人の気持ちに敏感で、常に周りを明るく和ませていた江口冨士枝。
その一方、自分には決して妥協を許さなかった。
優しさと厳しさ。
その二つは彼女を世界の舞台へ押し上げ、
「超人」と呼ばれるほどの選手を誕生させた。
序
長谷川喜代太郎は、合宿会場の一角に違和感を感じていた。長谷川が日本選手団の団長としてこの合宿に参加して3日目。ある選手の行動が、日ごとに長谷川を不安にさせていった。
「はあ、はあ」
朝から晩まで、1日中フットワーク練習ばかりするあの選手。初日は「よくがんばるなあ」と思っていた。
「はあ、はあ」
2日目は「ん、今日もフットワークだけか」と思った。ずいぶん思い切ったメニューだ。
「はっ、はっ」
3日目になると、さすがに違和感を感じてきた。なぜ彼女はそれほどフットワークにこだわるのだろう。どうしてそこまで自分を痛めつけるのか。
「はっ、はっ」
しかも、その練習は日増しに厳しさを増している。コース、速さ、すべてが徐々に厳しくなっている。それに、驚いたことに彼女は休憩時間にまでフットワーク練習をしている。あきれた。何も休憩時間にまでやらなくても。こんな練習では、体への負担は限界に近いだろう。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
だめだ。世界選手権大会は目前なのだ。これでは世界戦を前に、この選手はつぶれてしまう。たまらなく不安になった長谷川は、選手を呼びつけた。
「江口、もうやめろ!お前はしばらく練習を休め」
呼びつけられた選手は、怪訝(けげん)そうな顔をして長谷川を見上げた。
選手の名は江口冨士枝。1957年世界チャンピオン。1957年ストックホルム大会では、女子シングルス、女子団体、混合ダブルスの3種目を制するという偉業を遂げていた。
彼女の武器は、鉄のフォアハンドと鋼のフットワーク。男子選手に負けないほど研ぎ澄まされたその武器を携え、冨士枝は24歳で世界を獲ったのだった。
そして今回の1959年、26歳の冨士枝は最後の世界戦に臨もうとしていた。ところが...。
「江口、お前はもう練習するな」
「え、どうしてですか」
練習をするために合宿に来ているのに、練習をするな?この人はとても不思議なことを言う。冨士枝はそう思った。
「だめだ。それ以上やれば必ず崩れる」
そんな...。大会を目前にして、練習をやめるだなんて絶対に嫌だ。だって私は...。考える間もなく、冨士枝は即答していた。
「いいえ、やらせてください」
日本選手団の団長から下された練習禁止の命令。それを拒む冨士枝の声は静かだったが、強い決意が宿っていた。
「私は自分の限界に挑戦したいんです。体なら大丈夫です。自分の卓球には、自分で責任を持ちたいんです」
父の方針
冨士枝が生まれたのは1932(昭和7)年11月18日。長崎県長崎市酒屋町17番地、メガネ橋のすぐ近くの家庭に5番目の女の子として誕生した。
父・善作と母・イネは5人目の女児の誕生を喜び、深い願いを込めて冨士枝という名を与えた。...わけではなく、「今度こそ男の子を」という期待を裏切られてがっかりした両親は、名前を考える気にならなかった。そこで、2番目の姉が名付け親を買って出た。「冨士子」それが最初に浮かんだ名だった。当時、冨士子という名はとても流行していた。「でも、ちょっと待てよ」と姉は考えた。冨士子という名の子はたくさんいるから、他の子と間違われてしまうかも。そこで一文字変えて「冨士枝」とした。後に卓球の世界チャンピオンとなる江口冨士枝の誕生である。
6歳のとき、冨士枝は一家で大阪へと移る。大阪ミナミ、難波の高島屋の中にある大きな美容院「丸善美容院」。それが、冨士枝が少女時代を過した場所だった(ちなみに、丸善美容院は現在「ヘアーズ・ギャラリー」として大阪近辺に8店舗を構えている)。
家族は両親と4人の姉。その他に美容院の住み込み従業員が常時150~200名もいた。家族と従業員との毎日の中で、冨士枝は幼いころから集団生活というものを経験した。
さて、冨士枝の父・善作は、とても教育熱心だった。勉強をしたいという希望を持ちながら、家族の世話をするために若いときから働いてきた善作は、それだけにかえって自分の子どもたちにはできるだけ教育を受けさせたいと思っていた。
「全員集合!」
父の号令が家に響く。それは週に一度必ず行われる「江口家漢字書き取り試験」の始まりの合図だ。姉妹全員が集まったところで、1人ずつにわら半紙が配られる。
「よし、座ったか。今日は『さんずい』」
父の号令とともに、5人姉妹はいっせいに漢字の書き取りを始める。知っているかぎりの「さんずい」のつく漢字を書きつけるのだ。
「海、池、湖、泳...」父親は子どもたちの様子をじーっと見ている。いくつ間違わないで書けたかチェックしている。遊びたい盛りの冨士枝はこの時間が大嫌いだった。
善作の教育パパぶりは、それだけでは終わらない。
「冨士枝、今日のぶんの日記はつけたか」
冨士枝はギクッと首をすくめた。日記なんて言ったって書くことなんかないもん。どこかへ連れてってくれるわけでもないしぃ。そう思うのだが、優しい冨士枝はそれを父に言うことはできない。しぶしぶ言いつけに従うのだが、その内容はいいかげんだった。
「7月10日 今日は朝ごはんを食べて、昼ごはんを食べて、晩ごはんを食べた」
「7月11日 昨日と同じ」
「7月12日 昨日と同じ」
「7月13日 昨日と同じ」
特に書くことなどないのだが、それでも書かなければ怒られる。嫌々日記をつける冨士枝は、いつも数日分をまとめ書きだった。1週間分ためて書くなどということもざらだった。
さらに教育パパの方針は続く。
「うー、眠い。面倒くさー」
朝は読書の時間だ。学校に行く前に必ず本を読んでいくべし。これも江口家の決まりだった。しかも、父の選ぶ本というのは、小学生には少々難しすぎると思われるものだった。吉川英治の『三国志』や『宮本武蔵』。全8巻などという分厚い本を渡され、冨士枝はげんなりしながらも読書を続けた。なにせ、読書を終えないことには学校に行かせてもらえないのだ。
「なあ、漢字が読めへんのやけど」
「だったら飛ばして読め」
漢字が読めないようなこんな難しい本を、私に読めって言ったって無理だよう。言外に匂わせた冨士枝のぼやきにも、父はまったく耳を貸さなかった。
そんな父親について、現在の江口冨士枝はこう語る。
「あのときの嫌々ながらっていうのが、やっぱり必要で大切なことだったと、今になると思います。卓球でもそれ以外でも、何事も基礎が大切ですよね。父親が学問の基礎を授けてくれたおかげで、私は今でも文科系が好きですよ。漢字の書き取りも日記も読書も、子どものころの私にとっては非常に嫌なことでした。でも、わが子にとって後々プラスになるようなことを、父はやらせてくれていたのだと思います。とても感謝していますよ」
卓球との出合い
「冨士枝、カズを見なかったか」
小学校から帰ってきたとたんに父親に聞かれ、冨士枝は「またか」と思った。冨士枝のすぐ上の姉は、近ごろ自分だけの楽しみを見つけたらしい。隙(すき)を見ては店の手伝いを抜け出し、こっそり遊びに行ってしまうのだ。しかし、父はそんな自分勝手を許しはしない。
「家の者は人より2倍も3倍も働いて当然」
美容院として大勢の従業員をかかえる江口家で、それは父の口癖だった。自分の娘たちだけに贅沢(ぜいたく)させるわけにはいかない、むしろ家の者は従業員より余計に働いたって当たり前だ。父のこうした信念のおかげか、大勢の家族と従業員のチームワークはばっちりだった。こうした環境下で、冨士枝は幼いころより「相手を思いやる心」を養っていた。
さて、そんな父であったから、姉が1人だけ仕事を抜けて遊びに行くのを黙っているはずがない。姉の不在に気づいた父を見て、冨士枝は嫌な予感を感じた。あーあ、嫌だな。どうせまた私が...。
「冨士枝、カズの奴またあそこに行っとる。早く連れ戻してこい」
やっぱりだ。冨士枝はガクッとうなだれ、渋々店を出た。
「もう、またかぁ。嫌になっちゃう」
道々ぼやきながら冨士枝が向かった先は、道頓堀の卓球場だった。姉は今日もそこで卓球を楽しんでいるのだ。
冨士枝の姉はとにかくスポーツ大好きな活発な女の子だった。誰でもいつでも手軽に楽しめる卓球、彼女はそれに飛びついた。
姉の通う道頓堀の卓球場には、3台の台が置かれている。その中で楽しそうにプレーしていた姉は、迎えに来た冨士枝を見るなり口をとがらせた。
「またあんたが来たの。どうせ早く帰れって言いに来たんやろ」
「うん。お店も忙しそうやしぃ...」
「うるさいなあ。わかった、わかった。すぐ帰るから先に戻っといて。絶対戻るし。大丈夫だから」
本当にすぐ戻ってくれるかなあ。不安は残るものの、あまりしつこく帰れと言っても、今度は姉が怒りそうだ。ここは引き下がった方がいいかな。父と姉との板挟みにあって、冨士枝の立場は微妙だった。しかし、楽しそうにボールを打つ姉の姿を見ながら、冨士枝は少しだけ卓球に興味を持ち始めていた。
「私もやってみたい」
そんな思いが頭をもたげたものの口には出さず、冨士枝はくるりと卓球場を後にした。私まで戻らなかったら他のみんなが困るかもしれない。姉たちに交じって卓球をしたい誘惑を振り払うように、冨士枝は走って帰った。
「ただいま。すぐ帰るって言ってたよ」
店に戻って父に報告したものの、姉は一向に帰ってこない。父親の表情をうかがいながら、冨士枝は「まずいなあ」と思った。このままじゃ私が怒られる。
「コラ、冨士枝。もう1回呼んでこい」
とほほ。仕方なくもう一度卓球場に向かう。
そんな日常の繰り返しだった。小学生の冨士枝は卓球をなんとなくおもしろそうだと思いつつも、それを口にするきっかけをつかめぬまま父と姉との間を往復していた。卓球というスポーツに出合いはしたものの、当時の冨士枝はラケットに触れることもなかった。
太平洋戦争
江口家のささやかな日常とは裏腹に、時代は苦しい方向へ流れていく。太平洋戦争において日本は次第に劣勢になり、本土への攻撃を許すようになっていた。冨士枝が小学校高学年になるころ、空襲は日増しに激化していった。
冨士枝の家のあった難波は空襲がひどく、辺り一面が焼けた。焼夷弾(しょういだん)が落ちてくるたびに、冨士枝の父はそこらじゅうの家の火を消して回っていた。
しかし、どんなに火を消しても消しても空爆はやむことがない。町はどんどん炎に包まれていく。もはや誰にも手がつけられなかった。焼け焦げ、それ以上燃える物さえもなくなった跡に、焼け出された人たちが心細く身を寄せ集める。周囲を見れば、そこらじゅう死体がごろごろしていた。冨士枝たち一家の者は、死んだ人たちをよけながら歩き、命からがら地下壕(ごう)へ逃げのびた。
さらに日増しに激しくなる空襲を受けて、冨士枝は疎開を経験する。学童集団疎開。当時、都会は空襲の被害を受ける危険が高かったため、子どもたちは空襲の心配のない田舎の方へ学校ごと移された。
幼い冨士枝は滋賀県の山深いところへ疎開したが、他の姉たちは学従動員で駆り出された。学校へ行く代わりに堺の工場へ行き、軍が使うパラシュートを縫う。
しかし、そんな恐ろしい戦争下の生活にも、やがて終わりが訪れる。1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は終了した。
戦争が終わり、高島屋は残った。焼け野原となった難波の地に、冨士枝の父の美容院が入っている高島屋は奇跡的に残った。高島屋は直接爆撃を受けず、また前の道幅が広かったため類焼を免れたらしい。江口家は、幸運にも再び生活を立て直すことができるようになった。
終戦、そして部活動
まだ戦争の激しかった1944(昭和19)年4月、冨士枝は中学校に入学した。そして、戦争が終わると、中学校では徐々に部活動が再開されていった。
戦争の恐怖から解放されて万事に意欲の高まった冨士枝は、すぐさま卓球部に入部した。冨士枝が卓球を選んだのは単純な理由だった。一番最初に再開された部活動が卓球部だったのだ。
卓球部の練習場は学校の音楽室だった。台は手作りで、どこから集めてきたのかボロボロの板切れを何枚も並べたものが二つ置かれている。板と板の継ぎ目がでこぼこしているせいで、継ぎ目に落ちたボールは見当もつかぬ方向へバウンドした。ボールは品質が悪く、打っていると途中でパカッと真っ二つに割れた。だが、当時はボールも貴重品だったので、割れたボールは酢酸アミールでくっつけてまた使う。自分専用のラケットなど持っている者はなく、学校の備品の古びたラケットをみんなで交代で使った。
まともな台もない、まともなボールもない、ラケットもシューズもない。そんなふうに何もかもが不足していた。しかし、冨士枝はその不足を一度だって苦痛に感じたことはなかった。何もない中ではみんなが工夫をしていた。不足に対して工夫で挑む。それはとても楽しい営みだった。
さて、冨士枝が学校で卓球を始めたと知り、すぐに応援してくれたのは、例のスポーツ好きの姉だった。
「冨士枝、私の友達で卓球をよく知っている人がいるから、学校に教えに来てもらえるように私から頼もうか」
「え、本当!?お願い」
姉の口利きで学校に来てくれるようになったのは西村先生。授業が終わると台の取り合いをする生徒たちの中で、西村先生は熱心に卓球の基本を教えてくれた。ラケットの持ち方、打つときのフォームなどを、冨士枝はすべて西村先生から教わった。
現在の江口冨士枝は振り返る。
「何もかも不足していた中で、西村先生のおかげでフォームだけはまずまずマシだったと思います。私のフォームは先生にそっくりなんじゃないかな。とにかく卓球がどんどん好きになって、楽しくやっていました」
とにかく卓球が好きだという気持ちで練習に通い、冨士枝は楽しく卓球に取り組んだ。中学には冨士枝と同じく卓球が大好きな子がおり、よい練習相手になってくれた。
「な、もうちょっとやってこう」
「ええよー」
いつも夢中で何度でも練習をせがむ冨士枝に、嫌な顔一つ見せない。この子のおかげで私も練習できるんだ。冨士枝は心の底から相手に感謝していた。
熱心な練習のかいあって冨士枝はどんどん上達していった。船場中の江口冨士枝と言えば、大阪ではちょっと名の通った選手と周囲に目されるようになる。そして、卓球を始めて数カ月で、冨士枝は全国大会の大阪代表に選ばれた。
冨士枝が初めて出た全国大会は「マッカーサー元師杯争奪大会」だった。ジュニアの部の大阪代表として出場した冨士枝は、特に成績を残せたわけではなかった。しかし、成績は残せずとも、冨士枝はこの大会から大きな収穫を得ていた。
「へえ~、こういうのを卓球って言うんだ」
初めて全国大会に参加し、ジュニアの部だけでなく一般の部のプレーも目の当たりにした冨士枝は、全国レベルの卓球を肌で感じてわくわくしていた。映像技術も未熟で、情報の少ない時代である。大会会場で実際に触れた光景は、冨士枝の卓球への意識を大きく揺さぶった。卓球というものが少しわかったと思った。自分の目指す方向が見えたと思った。
コーチがいない
1947(昭和22年)の春、冨士枝は東船場高校に入学した。高校でももちろん卓球部に入部し、チームメートに恵まれて楽しく練習に励んだ。小さいころより集団生活に慣れている冨士枝はムードメーカーとして周りを和ませ、チームの雰囲気は最高だった。10人前後の部員でいつも和気あいあいと練習を重ねていた。先輩も後輩も関係ない、同じ卓球を志す仲間が集まったチーム。明るく優しい気性の冨士枝は、自然とそうした空気をつくってしまう存在だった。相手が望むこと、望まないことについて常に気を配る冨士枝の性質が、チームの和をつくり出していた。
しかし、高校には卓球を教えてくれるコーチどころか、顧問の先生さえもいなかった。コーチのいないチームでは、強くなるためのノウハウを知っている者は1人もいない。何も知識のないまま、めいめいが自分で考えた練習方法をいろいろと試していた。とにかく強くなりたい、そんな気持ちをまともに練習にぶつけ、試行錯誤を繰り返していた。
江口冨士枝は当時の練習を振り返って言う。
「コーチがいないことをマイナスだと考える人もいるでしょうけど、逆も言えるんですよ。私の場合は、コーチがいなかったから、そのぶん自分で基礎をしっかりやって、後で大成できたと思うんです。
私は美容師の勉強もしたので感じるのですが、卓球も美容も、技術を身に付ける上で大事なことは一緒です。美容では、自分は手先が不器用だからと一生懸命練習する人はいい技術者になれます。でも、もとからすごく器用でセンスも抜群だっていう人は、基礎を怠る場合があるんですよね。そうなると、不器用だった人の方が後に大成します。どんなうまい選手だってセンスのある人だって、基礎をやっていなければ後々ダメになってしまいます。
私は自分の卓球について、才能もないし人の倍やらないと身に付かないんだっていうことを、自分でよくわかってたんです。だから、人の倍練習しようと思ってました。そうじゃなきゃ、人のレベルまでいかないと思ったんです。
自分で考えて人の倍努力すれば、その人の技術は幅も深さも広がっていきます。才能や知識だけじゃない、日ごろのこつこつとした練習が最後にものをいうのだと思うんです」
しかし、それほど明るく前向きに努力していた冨士枝でさえ、この後すぐに大きな障害にぶつかり、苦い挫折を味わうことになるのだった。
(2002年1月号掲載)