宣言
「河野、世界選手権に出ないか」
突然の野平さんの言葉に、河野は仰天した。自分が世界選手権に。河野の驚きをよそに、野平さんは話し続ける。
「次の世界選手権は再来年の4月だ。出場するには、来年の全日本で3位になれば大丈夫だろう。なあ河野、一緒にがんばろう」
野平さんの自信満々の声を聞きながら、河野は自分の中にむくむくと闘志がわき上がるのを感じていた。よし、やってやろう。全日本で3位になって、世界選手権に行くんだ!
「野平さん、がんばります。絶対に世界選手権に行きます!」
河野ははっきりと宣言した。
世界を目指して
再来年の世界選手権に出るためには、来年冬の全日本で結果を残さなければいけない。猶予は2年。これから2年間をどう過すかで運命が決まる。練習計画が重要だ。
河野と野平さんは、これからの練習計画について話し合った。
最初の1年はフォアハンドの攻撃力とフットワークの強化。そして、あとの1年で河野の持ち味であるバックハンド技術を完成させる―これが、二人の決めた作戦だった。
計画に従って、猛練習が始まった。最初の1年はフォアハンドとフットワーク。足を使ってオールフォアで攻めまくり、何本も連続してスマッシュを放つ。それは非常にハードな練習だった。しかも、1年生の河野は、練習場の掃除はもちろん、先輩の着替えや道具を用意したりせねばならない。練習と上下関係でへとへとになりながらも、毎日のランニングも欠かさなかった。こうして河野は、ひたすら目標を追うのだった。
批判
こうして迎えた大学1年生の全日本選手権大会。オールフォアで戦った河野は、5回戦で姿を消した。
「高校時代はバックハンドを振っていたのに、今回の戦い方はどういうことだ?」「河野の卓球はダメになった」
さまざまな批判を浴びながらも、河野はぐっとこらえた。今はいい。これでいい。俺が見据えているのは来年の全日本、そして世界なのだから。
周囲の声を振り払うように、河野はますます練習に打ち込んだ。今度はいよいよバックハンドをものにするのだ。この1年間でみっちり鍛えたフットワークを利用して、威力のあるバックハンド攻撃をしかける。フォアハンドの連続スマッシュだって、もっと威力を増してやろう。自分のスタイルの完成を目指し、河野はがむしゃらに練習した。
本当にバックハンドをものにできるのか、時間が足りないのではないか。不安はあった。しかし、迷っているひまはなかった。自分を信じ、一緒に計画を立てた野平さんを信じて、河野はバックハンド修得に取り組んだ。
こうして1年が過ぎ、いよいよ勝負の日がやって来た。
3位になれば・・・
「ここで3位になれば、世界選手権に行ける」
そう思うと、緊張感で気持ちが引き締まる。全日本選手権大会を迎えた河野は、闘志を燃やしながらコートに立った。
初戦の相手はカットマン。河野が最も苦手とするタイプだった。
「嫌だな。ツイてない」
頭に浮かんだ思いを、河野は急いで振り払った。やれるだけのことはやってきた。余計なことは考えずに、全力を尽くそう。
河野は、確実に実力を培っていた。苦手のカットマンを相手にしても、その攻撃力が鈍ることはなかった。
続く2戦目、3戦目もカットマンに当たるという不運にもかかわらず、河野は次々と勝ち上がっていった。そして、目標の3位に見事入賞したのである。
負ければ日本に帰れない
「おい、河野」
全日本選手権で3位になった直後、河野を呼びつける人物がいた。日本のナショナルチームの監督、荻村伊智朗である。荻村は厳しい調子で河野に尋ねた。
「河野、世界選手権に行く気はあるか」
「はい、あります」
河野はもちろん即答した。しかし、続く荻村の言葉に河野は耳を疑った。
「もしも優勝できなければ、もう日本には帰って来ないぞ。それでも行きたいか」
「...すぐには返事できません」
「今すぐに返事してくれ。返事がなければ、今回の選手団には選ばない」
当時の日本は強かった。前々回63年の世界選手権は4種目に優勝、前回65年の世界選手権は2種目に優勝。しかし、男子団体という花形タイトルは8年前に取ったきりである。日本としては、なんとしても団体優勝がほしかった。そういう事情で、荻村は選手の発奮を図ったのだった。
しかし、河野にしてみれば「負ければ帰れない」というのでは、あまりにもリスクが高過ぎる。河野は迷った。しかし、せっかくのチャンスをあきらめることはできなかった。
「わかりました。負けたら帰って来ないつもりでがんばります。よろしくお願いします」
あまりにも重い決断に青ざめながらも、河野は荻村の目を見据えて返事をした。
合宿
世界選手権選手団に選ばれた河野には、強化合宿がまっていた。そこで初めに行われたのは、意外にも「勉強会」だった。
大会が行われるスウェーデンのストックホルムの気候や風土、生活や食べ物、そして言葉。一見、卓球には直接関係がないように思われるこれらのことが、指導陣によって選手に教え込まれた。慣れない海外で、コンディションを崩さないためである。
もちろん卓球の練習も行われた。一流の指導陣に教わるシステム練習の方法など、河野にとっては新鮮な発見がいくつもあった。
数度の合宿を重ね、選手団はストックホルムへと出発した。
ストックホルム
スウェーデンの首都、ストックホルムは美しい街だった。2度の大戦を経験しなかったストックホルムには、古風でのどかな街並みが続いている。春浅い広場には、花や果物の市が立っている。
そんなうららかな街の様子に反し、選手たちは燃えていた。文化大革命のために宿敵の中国が出場しない中、日本は順調に勝ち進み、準決勝を迎えていた。対戦相手はソ連。相性の悪い相手だった。大会前に2度の練習試合をしたが、0-5、1-5で2度とも敗北。観客も報道陣も、ソ連の勝利を予想していた。
そして今大会の準決勝、日本は1-4まで追いつめられていた。あと一つ取られれば負けである。もうダメかもしれないという思いが、選手たちの頭をかすめた。
このとき、チームのリーダー的存在だった木村興治が全員を呼んで言った。
「このまま負けたら日本に帰れないぞ。こんな状況でもがんばるのが、日本の強さなんだ」
木村の言葉に、選手たちは少しでも弱気になったことを恥じ、奮い立った。劣勢を跳ね返して5-4と逆転し、決勝へと駒を進めた。
調子は「◎」
決勝戦の朝、河野はノートに「◎」をつけた。ノートというのは、監督に見せるコンディションノートである。調子が良ければ「○」、普通ならば「△」、悪ければ「×」と書いて監督に提出するのだ。このノートを参考にオーダーが決定される。どうしても決勝で起用されたかった河野は、掟(おきて)破りの「◎」をつけたのだった。
決勝の相手は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。「◎」の気持ちが通じたのか、河野はメンバーとして起用された。日本は5-3で北朝鮮を破り、河野は団体優勝に大きく貢献したのである。日本選手団は喜びに包まれた。
男子シングルスでも日本は大活躍、決勝は河野対長谷川信彦の日本選手対決となった。2-1とリードした河野は4ゲーム目も順調に運び、17-13と長谷川を引き離していた。
「ああ、長谷川に勝って日本一になれる。いや、世界一になれるんだ」
そんな考えが頭に浮かんだ。
しかし、そう考えたとたんに体が硬くなった。ミスが怖くなって、思い切って攻撃できない。その結果、河野は第4ゲームを落としてしまった。
まだ大丈夫、5ゲーム目がある。そう思って臨んだ最終ゲーム、試合は河野リードで進んだ。このとき、河野の頭にまた同じ考えが浮かんだ。
「いい調子だぞ。優勝したらどうしよう」
勝ちを意識した瞬間、河野の勝機は失せた。優勝したのは長谷川だった。
団体、シングルスともに優勝し、日本選手団は大喜びだった。シングルス優勝の長谷川はもちろん、世界選手権初出場で2位になった河野にも、多くの称賛が寄せられた。
笑顔で凱旋(がいせん)した河野だったが、胸中は穏やかでなかった。世界チャンピオンと世界2位。そこには大きな隔たりがあった。今度の大会で、自分が世界で戦えることはわかった。次こそ世界チャンピオンを狙おう。河野は決意を新たにした。
ミュンヘン大会
世界の舞台を知った河野は、世界一目指して黙々と練習に励んだ。大学卒業後は旺文社に就職。昼は勤務しなければならなかったが、代わりに夜はみっちり練習した。
そうして迎えた69年世界選手権ミュンヘン大会。勢いのある日本はまたもや団体優勝。その中でも河野は、ドイツのエース、シェラーを日本選手の中でただ一人破るなど、確実に勝利を挙げる選手として注目されていた。
「今回の河野は動きがいい」
「男子シングルス優勝は河野に違いない」
周囲の者は口をそろえて言った。今度こそいける。団体戦で好成績を残し、河野は自信を深めていた。
―しかし、河野は同じ過ちを繰り返した。
5回戦、ソ連のアメリンとの試合。これまでの対戦では、負けたことはなかった。このときも河野は1ゲーム目を先取。上々の手ごたえだった。
「いける!もう完全に勝てる」
勝ちを意識した河野の体は硬くなり、攻撃力も影を潜めた。前回のストックホルム大会のように。
河野は敗れた。世界チャンピオンどころか、5回戦負け。呆然(ぼうぜん)とする河野をよそに、大会は進行した。そして、伊藤繁雄がチャンピオンとなった。
勝てない
伊藤が優勝。河野にとって、何よりも悔しい出来事だった。一番のライバルの伊藤が、自分より先に世界チャンピオンに。人前でこそ平気な風を装ったものの、河野は強烈なジレンマに襲われていた。団体戦ではあんなに調子がよかったのに、どうしてシングルスでは勝てないのだろう。俺は伊藤にだって何度も勝っているのに。
そんな雑念が浮かんでくると、河野はとにかく練習した。ジレンマに負けて弱気になることは、プライドが許さなかった。
しかし、そうした努力は報われず、河野の成績は振るわなかった。71年の世界選手権名古屋大会も5回戦負け。世界はおろか、全日本選手権大会でも勝つことができなかった。
「河野はダメなんじゃないかな」
「全日本でも勝てなくて、世界選手権で勝てるはずがないのにな」
否応なしに聞こえてくる周囲の評価は、河野の胸に突き刺さった。
しかし、負けず嫌いの河野は、決して他人に胸の内を見せなかった。悔しい気持ちは練習にぶつけていっそうの励み、一人になると布団の中でこっそり泣いた。高校・大学時代の厳しい練習や上下関係に耐えてきたことを思えば、勝つことができないつらさなんて我慢することができる。逆境の河野を支えたのは、そんな思いだった。
精神面が悪い
「河野はダメだ。精神面が悪い」
周囲の声がやむことはなかった。頭にきた河野は、ある先輩に詰め寄った。
「先輩もみんなも、いつも精神面が悪いって言いますけど、精神面って何なんですか!」
だが、相手は平然と、
「普段の生活だ」
わかったようなことを言いやがって。河野はますます頭にきた。
「普段の生活って何ですか!」
「ちゃんとやることだ」
「ちゃんとやってますよ!」
くそ、人の努力も知らないで勝手なことを言いやがる。俺のやり方は、絶対に間違ってなんかいない。
強がってはいたものの、周囲の冷たい評価と自分の中にある焦りは、徐々に河野の闘志を蝕(むしば)んでいった。どうして勝てないのだろう。卓球で頂点を究めるなんて、どうせ俺には無理だったんだ。膨らみ始めたマイナス思考は、河野を押しつぶしていった。
―もう、卓球なんてやめてしまおう。
(2001年4月号掲載)