どん底
社会人になった河野は、結果を出せずに苦しんでいた。世界選手権はもとより、全日本でも優勝できずに、周囲の期待を裏切り続けていた。やがて、寄せられていた期待は非難へと変わる。「精神面が悪い」、周囲が河野に下した評価だった。
そんな周囲の雑音にもめげず、河野は必死に練習をした。しかし、どんなに努力しても勝つことができない。疲れ果てた河野は、卓球をやめることさえ考えるようになっていた。
しかし、そんなある日、焦る河野の心を鎮め、その後の卓球人生に大きく影響する一つの出合いが訪れる。
―座禅との出合いだった。
座禅
「気晴らしに座禅でもやってみないか」
ある先輩に勧められ、河野は座禅堂を訪れた。「座禅なんて」と思いかけて、今の自分には案外ぴったりかもしれないと思い直す。それに、少しおもしろそうだ。
「こらーっ」
河野は初日から怒鳴られた。どこで靴を脱いでよいかがわからず、土足のまま座敷に上がってしまったのだ。
「靴のまま上がるなんて、座禅をする資格はありません。すぐに帰りなさい」
と、先生はカンカンだ。河野は何度も何度も頭を下げ、やっとのことで許してもらった。
最初の座禅は1時間だった。足がしびれるが、動けば叱られる。足が痛いのは辛かった。しかし、座禅をやめたいとは思わなかった。足の痛みを補って余りあるほど、先生の話に興味を引かれたのだ。
座禅堂に通う河野に、先生はいろいろな話しをした。その中でも特に河野の心に深く焼きついたのは、「無」という概念だった。
「勝ちたい、負けたくない、そういう気持ちを捨てなさい。常に『無』の状態でプレーすることが大事なのです」
―つまり、「夢中でやれ」ということなのだな。雑念を捨て、プレーに集中しろということなのだろう。
先生は、野球部のコーチもするというスポーツマンだった。その先生の話す「禅」は、河野の心にもすっと入り込んでいた。
無の境地
そんなある日、河野にとって忘れられない出来事が起こる。きっかけは、先生への反抗心だった。
そろそろ1時間経つな、そう考えた河野の肩にピシッと一撃が加えられた。
「今、何か余計なことを考えたでしょう」
「足がしびれて...」
「足は誰でもしびれます。我慢しなさい」
1時間経っても座禅は終了しない。河野が不安になると、またもやピシッと一撃。
「余計なことを考えたでしょう。肩に力が入ったのがわかりましたよ」
何回かこうしたやり取りが交わされるうち、負けん気の強い河野はついに頭にきた。くそ、何度もピシピシ叩きやがって。こうなったらもう、何時間だって座禅してやる!
―そのとき、全身の力がすっと抜けた。
「それです!それが『無』です!」
先生の声が聞こえる。そうか、これが無の境地か。頭の中がすっきりと冴え渡っていた。体中が軽くなったような気分だった。
「先生、どうしてボクが無の状態だとわかったのですか」
「私から見ても、肩の力が抜けていました」
「力が、ですか...」
「これからは、そういう気持ちで卓球をするといいでしょう」
そうか、そういうことなのか。頭の中だけで理解していたことが、全身で納得できた。
「これからは、どこでも座禅をしなさい。心を落ち着けるために、座禅をどこでやっても、いつやってもいいのです。それが禅なのです」
先生の教えに従って、河野は試合前に座禅をするようになった。一人で静かに精神を統一したあと、作戦を立て、ウオームアップをする。夢中でやること、ただそれだけを考えるように努めた。こうして、河野の中のジレンマは、次第に影をひそめていった。
激励
禅によって河野は一時の心理状態から回復し、勝負に集中できるようになっていった。とはいえ、結果はすぐには表れない。河野は、25歳になっていた。
「そろそろ卓球は終わりにして、今度は仕事の方に思い切り打ち込んでほしい」
会社からはそんな話が出るようになった。事実上の引退勧告である。河野とて、仕事をおろそかにしていたわけではない。だが、会社としては、河野が卓球に注ぐエネルギーのすべてを仕事に向けさせたかったのだろう。
卓球は続けたいが、会社の意向に逆らうのも勇気がいる。困った河野は、田舎の父に相談を持ちかけた。
「...俺、そろそろ卓球をやめた方がいいかな」
だが、父はきっぱりと言い放った。
「いや、お前は卓球をやりなさい。30歳まではやりなさい。金の心配はしなくていいから」
周囲の冷めた反応に慣れていた河野に、父の言葉は涙が出るほどうれしかった。
「お前の卓球が一番いいんだ。前でどんどん打っていく、その戦い方が好きなんだ」
息子の卓球を愛し、信じてくれている父。父の言葉は、河野の卓球人生に対する純粋な激励だった。
―絶対にやってやる。
河野は、固く決意した。顔がほてるのをこらえ、きつくこぶしを握る。この父に、なんとか報いたいと思った。
30歳までに世界を取ろう。決意を固めた河野は、思い切り卓球ができる環境を求め、いくつかの会社を転々とする。このときに力になってくれたのは、あの野平さんだった。
独り立ち
河野を専修大学に招き、とことん面倒を見てくれた野平さん。その野平さんは社会人になった今も、河野を強く応援してくれた。より卓球に専念しやすい職場を見つけては、そこに河野を招く。そんなことが何度か続いた。
河野にとって、野平さんの好意はとてもありがたかった。しかし河野は、野平さんの好意に甘えてばかりいる自分に、疑問を感じ始めてもいた。このままでいいのだろうか。自分の道は自分で切り開かなくてはいけないのではないだろうか。
そんなあるとき、河野のもとを訪れた人物がいた。宝石や着物を扱う商社の社長だった。
「ぜひ、うちに来てみないか。思いっ切り卓球をやってもらって構わない。もしも卓球をやめても、宝石鑑定士の資格を取らせるから」
河野の心は動いた。卓球好きの社長は、思いっ切り卓球をやらせてくれるという。鑑定士というのもカッコいいなと思った。
―それに、独り立ちのチャンスだ。
野平さんのことは大好きだ。尊敬している。できることなら離れたくはない。しかし、それではいつまでたっても野平さんを超えられない。いつまでも野平さんに頼っていてはダメだ。尊敬する野平さんを超えるために、俺は俺の道を行く必要がある。
こうして河野は野平さんの下を去り、独りで新たなスタートを切ったのである。
開花
―もっと自分に厳しくしよう。
長い間世話になってきた野平さんの下を離れ、河野は決意を新たにした。これからは独りでがんばるんだ。父と約束した30歳まで、あと2年しかなかった。全日本を、そして世界を取る!
その決意は実を結ぶ。
昭和50年の全日本選手権大会、河野はこれまでにないほど高い集中力を見せていた。「静の中に動あり」と評されたそのプレーは、終始冷静さを保ちつつ、絶え間ない速攻を繰り出していく。まさに前陣速攻の真骨頂と言えるものだった。
このときの河野は、精神的に非常に安定していた。試合前に座禅を組んで作戦を立てると、勝ちたいという焦りを抑えて一心にプレーに集中。自分でもおもしろいくらいに、思い切ったプレーができていた。
こうして、河野は初めての全日本シングルス優勝を飾ったのである。これまでやってきた全部の成果がここで表れた。そんな心境だった。
河野は、続く翌年の全日本選手権大会でもシングルス優勝を果たした。試合前に足を捻挫(ねんざ)してしまうというアクシデントに見舞われたが、精神力が高まった河野はそれをかえって味方につけてしまった。無駄な動きを徹底的に省いた冷静なプレーぶりで、全試合3-0での完封優勝を果たしたのである。
しかし、2連覇にホッと息をついている場合ではなかった。3カ月後には世界選手権大会が行われる。このとき河野は30歳。次の世界選手権大会が最後のチャンスなのだ。
全日本の表彰台に立ちながらも、河野の目には厳しい光が宿っていた。
バーミンガム大会
1977年世界選手権バーミンガム大会。日本チームの前評判は最悪だった。
「日本はダメだ、全然勝てない」
「メダルなんて到底無理だろう」これが、おおかたのメディアの見解だった。
世界選手権大会の前に行われた日中交歓大会、日本は中国の前でこてんぱんに敗れていた。選手たちも自信を喪失していた。
しかし、消沈していたチームは、こんな呼びかけによって救われた。
「勝てないかもなんて考えていても仕方ないし、精いっぱいいい試合をしてこよう!」
河野だった。人間的に大きく成長してきた河野は、いつしか日本チームの柱的存在となっていた。
団体戦1試合目のユーゴ戦、河野の言葉で緊張のほぐれたチームは、5-4の大接戦をものにした。この勝利は大きく、日本チームは決勝まで一気に勝ち進む。決勝戦で中国に敗れはしたものの、前評判を覆して見事に銀メダルを取ったのである。
正念場
団体戦でチームの柱として活躍した河野は、メダルの喜びに浸るのもつかの間、個人戦に向けて気持ちを切り替えた。世界選手権大会に出るのもこれが最後になるだろう。悔いの残らない試合をしてこよう。座禅を組んで作戦を立て、入念なウオームアップをして、試合に臨んだ。
5回戦、6回戦、7回戦と、ヨーロッパの選手をすべて3-0で下し、河野のプレーは快調だった。足もよく動いていたし、サービスも攻撃も好調だった。
「あの日本選手はすごいな」
日本だけでなく、国外のマスコミも河野に注目し始めていた。
そんな中、河野本人は淡々としていた。次の準々決勝の相手は、スウェーデンのベンクソンである。ベンクソンといえば、前々回の73年世界選手権大会でのスウェーデン団体優勝の立役者であり、71年の男子シングルス世界チャンピオンでもある。まさに強敵だ。
―ここが正念場だ。
1ゲーム目はジュースにまでもつれこんだが、ベンクソンに取られてしまう。しかし、手ごたえは悪くない。河野は冷静に試合を運び、2ゲーム目を取ることができた。一進一退の激しい攻防が交わされ、4ゲームを終えてカウントは2-2。しかし、不思議と焦りや不安はなかった。そうして迎えた最終ゲームは、21対19のギリギリで河野の勝利だった。
ベンクソンに勝利した河野は、力をすべて使い果たしたような気分だった。半ば無我夢中といった状態で、準決勝は中国の梁戈亮と対戦。団体戦の決勝で敗れた相手だったが、恐れはなかった。大きく深呼吸して試合に臨むと、3-0で勝利。当時も絶大な強国であった中国の中心選手を破り、河野への注目度はますます高まっていった。
栄光
ここで勝てば世界一。ずっと追い続けてきた目標が、目の前まで迫っていた。決勝の相手は中国のエース郭躍華。河野は最後の力を振り絞って試合に臨んだ。
だが、郭躍華は強かった。背筋を冷たいものが走る。ここまで来て、俺は世界を取れずに終わるのだろうか。
ふっと浮かんだ悪いイメージは、河野のプレーを委縮させた。思うように攻撃を仕掛けていくことができない。得意のバックハンドを振ることさえ忘れてしまっていた。
その結果、河野は1ゲーム目を17対21で落とす。ベンチに戻った河野を待っていたのは、荻村伊智朗監督の厳しい声だった。
「河野、バックハンドだ!ショートじゃない、バックハンドを振れ!」
河野はドキッとした。そうだ、荻村監督の言う通りだ。何を弱気になっているんだ。もう俺は恐れない。最高のプレーをしてこよう。
気持ちの乱れを振り払った河野のプレーは最高だった。
続くゲームは完全に河野のペース。バックハンドもフォアハンドも、まったく自由自在だった。会場いっぱいの観客が息を詰めて河野のプレーに見入っていた。
もはや河野に不可能はなかった。自然に体が動く。ラリーをしている今でさえ、自分がどんどん強くなっていくのがわかった。30年間生きてきて、初めて自分の卓球が完成した。そんな感触だった。河野の心には、焦りも恐れも、勝利への執着すらもなかった。夢中。ただ夢中で球を追っていた。
その結果、3ゲームを連取。
―優勝だ。
喜びがわき上がるのと同時に、体中の力が抜けていくような気がした。
―とうとう目標を果たした。
大歓声に包まれながら、勝利の喜びと目標を遂げた達成感とで、頭の中が真っ白になっていくような気がしていた。
凱旋
「卓球の河野満、世界選手権優勝」
ニュースが日本中を走った。多くの人が驚き、喜ぶ中で、やはり一番喜んでいたのは河野の青森の実家だった。
河野の兄、勝は友達と数人で居酒屋にいた。
「満は勝てるかなあ」
「でも、決勝はあの郭躍華らしいね」
「難しいかなあ」
そのとき、家から電話が入った。
「大変!新聞社から連絡が入って、優勝したって!」
その後、実家は嵐のようだった。いろいろな人がお祝いを言いに駆けつけ、マスコミも次々と取材にやってくる。忙しさにもみくちゃにされながら、家族は誇らしさでいっぱいだった。
―満、本当によくがんばった。
新聞はこぞって河野の優勝を書き立て、河野が日本に戻ってくると、凱旋パレードが行われた。
人々の称賛を浴びながら、河野はいろいろな人の顔を思い浮かべていた。幼いころ一緒に卓球をした父や兄、初めての先生だった相川先生、共に励んだ同級生や厳しかった先輩たち、いつでも河野を応援してくれた野平さん、ライバルの伊藤繁雄、チームの仲間や対戦した強敵たち...。勝利の実感とともに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
―やっと、世界を取った。
これでいろいろな人の恩に報いられたかな。そう思った。
これでやめられる・・・
世界選手権大会を終え、河野はこの年の全日本選手権大会に出場。見事に優勝を果たし、3年連続優勝という栄冠に輝いた。
しかし、この全日本を最後に、河野は卓球を引退することにした。父と相談して決めていた、30歳まで卓球をするという期間が過ぎたのである。
―やっとこれで、卓球をやめられる。
引退に際して、河野の心に浮かんだのはそんな思いだった。
卓球をやめようと思ったことは何度もあった。しかし、目標を果たさないまま終えることはできなかった。だが、全日本を取り、世界を取り、もはや思い残すことはない。自分は本当に幸せだな。河野はそう思った。
再び世界一への道へ
いったんは卓球から離れた河野だったが、もう一度卓球の世界に戻ってくることになる。選手としてではなく、今度は指導者としてだ。
母校の青森商高から「卓球部の面倒を見てほしい」と頼まれたとき、正直言って河野は困った。自分はもう卓球をやめると決めたのだ。
迷った末、河野は引き受けた。
―やっぱり俺には、卓球しかないんじゃないかな。
結局、河野は卓球が大好きだったのだ。青森商高の監督を務めた河野は、チームをインターハイ優勝に導いた。そして、現在は青森大の監督を務め、三田村宗明や宋海偉など優秀な選手を指導している。
監督としての河野は、「選手主体」ということを何よりも大事にしている。やらされる練習に意味はない。選手が自分で目標を立て、強くなろうと努力し、指導者はその手助けをする。また指導者は、選手がやる気を持ち続けられるように気を配る。勝利の味もどん底の闇もともに肌で知っている河野の思考は、非常に柔軟だ。
河野は指導者の立場に身を置きながら、教え子の選手たちが世界を取れるようにと考えている。もう一度、世界一を狙っているのだ。
決意を固め・・・
そんな河野が、胸に大切に刻んできた言葉が二つある。どちらも荘則棟の言葉だ。
荘則棟は61年、63年、65年の世界チャンピオンで、「史上最強」とも言われる中国の名選手。河野が尊敬し、憧れてやまない選手でもあった。
「決意を固め、犠牲を恐れず、万難を排して、勝利を勝ち取る」
これが、一つ目の言葉である。河野の卓球人生は、まさにこの言葉のようだった。
そして、もう一つの言葉。
「人無なれば我は有し、
人有すれば我は優れ、
人優るれば我は精し、
人精すれば我は創す」
簡単に訳すと、次のような意味になる。
「人が持っていないものがあれば、自分は身につける。人が同じものを身につけたら、自分はそれをもっと高める。人が同じように高めたら、自分はもっと磨きをかける。人が同じように磨きをかけたら、自分は新たなものをつくり出す―こうすれば決して負けることはないんだ」
これらの言葉を胸に刻み、河野は長く険しい道のりを必死になって歩んできた。挫折を味わい続けながら、何度でも底から這(は)い上がってきた。目標を実現するために。
新たな世代が巣立てば、歴史は次第に風化していく。しかし、彼の生きざまは、その名を生き生きと留め続けるだろう。
―究極の前陣速攻選手、河野満。
(2001年5月号掲載)