世界チャンピオン・河野満。長い間「優勝候補」とささやかれながらも、世界はおろか、全日本でも優勝を逃し続けてきた河野。そんな苦難の時代を乗り越え、30歳にしてついに世界の頂点に立った。ただ黙々と努力を重ね、己の限界に挑戦し続けた、世界チャンピオン・河野満の足跡を追う。
河野満の誕生
昭和21年9月13日、一人の男の子が誕生した。のちの卓球の世界チャンピオンとなる、河野満である。
河野が育ったのは、青森県の十和田。両親と二つ違いの兄との4人家族だった。河野の父は、スポーツ店を営む傍ら、高校の卓球部のコーチもしていたという卓球好き。そんな父の影響で、初めてラケットを握ったのは小学校1年生のときだった。
とは言っても、本格的なものではない。古いテーブルを卓球台代わりに遊んだり、小学校の廊下にチョークで線を引いてコートに見立てて遊んだり。幼い河野にとって、卓球は日常的な遊びの一つだった。
エースで4番。野球が大好きだった少年時代
長嶋茂雄の巨人軍が大活躍していた当時は、子どもたちの憧れはなんといっても野球。幼い河野はもちろん野球が大好きだった。兄や近所の子どもたちといっしょになって、毎日のように野球に興じた。
「小学生のころは、卓球をやったり野球をやったり、といった感じでした。どちらかと言うと、野球の方が好きだったんですけどね」と、河野は当時を回想する。
運動能力に恵まれていた河野は、野球にも非凡な才能を示した。地域の小学校対抗の大会に出場し、優勝トロフィーをもらったこともあるほど。そのとき、河野のポジションはピッチャーで、打順は4番。チームの主力として活躍した。そんな河野には兄の勝さんも舌を巻いていたようだ。
「彼は本当に運動神経がよかったです。天性的なものを持っていました。野球では学校を代表して、エースで4番だったからねえ。すばらしい反射神経で、考える前に体が動いていたんじゃないかな」
野球は大得意、卓球も上手、おまけに相撲も強かったりと、幼い河野はスポーツ万能少年だった。
父の怒り
一方、卓球好きの河野の父は、河野には野球よりも卓球をさせたかったのだろう。「卓球の練習をしなさい」と、口を酸っぱくして息子に説いた。しかし、当の河野は、野球選手になることが夢。それでも卓球好きの父に逆らうのは恐ろしく、家に帰るときは、グローブはかばんの中に隠し、ラケットを手に持って歩くようにしていた。
ところが、ある日うっかりラケットをかばんに入れ、グローブを手にはめたままで帰宅してしまったことがあった。河野のその姿を見て、父は激怒した。
「お前、なんだそのグローブは!野球をやっていたとは何事だ!」
しかし、そんなことで野球をやめるような河野ではなかった。卓球は好きだけれど、野球の方がもっともっと好きだった。どんなに怒られたって、やめられるはずがない。
そんな野球少年の河野に「本気で卓球をやろう」と決心させる出来事が起こったのは、河野が小学校4年生のときだった。
「こういうふうにやってみたい!」チャンピオンへの憧れ
「青森に世界チャンピオンが来るぞ!」
父の言葉に、河野はびっくりした。卓球の世界チャンピオン、荻村伊智朗が青森にやって来るというのだ。まだあまり交通の発達していなかった時代である。本州の果て、青森で世界チャンピオンを見られるというのは、ほとんど夢のような話だった。
「見に行く!行きたい!」
河野は父と二人で、青森市まで試合観戦に行くことになった。
同じ青森県内とはいえ、十和田から青森市までというのは、ちょっとした距離がある。ましてや急行電車など走っていなかった当時、鈍行列車を乗り継いでの旅だった。当然、朝も早くからの出発となる。
まだ日も昇らない早朝5時に起こされ、急いで支度を済ませると、父と二人で駅へと向かった。これから約2時間かけて青森市へ行くのである。河野親子は列車に乗り込んだ。
窓の外を流れる景色は単調である。田んぼ、畑、山や森。しかし、河野に退屈している暇などなかった。胸がどきどきする。
「世界チャンピオンってどんな人だろう。どんなにすごいんだろう。早く見たい!早く!」
運のいいことに、河野たちは体育館の1番前の席に陣取ることができた。これから行われる試合は、世界チャンピオンの荻村伊智朗対全日本チャンピオンの渋谷五郎。当時の日本のトッププレーヤーたちである。
試合が始まった。
荻村のロングからのスマッシュが火花を散らす中、渋谷は流れるようなカットで応戦する。スマッシュ、カット、スマッシュ、カット、息をつくこともできない。二人のプレーのあまりの迫力に、河野は圧倒されっぱなしだった。
試合が終わっても、河野はコートを見つめ続けた。感動で体が動かない。「すごいな」「すばらしいな」「こういうふうにやってみたいな」「卓球やりたいな」「世界選手権に行きたいな」、頭の中ではしびれたように、同じ思いがぐるぐる回り続けた。
体育館を後にしながら、
「卓球がやりたい。これからは卓球やるから!」とまくしたてる河野に、父は一言、
「うん、わかった」
とうなずいた。そして、河野に1冊の本を買い与えた。
うさぎ跳びを死ぬほどやった
父から与えられたのは、「どうすれば卓球が強くなるのか」について書かれた本だった。そこには、「毎日うさぎ跳びをすれば強くなる」という教えがあった。河野はそれを忠実に実行した。
体育館の周りをうさぎ跳びでぴょんぴょんと跳びまくる。1周、2周、3周。息がゼーゼー言う。足がガクガクする。それでも決して、途中で投げ出しはしなかった。500~600メートルもの距離を毎日跳んだ。うさぎ跳びをすることは、河野にとって重大な意味を持っていたのだった。
誰もがうらやむスポーツ万能の河野だが、彼には大きな弱点があった。体力がなかったのだ。みんなで走っても、一人だけ貧血で倒れてしまう。風邪も引きやすい方だった。卓球が強くなるためには、そんな弱点を克服しなければいけない。体力をつけなくてはいけない。そのことは自分自身で痛いほど感じていた。
「うさぎ跳びが効くのだったら、とことんやってやろう!」
こうして河野は、本当にとことんうさぎ跳びをやりまくった。小学校4年生で始めたこの習慣は、中学生になっても続くのだった。
卓球台が使えない!
河野が卓球の練習をしたのは主に小学校の体育館だった。ただ、卓球台の数は限られており、卓球をしたいという子どもは大勢いた。
当時は、遊びといってもテレビゲームはもちろん、サッカーなどもまだ一般的ではなかった。そんな中、ラケットとボールさえあれば誰でも楽しめる卓球は、子どもたちのメジャーな遊びの一つだった。放課後になると、たくさんの子どもが卓球台に集まってくる。体育館の中は、順番を待つ子どもたちでいっぱいだ。卓球台を使うことのできる時間はほんのわずか。そんな状況の中で満足に練習をするには、人とは違う工夫が必要だった。
どうしたら思いっ切り練習できるだろう、河野と兄は考えた。そして、どちらからともなくこう言い出した。
「放課後がだめなら、朝やろう」
こうして兄弟の早朝練習は始まった。毎朝毎朝早起きし、「よし、やろうか」と一目散に学校へ向かう。兄弟にとっては、誰にも邪魔されずに練習できる貴重な時間だ。授業が始まるまでの1時間ほどを卓球をして過すのが、二人の日課だった。
「負けたら卓球をやめろ」―運命を分けた対決
そんなある日のこと、父が突然二人に向かってこう言った。
「お前たち、今から試合して負けた方は、今日限り卓球をやめろ」
河野も兄も仰天した。父に理由を問うと、
「うちはお金がないから、卓球できるのは一人だけだ」
しかし、本当の理由はそうではなかった。高校の卓球部のコーチを務める父は、こう考えるようになっていたのだ。
「息子たちを一流の選手にしたい。そのためには、中途半端な指導はしたくない。とことんまで面倒を見ようと思ったら、一人が限界だ」
それまでの河野と兄との対戦成績は、圧倒的に兄が勝っていた。10回試合をしても、河野が勝てるのはせいぜい3回。この勝負に河野が勝てる見込みは低い。けれど、ここで負ければ卓球をやめねばならなくなる。絶対に負けたくない!崖っぷちに立たされたような状況だった。こうなったら、もう腹を据えるしかなかった。やるしかない。
―結果は、河野の勝ちだった。
その日以降、河野は父から熱心な指導を受けるようになる。放課後はいつも近所の中学校に連れていかれ、中学生に交じって練習した。こうして河野はめきめきと力をつけていった。青森県南部の小学校大会では、まだ4年生ながら優勝。その後、なんと5年生、6年生と3年連続で優勝に輝いたのである。
一方、河野に敗れた兄は柔道へと転向した。
初めてのコーチ、相川先生との出会い
中学に入った河野には、ある人物との出会いが待っていた。父親を除いては河野にとって初めてのコーチ、相川光司先生である。
卓球好きで教育熱心な父のおかげで、河野の家にはこれまでも多くの卓球関係者が訪れていた。日本で最初の世界チャンピオンの佐藤博治が訪れたことさえもある。しかし、相川先生の訪問は特別だった。東京に住んでいる相川先生は、河野のコーチを引き受けてくれたのだ。
およそ1カ月に2回ほど、土日を利用して、相川先生が東京から青森までやって来る。昼間は卓球を見てくれ、夜は河野の家に泊まっていろいろな話をしてくれる。河野にとって、何にも代え難い大切な時間だった。父親以外では初めてのコーチの言うことに、河野は忠実に従った。厳しい練習も進んでこなし、小学校時代から続けているうさぎ跳びなどのトレーニングも怠らなかった。
後に世界を取ることになる河野のペンホルダー表ソフト速攻型のスタイルは、この時期に下地がつくられていく。
当時はループドライブが大流行、新兵器といった感じでもてはやされた。ほとんどの中学生たちがループドライブを練習し、裏ソフトラバーを使用した。
そんな時代の例に漏れず、河野も中学校時代は裏ソフトラバーを使用していた。しかし、河野の卓球スタイルは、周りとは少々違っていた。他の選手の中後陣からのドライブ攻撃に対して、河野のスタイルは前陣で戦う速攻型。そして、その攻撃力は群を抜いていた。
天性の卓球センスに加え、相川先生の指導を受けた河野は、ますます力を伸ばしていく。中学校2年生のとき、3年生のときと、2年連続で青森県中学校体育大会で優勝した。
高校進学
やがて河野にも、高校進学を考える時期が訪れた。そんなある日、うれしいニュースが飛び込んだ。相川先生が、青森商業高校の先生になるという。この知らせを聞いた瞬間、河野の心は決まっていた。自分も青森商高に行こう!
青森商高といえば、全国優勝を何度も経験している伝統校。「ここで1番になれれば、日本でも1番になれるだろう」と河野は考えた。おまけに相川先生が来るのだったら、卓球をするのにこれ以上の環境はない。絶対に青森商高に入ってやる!
こうして河野は青森商高に入学した。しかし、卓球部に入った河野には、これまで経験したことのない厳しい環境が待ち受けていた。
(2001年1月号掲載)