再び世界の頂点へ
大学卒業2年後に再び世界の頂点に立つ松崎だが、決してすんなり、順調に成し得たわけではなかった。強くなれるかどうかわからない下積み時代の苦労とはまた違った挫折があり、辛酸をなめた。
環境激変、卓球がやせていく...
専修大学を卒業した松崎は、東京の日興證券株式会社に就職した。朝7時50分に下宿を出て満員電車に乗り、夕方5時まで勤務するという、社会人の生活が始まったのである。
あれほど猛練習に耐えてきた松崎でさえ仕事が終わるとぐったり疲労してしまう。新しい意欲がわいてこないのであった。
大学4年間、思う存分やったではないか。全日本も2度取れたし、世界のタイトルもつかむことができた。もういいのではないか...。しかし、その一方で中国・北京の世界選手権大会で自己管理の失敗のためにシングルスの連覇を逃したという不完全燃焼の気持ちがあったのも事実である。そんなもやもやしていたときに、東京の国体予選の初戦で敗れてしまった。いつも応援に駆けつけてくれる塚本卓球部長の残念そうな、そして会社の練習環境が整っていないために敗れたのだと松崎にわびる姿に、松崎の方が驚き恐縮した。
「このときを境に、応援してくれる人たちのためにも、自分のためにももう一度全日本のタイトルを、そして世界のタイトルを狙おうと決意したのです」と、松崎は振り返る。さらに、「とはいっても、ウイークデーは会社の分室にあるレクリエーション用の狭い部屋(卓球台が1台)が練習場で、台についている時間は1時間半くらい。これでは不十分なので、土曜日は午後から中央大学の練習場や、明治大学、法政大学が練習する平沼園などへ出向きました。男子のトップ選手が積極的に相手をしてくれるのでありがたかったですね。
あまりにも練習不足がたまると、土曜日から泊りがけで母校の専修大学の練習場に行きました。しかし練習してもしても、『松崎さんのボールは打ちやすい』と言われていました。また、試合をした相手選手からも同様のことを言われて、内心穏やかではありませんでした。ボールが軽いのだ。威力がないのだ。私の卓球がやせていっているのだ―と寂しい気持ちになりました」
「私はもう過去の選手?」
12月の全日本選手権大会が近くなるにしたがい、「このままでは悔いが残る」と松崎は思い切って塚本部長に、大会期間中とその前1週間の休暇を申し出た。1週間では果たしてどこまで調子が上がるか疑問だが、専修大学で合宿して練習をやり込んでから大会に臨もうと松崎は考えていたのだった。
最初の3日間は1日7時間(3回に分けて)を自分に課した。そこでは試合に使う基本技術の練習と試合を交互に行った。4、5日目は5時間くらい、試合が中心だった。「練習はたくさんやりたいが、大会直前とあって疲れすぎてもいけない」という考えであった。一つひとつの技術を注意しながら確かめていった。
昼間も夜も卓球に浸った1週間はあっという間に終わり、松崎は合宿所を後にし、駅の売店で新聞を買った。明日から全日本選手権大会が開かれるというときには、新聞に予想が載るからであった。そこで見た新聞には、松崎は優勝候補の上位にすら上がっていなかったのである。
「とらえ方によっては、もう過去の選手となっていました。私は物事にあまり動じない方ですが、ささやかなプライドを逆なでされた屈辱感を感じました。『ヨーシ、予想を外してあげようじゃないの!』と、私の負けじ魂がむくむくとわいてきました」
いよいよ全日本選手権大会が開幕した。松崎は苦戦しながらも決勝まで進み、速攻型の関(中央大学)に2-3で敗れた。大学生になってからの関には負けていなかったのだが、「レシーブがまずかった」と松崎は敗因を語った。
「しかし、最悪のケースは免れて、なんとか下手になっていく自分の卓球に歯止めをかけることができたと、ホッとしました」
試合と練習の繰り返しで復調の兆し
2年目に入り、松崎にとって幸いなことに、国際大会が次々と待っていた。7月に再び中国遠征して各地で親善試合を行った。そして8月にはアジアオリンピック大会がインドネシア・ジャカルタで開かれ、さらには10月に中国選手団が来日した。こうした試合が松崎にとって最上の練習となった。練習と試合の一致は、心技体をより高めてくれる。去年はボールに対してただ入れるだけになっていた松崎のスイングが、だんだん鋭く振り切れるようになり、それと同時にほとんど負けることがなくなった。来日した中国選手団の傅其芳監督が報道陣のインタビューに対し「女子では日本の松崎さんが図抜けている。いつでもどこからでも攻撃できるので、付け入るスキがない。彼女を除けば中国と日本は五分五分だ」と言われるまでになった。
この勢いをその年の全日本選手権大会まで持続させることができ、伊藤や関らを接戦の末破り、3度目の優勝を成し遂げた。社会人となって、どん底まで落ちた時期を乗り越えただけに松崎にとって本当にうれしい勝利であった。松崎自身も「世界に向けていい感じになっている」と気をよくしていた。
年が明けて1963年2月のアジア選手権大会(フィリピン・マニラ)でも、松崎は負けなかった。
忍び寄る健康の不安
「破竹の勢い―のようですが、実は大学を卒業した頃から時々突然の高熱に襲われていました。下宿の近くの内科医院に行っても原因がわからず、解熱剤を処方してくれるだけでした。アジア選手権大会のシングルスの決勝戦のときがまさにそうでした。ホテルにいるときに猛烈な寒気がして体を海老のように丸めてベッドの中で震えていたにもかかわらず、体育館へ出発しなければならない耐えがたい不快感、そして熱が38.7度の時に試合を始めなければならない苦しみに遭いました」と、松崎(後になって、腎盂炎(じんうえん)であることが判明した)。
「もうひとつ、いつも親指の生爪が割れてラケットを握るのに支障が起こっていました」
こうした健康面の不安や、練習の苦しさを感じるたびに松崎は、「世界選手権大会が終わるまで我慢するんだ」ということを心のよりどころにしていたという。
肩の故障
アジア選手権大会から帰国して間もなく、「これから世界選手権に向けてみっちり練習だ!」と松崎が張り切っていた、2月末の第一次合宿の初日のことであった。
「カットを打ってわずか2本目で、『痛い!』と思った瞬間、右腕の付け根がグジッと音がして腕が上がらなくなってしまったのです。そうっと上に上げようとしても、肩の高さまでくると痛みがピリッと走ったのです。目の前が真っ暗になりました。悪い方にばかり考えがいってしまいました」
2、3日治療しても治る気配がない状態で松崎が下した決断とは、ギリギリまでボールを打たない、肩を休め治療に専念するということだった。選手にとって何より辛い残酷な選択ではあったが、焦って無理をしたらもっと悪くなる。トレーニングだけは十分にしておこうというものであった。
第二次、第三次合宿を終えて、最後の第四次合宿は日本を離れてスウェーデンで行い、その足で第27回世界選手権大会の開催地プラハへ入るという予定だった。松崎はスウェーデンに着くまでついに1球も台に向けて打つことはなかった。不安と焦燥が頭の中を駆け巡るので、気を紛らわすために飛行機の中では推理小説を読みふけったという。
日本選手団がスウェーデン・ファルケンベルグに着いたのは、3月22日。25日から合宿に入った。「ちょうど1カ月ぶりに祈るような気持ちで軽く打ってみました。ところが、肩は痛くないのです。連続して振ってみても大丈夫でした。ラケットの感覚は変でしたが、スムーズに打てるので、とてもうれしかったのを覚えています。でも、それからが大変でした。決して無理はできませんが、切羽詰まっていたのも事実です。時間がこれほど貴重に感じられたことはありませんでしたし、1本1本の打球をこれほど大事に扱ったこともありませんでした。どうしてもミスをしてはいけない状況に、いつも追い込んでいたものです。ミスをしたらその原因を口の中でブツブツとつぶやきました。1日に何千本と打つわけですが、ただの1本もおろそかにせず、全神経を集中していました。ほかの人たちは、みんな調子を上げて調整の段階に入っている中で、自分だけ最初から積み上げて、そして仕上げなければならないのです。本当に必死で卓球に没入していました」
大接戦を制した団体戦
世界選手権大会は長丁場である。松崎は徐々に調子を取り戻し、松崎と関がエース格で団体戦準決勝で強敵ハンガリーを3対0で下し、続く決勝は中国を破って上がってきたルーマニアと対戦したが、それも3対0で下し、見事優勝した。
「結果は完勝のように見えますが、一歩間違えればどうなっていたかというような試合で、優勝が決まった瞬間は責任が果たせたと心底うれしかったですね。
個人戦は、私も大変危なかったのです。初回に中国選手と当たりましたが、組み合わせではFu Kumiugとあったので、どの選手のことかわからなかったのです。北京に続くプラハ大会にも中国は大勢の選手が出場していました(男子17名、女子12名)。『あの人でもない、この人でもない』と絞っていくと、彼女が胡克明であることが判明しましたが、それはすでに試合の直前でした。
胡がFuだとむすびつかなかったのですが、彼女は北京大会のときに団体戦のメンバーであったし、中国遠征の親善試合でももっとも活躍した速攻選手だったのです。『いきなりこんな強い選手と当たるのか...、と驚き、内心ビビッていました。彼女の爆竹が勢いよくはじけるような速攻に対応するのは容易なことではないからです。彼女はプラハに入ったときから私と対戦するための心の準備ができていたのは明らかで、それに対し私は大事につなごうという意識が働いて、無理をせずつなぐ組み立てになってしまいました。そのため胡さんに威勢よく打たれて振り回されていました。ようやく2対2のゲームオールにこぎつけましたが、7-13、9-16と引き離され、『これまでか...』と覚悟をし始めました。そこへ試合を終えた荻村さんがコートの脇を通りかかりました。そして私の試合ぶりを見て、『受けてたっていちゃ勝てないよ。自分から向かって攻めていかなきゃ』と言われました。
『そうだ、攻めなきゃいけないのだ。このままでは悔いの残る試合をしている、何をそんなに怖がっているんだ、ここまで追い込まれたら負けてもともとだ、思い切って攻めていこう』と吹っ切れました。すると、それまではどうしても先に攻めていくんだという勇気がわかなかったのですが、少し無理なボールやそれまではつないでいたボールを迷わずスマッシュしていけるようになったのです。また、そのスマッシュがよく決まってくれました。そして17-18まで盛り返し、サービスを持った私が21-19とぎりぎりのところで勝ったのです。
剣豪が勝負の極意を詠んだうたに、『振りかざす太刀の下こそ地獄なれひと足すすめ先は極楽』というのがありますが、これと同じなんですね」
最終日、もう失敗は繰り返さない
松崎は勝ち進み、10日目の最終日を迎えた。朝8時30分からシングルスの準決勝、10時30分からダブルスの準決勝が組まれていた。
「パートナで同室の関さんには、ダブルスに備えて『もう少し寝てていいから』と言い、一人6時過ぎに起きて朝食をとりました。ホテルと体育館を結ぶバスに私はひとり乗り込むと、運転手はスタートしてくれました。7時過ぎには体育館に着き、ドアは開いていましたが、まだ人影はありませんでした。体操や柔軟体操をしても体がだるく、頭がボーッとしているので、30~40mのダッシュを何度も繰り返しました。それでもまだ体が重いので、自分で頬に思い切り平手打ちをしたり。とにかく前回の北京大会の失敗が頭から離れなかったので...。私の次に体育館に現われたのは、敗者復活戦に出場するユーゴスラビアの選手で、彼女と30分くらい練習できました」
このように疲労のたまった体だがひと汗かいてツェラー(ルーマニア)との準決勝戦に臨んだ。あのロゼアーヌのパートナーとして世界を征していたツェラーの粘り強いカットを3対1で下し、とうとう決勝へ進出した。松崎・関組のダブルスも苦戦を強いられたが、中国の邱鐘恵・王健組を3対2で倒し、決勝へ進んだ。
楽勝のケースから泥沼へ
午後3時から個人戦5種目の決勝戦であった。
「最初が女子シングルスでした。ルーマニアのアレキサンドル(カット主戦型)に対して2ゲームを先取し、楽勝のケースでした。10-4でリードしていたときに、アレキサンドルの超ファインプレーがあり、私は焦りからリズムが狂い始め、ズルズルとゲームオールに持ち込まれてしまいました。しつこいカットと、鋭いバックハンドの反撃に、まるで底なし沼にはまり込んで抜け出せなくなっているような苦しい試合になってしまいました。それでも20-17でマッチポイントを握ったとき、私は思わず『神様、私を助けてください!』と心の中で叫んでいました」
それほど、最後の1本を取るというのは難しいのである。接戦の末、松崎は2度目の世界チャンピオンに輝いた。
そのあとに行われた女子ダブルスも、苦しみから解放された松崎と関のコンビがぴったり合い、決勝でイングランドのロウ・シャノン組を打ち砕いた。
こうして、松崎は3冠を達成したのである。
日本は、混合ダブルスで木村・伊藤組が勝利して、トータルで4種目に優勝した。ちなみに中国は3種目であった。
帰国した松崎は、選手生活から引退した。気力、集中力の糸がぷつんと切れてしまったのである。学生から社会人への、環境が激変した中で再度世界に挑戦し、見事目標を達成した。
左右の攻撃で、前、中、後陣のどこからでも戦えるスケールの大きな卓球をする松崎こそ、世界最強の攻撃選手であると我々は確信するのである。
松崎はサインとを頼まれると、「この一球」と書く。この言葉は、練習であれ、試合であれ、『どの一球も逃がさないぞ!』というところに到達した自身の卓球哲学である。松崎は自叙伝の末尾を次のように結んでいる。
―努力し、頑張り続ける過程で得たものこそ大きいのである。栄光というのは、私にとってみれば青春の碑(いしぶみ)のようなもので、自分の中でだけ立っていればよいのである。
(2000年11月号掲載)