~父の練習台~
私がラケットを握ったのは小学5年生の頃です。
そのきっかけとなったのは父でした。
父が卓球が好きで家に卓球台を1台買い、そして私は父の練習台にされてしまったのです。
その頃、私はスポーツ少年団でやっていたミニバスケットに夢中でした。そちらに熱中していたので卓球は父に無理やり...という感じで、週二日ぐらいでした。
しかし、中学にバスケット部がないことを知り、6年生の半ば頃に「中学では卓球部に入る」ことを決め、その頃から卓球に興味を持ち始めました。
中学に入ってからの練習は毎日2時間ぐらいで、週に1日は打たない日がありました。ひどい時は3日も打たない日もあって、練習量はけっして多くありませんでした。でも練習中は、集中して、納得するまでやらないと気がすまないほうでした。中学時代の練習は、ほとんどが試合で基本が全然できていなかったので、高校に入ってから、"基本""基本"とやっています。
~合宿で全敗した中1時代~
自分がここまでこられた大きなキッカケとして、中学1年の時の、思ってもいなかった東北大会優勝があります。東北大会は当時一番大きな大会で「お姉さん達とやれるんだから、思いきっていけばいい」と無我夢中でボールを追いかけ、気がついたら優勝していました。
この優勝が原因で、全国からカデット12名を選抜して大阪で行われた全日本の合宿に選ばれました。
選抜されたのは東京近辺の人ばかりで、第一に感じたのは「皆、ピッチが自分よりかなり速い」ことでした。
当時の私の卓球は、背が低いくせにフォアで回り込み後ろに下がってドライブ、ドライブと言う、今とは信じられないぐらい違う卓球をしていました。
その合宿で12名総当たりのリーグ戦を行いました。ほとんどゲームオールでしたが1勝もできず「背が低いのにそんなに下がってドライブばかりしてちゃ、ヨーロッパにはパワーでふっとばされるし、中国には振り回されて終わりだ」と、厳しい言葉を言われました。
確かにその通りだと感じ、家へ帰ってからの練習は多球練習でピッチを速くすることだけ考えてやりました。毎日やっていくうちにだんだん良くなり、宮城県では一般の部でも決勝にいくぐらいになりました。
中学2年の終わりにアジアジュニアのカデットの部の日本代表に選ばれました。大会では、ジュニアの部でプレーする韓国の玄静和、洪次玉といった現在世界で活躍中の選手を間近でみて、自分との差をすごく感じました。そして大会後、何回も何回もアジアジュニアのビデオを見て、一般の部も意識するようになりました。
~寮生活にひかれ白鵬に~
全日本をとれたのは、みんなこの学校(白鵬女子高校。入学当時、京浜女子商業)に入学したおかげです。
中学の時は、学業の方を考えていましたので、いろいろな学校からお誘いがかかりましたが、考えたあげく、「宮城県に残ろう」と決めていました。その後にお誘いがあったのが白鵬女子高校でした。なぜいったん決めた気持ちを変えたかといいますと、白鵬女子高校の寮生活の話にひかれたからです。
炊事、洗濯、掃除...。自分のことを全部自分でやらなくてはならない。いままではほとんどお母さんにやってもらっていたのに...。大変だろうなあ、とは思いましたが、そんな中でやっていけば精神面が鍛えられるだろうし、卓球でも必ず生きる。そこにひかれたのです。
入学後は確かに自分が思っていたように、いやそれ以上につらいものがあり、厳しい生活でした。
練習内容も基本練習が多くなり、中学時代の倍以上の時間をこなさなければならないので大変でした。熱が出てきたり、体力がないので、練習の最後の1時間ぐらいになると集中力がなくなる、といった日が続きました。
高1のインターハイの1ヵ月ぐらい前から、だいぶ体力がついてきました。が、今度は私にとって夏の暑さが「最大の敵」になりました。
私の出身の宮城県は、昼間は暑いのですがカラッとしていて、朝晩は涼しいのです。そのため夜眠れないということはなかったのに、白鵬の練習場はサウナに入って練習しているみたいで、夜は暑くて眠れない。そのためインターハイの直前に、何度か倒れてしまいました。
インターハイ後、1年の冬のジュニアで優勝してから、私の卓球、というか、気持ちが変わってきました。
それまでは「優勝なんてまだまだだ」と思っていたのに、まぐれでも優勝してしまうと「簡単には負けられない」「恥ずかしい試合はできない」と思うようになり、練習も自分でも感じるぐらい変わりました。
その時から「自分は背が低いので、相手とちょっと違うことをやらないと勝てない」と痛感し、近藤先生から「バックドライブを忘れるな」と言われたこともあり、"ここ一本"で使う技として、バックドライブを常に頭に入れて練習するようになりました。
~睡眠不足で全日本優勝~
昨年の全日本の前に力を入れた練習は、バックドライブと、その次のフォアハンドの攻めでした。
やはり一発で抜く技術がないと上へいってつらいので「一発で抜くフォアハンド」とバックハンドでもドライブだけでなく「ミートの強い角度打ち(強打)」の練習を主体に、サービスの強化(回転、スピード、コースの調整)、フォアハンドだけの強化...などに取り組みました。
全日本の前にアジアカップがあり、その大会で少々自信がついて、全日本へのやる気が一段と起きました。
とういのは、アジアカップの予選リーグで香港のチャイポーワ選手と対戦。対戦前に「イボ高を使ってチャンスをつくり、反転して裏ソフトのドライブやスマッシュで攻める。器用で、日本選手が総ナメになった」と聞いていたので恐れていたのですが、やってみると特別やりにくくなかったのです。勝ちそうだっただけに「この程度の選手ならなんとか工夫すれば大丈夫だな」と感じました。また中国の鄧亜萍選手が、私よりも背が低いのに、低いなりに工夫して逆モーションで攻めたり、なるほどなあと思わせる技術で優勝するのを見て、「私もやれる」と自信がつきました。
全日本の前には「少し卓球を変えよう」として壁にあたったりもしました。また直前に試験があり、1週間ぐらい、睡眠が2時間ぐらいしかとれず、疲れのとれないまま全日本に臨みました。
体重が減り、目をへっこませながら大会に出たので、2日目、3日目ぐらいまでは十分な力を発揮できなかったのですが、睡眠をとるよう努力し、学校の先生にマッサージをしていただいたり、チームメイトにいつも気を遣っていただいたりで、周りの人たちには本当に恵まれていました。チームの応援なしでは、絶対に全日本優勝はなかったと思います。それだけに優勝に価値があり、日がたつにつれて、うれしさを感じています。
しかし、うれしさにおわれて、ここで終わるわけにはいきません。3月には世界選手権という大きな大会に、初めて出場させていただけるわけですから、自分のどの技が通用するか、しないか、を調べてくると同時に、当たって、当たって、「若さある」といわれるような思いきった試合をしてきたいと思っています。
そのための課題として、「バック系技術」「バックでチャンスをつくった後のフォアハンドでの攻め」をさらに磨き、それに加えて、サービスのスピード、回転、意外性を思わせる工夫をしていきたいと思っています。
そして今年一年、心も去年より前進するように、高校生活最後の一年に、自分の力が存分に発揮できるよう、一日一日がんばっていこうと思います。
さとうりか
白鵬女子高2年
'88年全日本単優勝
(1989年3月号掲載)
私がラケットを握ったのは小学5年生の頃です。
そのきっかけとなったのは父でした。
父が卓球が好きで家に卓球台を1台買い、そして私は父の練習台にされてしまったのです。
その頃、私はスポーツ少年団でやっていたミニバスケットに夢中でした。そちらに熱中していたので卓球は父に無理やり...という感じで、週二日ぐらいでした。
しかし、中学にバスケット部がないことを知り、6年生の半ば頃に「中学では卓球部に入る」ことを決め、その頃から卓球に興味を持ち始めました。
中学に入ってからの練習は毎日2時間ぐらいで、週に1日は打たない日がありました。ひどい時は3日も打たない日もあって、練習量はけっして多くありませんでした。でも練習中は、集中して、納得するまでやらないと気がすまないほうでした。中学時代の練習は、ほとんどが試合で基本が全然できていなかったので、高校に入ってから、"基本""基本"とやっています。
~合宿で全敗した中1時代~
自分がここまでこられた大きなキッカケとして、中学1年の時の、思ってもいなかった東北大会優勝があります。東北大会は当時一番大きな大会で「お姉さん達とやれるんだから、思いきっていけばいい」と無我夢中でボールを追いかけ、気がついたら優勝していました。
この優勝が原因で、全国からカデット12名を選抜して大阪で行われた全日本の合宿に選ばれました。
選抜されたのは東京近辺の人ばかりで、第一に感じたのは「皆、ピッチが自分よりかなり速い」ことでした。
当時の私の卓球は、背が低いくせにフォアで回り込み後ろに下がってドライブ、ドライブと言う、今とは信じられないぐらい違う卓球をしていました。
その合宿で12名総当たりのリーグ戦を行いました。ほとんどゲームオールでしたが1勝もできず「背が低いのにそんなに下がってドライブばかりしてちゃ、ヨーロッパにはパワーでふっとばされるし、中国には振り回されて終わりだ」と、厳しい言葉を言われました。
確かにその通りだと感じ、家へ帰ってからの練習は多球練習でピッチを速くすることだけ考えてやりました。毎日やっていくうちにだんだん良くなり、宮城県では一般の部でも決勝にいくぐらいになりました。
中学2年の終わりにアジアジュニアのカデットの部の日本代表に選ばれました。大会では、ジュニアの部でプレーする韓国の玄静和、洪次玉といった現在世界で活躍中の選手を間近でみて、自分との差をすごく感じました。そして大会後、何回も何回もアジアジュニアのビデオを見て、一般の部も意識するようになりました。
~寮生活にひかれ白鵬に~
全日本をとれたのは、みんなこの学校(白鵬女子高校。入学当時、京浜女子商業)に入学したおかげです。
中学の時は、学業の方を考えていましたので、いろいろな学校からお誘いがかかりましたが、考えたあげく、「宮城県に残ろう」と決めていました。その後にお誘いがあったのが白鵬女子高校でした。なぜいったん決めた気持ちを変えたかといいますと、白鵬女子高校の寮生活の話にひかれたからです。
炊事、洗濯、掃除...。自分のことを全部自分でやらなくてはならない。いままではほとんどお母さんにやってもらっていたのに...。大変だろうなあ、とは思いましたが、そんな中でやっていけば精神面が鍛えられるだろうし、卓球でも必ず生きる。そこにひかれたのです。
入学後は確かに自分が思っていたように、いやそれ以上につらいものがあり、厳しい生活でした。
練習内容も基本練習が多くなり、中学時代の倍以上の時間をこなさなければならないので大変でした。熱が出てきたり、体力がないので、練習の最後の1時間ぐらいになると集中力がなくなる、といった日が続きました。
高1のインターハイの1ヵ月ぐらい前から、だいぶ体力がついてきました。が、今度は私にとって夏の暑さが「最大の敵」になりました。
私の出身の宮城県は、昼間は暑いのですがカラッとしていて、朝晩は涼しいのです。そのため夜眠れないということはなかったのに、白鵬の練習場はサウナに入って練習しているみたいで、夜は暑くて眠れない。そのためインターハイの直前に、何度か倒れてしまいました。
インターハイ後、1年の冬のジュニアで優勝してから、私の卓球、というか、気持ちが変わってきました。
それまでは「優勝なんてまだまだだ」と思っていたのに、まぐれでも優勝してしまうと「簡単には負けられない」「恥ずかしい試合はできない」と思うようになり、練習も自分でも感じるぐらい変わりました。
その時から「自分は背が低いので、相手とちょっと違うことをやらないと勝てない」と痛感し、近藤先生から「バックドライブを忘れるな」と言われたこともあり、"ここ一本"で使う技として、バックドライブを常に頭に入れて練習するようになりました。
~睡眠不足で全日本優勝~
昨年の全日本の前に力を入れた練習は、バックドライブと、その次のフォアハンドの攻めでした。
やはり一発で抜く技術がないと上へいってつらいので「一発で抜くフォアハンド」とバックハンドでもドライブだけでなく「ミートの強い角度打ち(強打)」の練習を主体に、サービスの強化(回転、スピード、コースの調整)、フォアハンドだけの強化...などに取り組みました。
全日本の前にアジアカップがあり、その大会で少々自信がついて、全日本へのやる気が一段と起きました。
とういのは、アジアカップの予選リーグで香港のチャイポーワ選手と対戦。対戦前に「イボ高を使ってチャンスをつくり、反転して裏ソフトのドライブやスマッシュで攻める。器用で、日本選手が総ナメになった」と聞いていたので恐れていたのですが、やってみると特別やりにくくなかったのです。勝ちそうだっただけに「この程度の選手ならなんとか工夫すれば大丈夫だな」と感じました。また中国の鄧亜萍選手が、私よりも背が低いのに、低いなりに工夫して逆モーションで攻めたり、なるほどなあと思わせる技術で優勝するのを見て、「私もやれる」と自信がつきました。
全日本の前には「少し卓球を変えよう」として壁にあたったりもしました。また直前に試験があり、1週間ぐらい、睡眠が2時間ぐらいしかとれず、疲れのとれないまま全日本に臨みました。
体重が減り、目をへっこませながら大会に出たので、2日目、3日目ぐらいまでは十分な力を発揮できなかったのですが、睡眠をとるよう努力し、学校の先生にマッサージをしていただいたり、チームメイトにいつも気を遣っていただいたりで、周りの人たちには本当に恵まれていました。チームの応援なしでは、絶対に全日本優勝はなかったと思います。それだけに優勝に価値があり、日がたつにつれて、うれしさを感じています。
しかし、うれしさにおわれて、ここで終わるわけにはいきません。3月には世界選手権という大きな大会に、初めて出場させていただけるわけですから、自分のどの技が通用するか、しないか、を調べてくると同時に、当たって、当たって、「若さある」といわれるような思いきった試合をしてきたいと思っています。
そのための課題として、「バック系技術」「バックでチャンスをつくった後のフォアハンドでの攻め」をさらに磨き、それに加えて、サービスのスピード、回転、意外性を思わせる工夫をしていきたいと思っています。
そして今年一年、心も去年より前進するように、高校生活最後の一年に、自分の力が存分に発揮できるよう、一日一日がんばっていこうと思います。
さとうりか
白鵬女子高2年
'88年全日本単優勝
(1989年3月号掲載)