本は幸運にも優勝することができましたが、まだまだ沢山の課題が残っています。大学に入学してからは、次のことを特に強化していきたいと思っています。
①レシーブの強化
一つのレシーブ方法(技術)だけではなく、いろいろなレシーブ技術をマスターしたいと思います。
②バックハンドを振る卓球を目指す
そうすれば、攻めに幅が出てくると思うからです。
③何種類ものドライブを身につける
速いドライブ、曲がるドライブ、ループドライブ、短いドライブ、などです。
サービス、一発の威力あるスマッシュの研究なども必要です。そして最終的には、どのような技術をも身につけ、戦術に幅を持たせ、世界選手権で活躍できる選手を目標に努力していきたいと思います。
ほしのみか
前橋東高→青学大1年
左、ペン、高摩擦裏ソフト使用の前陣攻守型。
インターハイ2連勝後、大きく成長。'83年全日本では、ドライブ性ロングサービスを多用する積極的なプレーで女王の座に。'83年世界・東京大会日本代表。
(1984年4月号掲載)
また、私の卓球人生で幸運と思えるのは、小学校3年生の時から10年間、技術面の指導はもちろん、精神的な面での私のささえになってくださった見城勉先生にめぐり会えたことです。
~インターハイ初優勝~
指宿インターハイ(昭和57年)は、私にとって忘れることのできない大会です。念願だった初の全国大会優勝でした。インターハイ2週間くらい前から食べ物がのどを通らない毎日でした。それまで3度決勝で敗れていたので不安になり、神経質になっていました。そのためか、インターハイまでに体重が7キロも減ってしまいました。
このインターハイに備えて特に練習した内容は、カット打ち、フットワーク、オールの切りかえ、サービス・レシーブからの攻撃が中心でした。カット打ちでは100本連続ラリーや、カット打ちでオールのフットワーク、攻めのドライブなどの練習をしました。フットワークをいくらしても不安ばかり残るので、試合では動けるようにフットワーク量を増やしてばかりいました。今思えば、体力がないのに、あんなにフットワークばかりしたらよけいに試合で足が動かなくなるのに、と笑えてきますが...。しかし、良い結果が出たのは、「自分はこれだけやったんだ、負けるはずがない」と自信を持てたことだと思います。ですから、今まではリードされるとそのまま負けてしまいましたが、この大会では逆転することができるようになりました。
この大会前に、前原選手(協和発酵)からタオルとアドバイスの手紙をいただきました。決勝戦では、そのタオルを使わせていただき、アドバイスの手紙は、試合のたびに読みました。その中で、「太っ腹!」「勇気」という言葉は、何度も私を励ましてくれました。
また、両親は、私の出場する大会はすべて見に来てくれていました。中学1年の北九州でも、中学2年の青森でも。そして今回の試合も見に来てくれる予定でしたが、私が両親が来ると心に甘えができるから来ないように言いました。今思うと、せっかく応援にかけつけようとしていたのに悪いことをしてしまったと思っています。このように、私が優勝できた過程には様々なことがあり、周囲の方々のおかげであると感謝しています。
~世界選手権に出場して~
世界選手権大会が昨年の4月末から5月の初めまで東京で開催されました。自分では、とても心残りのある大会でした。せっかく団体決勝に使っていただいたのに、自分の力を十分発揮することができなかったからです。けれども、この大会が私を大きく変えさせてくれたと思っています。
技術的には、攻めるドライブの必要性、レシーブの確実性、それに弱点は徹底的に攻められてしまうので、弱点をなくす努力をしなければいけないとつくづく感じました。試合というものの恐ろしさ、異常さも感じました。また、世界選手権前の90日合宿を通して、そしてまた大会を通して、人間性というものを学んだように思います。今だから言えますが、この大会が終わってからは、卓球をやめようと思っていました。が、今日まで続けてこられたのは、私のまわりにすばらしい人々がいてくださり、その方々が私をささえてくださったからです。
この大会後からインターハイまでは、速いドライブの強化、弱点をなくす、レシーブを確実に入れる、ことを課題として練習に取り組みました。同時に、世界選手権の合宿で教えていただいた鉄アレイのトレーニングも取り入れました。
~名古屋IH(インターハイ)から全日本まで~
私が一番伸びたのは名古屋インターハイ(昭和58年)から全日本選手権までの時期だと感じます。一つはインターハイの悔しさがあったからだと思います。特に決勝戦では、受け身になってしまい、思いきったプレーができなかったからです。本当に残念でした。ですから、次の試合からは、常に向かっていく気持ちで試合に臨もうと決心しました。
裏面にアンチをはった合板ラケットから、片面だけ裏ソフトをはったよく弾む単板ラケットに変えたのもこの頃です。異質攻撃型からオーソドックスな型に変えた理由は、
㋑技術の切れをよくする
㋺スピードをつける
㋩新ルールになる
...といったことからです。それに、自分の卓球そのものにとっても、そうあるべきだと思ったからです。
それから、アジアカップの中国遠征は大変勉強になりました。成績は、日本チームの中で私が一番悪く、16人中12位という成績でした。けれども、斉藤選手や小野選手にアドバイスをしていただきました。特に、「自分で考えて卓球をしていない」「ウラを使用しているのに表ソフトみたいなドライブをかけている」と、言われ、当たっているだけにショックでした。それからグリップについても話を聞かせてもらいました。また、ゲームの中では、まだレシーブが悪いと感じ、バックはショートだけでは絶対勝てないと感じました。
この遠征では、自分の技術の欠点をまざまざと見せつけられ、卓球に関する未熟さも痛感しました。ですから以後の練習は、自分の卓球は何が得点源なのか、どこが悪いのか、考えるように努めました。それと、ドライブのかけ方は、人のフォームを見たり、自分なりに研究したりしました。また、グリップも変えました。全日本優勝後にドライブが上手になったと言われたので、成果が少しは出たかな、と思っています。
11月の末からのヨーロッパ遠征では、ヨーロッパ選手や韓国の梁英子選手と対戦し、その時に自分の位置の大切さ、技術の狭さを感じました。けれども、ドライブを前でたたくフォームを身につけてこられました。帰国後は、常に台との位置を意識するように心がけました。
このように私は、多くの大会や遠征に出場でき、そのつど刺激を受け、新しい技術を学ぶことができ、新しい練習方法や自分の卓球を見直すことができたことは、幸いでした。
~全日本前の練習~
ヨーロッパ遠征から帰国して、全日本までの調整期間は約2週間しかありませんでしたが、あまり調子は悪くなっていなかったのが幸いでした。
練習で特に気をつけていたことは、もどりを速くする、前後の微調整ができるようにする、ドライブの種類を多くする、ことです。これらは、全日本で完璧とは言えませんが、試合に現れたので嬉しかったです。内容は、ゲーム、フットワーク、サービス・レシーブからの攻撃、回り込みが主でした。今までと異なったのは、規則的なフットワークをあまりせず、ランダムのフットワークを沢山取り入れました。これらの練習の目的は、前後の動きを良くする、戻りを速くすることによって多くのスマッシュを打てるようにする、対カットマンに強くなる、などです。
それから、今回の全日本で私が勝ち進むと嶋内選手と対戦するということで、毎日表ソフトの選手とゲームを行いました。
~これからの課題と抱負~
昭和58年度の全日本は幸運にも優勝することができましたが、まだまだ沢山の課題が残っています。大学に入学してからは、次のことを特に強化していきたいと思っています。
①レシーブの強化
一つのレシーブ方法(技術)だけではなく、いろいろなレシーブ技術をマスターしたいと思います。
②バックハンドを振る卓球を目指す
そうすれば、攻めに幅が出てくると思うからです。
③何種類ものドライブを身につける
速いドライブ、曲がるドライブ、ループドライブ、短いドライブ、などです。
サービス、一発の威力あるスマッシュの研究なども必要です。そして最終的には、どのような技術をも身につけ、戦術に幅を持たせ、世界選手権で活躍できる選手を目標に努力していきたいと思います。
ほしのみか
前橋東高→青学大1年
左、ペン、高摩擦裏ソフト使用の前陣攻守型。
インターハイ2連勝後、大きく成長。'83年全日本では、ドライブ性ロングサービスを多用する積極的なプレーで女王の座に。'83年世界・東京大会日本代表。
(1984年4月号掲載)