序
昭和49年(1974年)全日本選手権大会準決勝、長谷川は2度目の優勝を狙う世代交代の旗手・高島規郎と対戦した。27歳になった長谷川の、ジェットドライブと呼ばれた強烈なドライブは、威力がやや落ちてはいたがミスがなく、一方、1日30キロ走り鍛え込まれた下半身に支えられた高島のカットも、容易には崩れなかった。
試合は満員の観客の目を第1コートにくぎづけにする中で、1ゲーム目から促進ルールへともつれ込む熱戦となった。
重いドライブにロビングと、糸を引くようなカットとそこから回り込んでのスマッシュといったラリーの応酬となり、両者がまさに死力を尽しての攻防となった。
激しい試合は長谷川の体力を大きく奪い、ドライブの威力を減退させ、高島の正確無比なカットを打ち抜けなくなっていった。
会場を揺るがすような拍手の中で、日本卓球史上最高の記録の大選手・長谷川信彦は新鋭・高島の軍門に下った。
その直後、世界の金メダル5個、全国優勝29回(全日本選手権大会での優勝10回を含む)、アジアでも中国選手に強く、金メダルは20個と輝かしい戦績を持つ長谷川信彦は、体力、気力の限界を感じ、この大会を最後にラケットを置くことを決意した。
引退までに大小合わせると300回以上の優勝回数、これもまた日本卓球史上例を見ない最多優勝で、記録男長谷川信彦の面目躍如である。
「世界一への道」の取材のために、私は東武桐生線の赤城駅のプラットフォームに降り立つと、長谷川信彦は右手を高く上げてニコニコと「おはよう、ご苦労さん」と、ユニフォーム姿で出迎えてくれた。
長谷川はハンドルを握りながら「さっきまでラージボールの指導をやっていたんだ。ラージボールはラリーが続くのでおもしろいよ」などと話し、5分ほど聞いているうちに、車は卓球道場のあるテーブルテニスガーデン・ハセガワに着いた。
桐生市の四方が緑に囲まれた山の中。約500坪の敷地が広がり、15台の卓球台、ボール、マシンなどを備えた200坪の道場とそれに隣接した自宅があった。
道場は鉄骨を一切使わずすべて木造で、木々の香りがただよってくるような、落ち着いた雰囲気の建物であった。
壁に選手たちに向けて書かれたボードが掛けられているのを見て足を止めた。
強くなるには
・常に試合と同じ気持ちで練習する
・フォーム、フットワーク、3球目、4球目攻撃など抜群にせよ
・世界で勝てる選手になれ
・自分から進んで素振り、体力作りをやれ
'01・6・10 長谷川信彦
私はもう一度、目を凝らして読んだ。
これはまさしく、長谷川信彦の卓球哲学そのものである。
長谷川信彦55歳、現役を退いて26年。今でも毎朝ルームランナーでのランニングを30分、バーベルなどを使っての筋力トレーニングを30分行い、さらに週に1回は2時間の長距離ランニングを欠かさない、という。私はそこに「卓球人として、常に最高のプレーを見せる」という長谷川の卓球哲学を感じた。
現役時代には毎日2時間をトレーニングに費やした。その半分はランニングだった。「試合前にランニングをたくさんやったときには負けなかった。反対にランニングをあまりやらなかったときには、勝てなかった。走ると体のバランスがよくなるし、心も鍛えられる。孤独に強くなる。長距離ランニングは自分の卓球の命だ」と言い切る。
そんな長谷川の強靭(きょうじん)な肉体を、元国際卓球連盟会長・故荻村伊智朗は「長谷川の卓球は内臓の戦いに持ち込む」と評していた。
現役時代、206グラムという重いラケットを使っていたのにもかかわらず、トレーニングをしていたおかげで、怪我(けが)は少なかったという。
ところが、引退後一時期体重が66キロまで増え、ふくらはぎの肉離れを何度もしていた。それを反省し、先に述べたようにランニング、トレーニングをすることにした。
「トレーニング、ランニングをすると、体重が61キロとベストになり、肉離れはしなくなった。当り前の話だけど、トレーニングの大切さを再認識したよ」とトレーニングの鬼・長谷川は私の顔を見て笑った。
私はしばらく道場の中を見ていたが、「ヨシッ、1本」「サァ、ファイト」と聞こえてくる声に引っぱられるように2階に上がり、手すりから下のフロアを見た。
おやっ、あれは何だろう。
自分側のコートは全面で、相手側のコートは何分の1かを板で覆って、それ以外の部分のコートにしか打てないように、コートの広さで相手とハンデをつけてゲームをやっているのだ。そのことで相手にも勝てるチャンスが生まれるので真剣勝負になる、ということだ。
長谷川のフルスイングした強打が、その狭くしたコートに的確に入る。精密機械のようだ。相手が強打してくると、高い放物線を描く華麗なロビングで、狭いコートに何本でもスマッシュをしのぐ。相手のボールが少しでも甘いと、カウンターのバックハンドを相手コートに放つ。すごく緊迫したゲームに私は魅せられていた。現役時代、どんな相手との試合でも真剣勝負の試合をした、という長谷川卓球の真髄だ。
現役を引退して26年たつとはとても思えない、そのすばらしい技術、精神力を見ながら、現役時代の長谷川の鍛錬が、いかに凄(すさ)まじかったかを感じることができた。
夜の卓球教室では、子どもたちに本当の「基本」を教える。ここでは素振りをとても大切にする。2時間の指導時間のうち30分を、素振りに費やすのである。素振りの指導のときには体の軸を意識させるために、直立姿勢でラケットを振らせることから始める。そして、大きくスタンスを広げての素振りや、フットワークを入れての素振りをする。
これは「今の日本の選手は、トップ選手から小学生に至るまでみんな体の軸が崩れている。だからフォームが崩れて、いいボールが打てないし、いい動きができない」との考えからだ。
「それに今の選手は、卓球の知識が乏しい。僕は中学生のころには『卓球レポート』を見ては、名選手のフォームの真似(まね)をしていたね」
「ミスター基本」
現役時代の長谷川は「ミスター基本」の異名を取り、また後輩からは「風邪をひいたときに長谷川さんは『ゴホン、ゴホン』とではなく、『キホン、キホン』と咳(せき)をする」と言われるほど、基本を大切にした。素振りはそんな長谷川の、練習の大きな柱の一つだった。現役時代には暇さえあれば、どこでも素振りをしていた。ただラケットを「振る」のではなく、ボールがそこにあるかのように、一振り一振りに集中し、気合を込め、そのボールに向かって「振る」のである。
1971年の4月だった。松崎杯の会場で「辻さん、長谷川の試合前のウオーミングアップと素振りを見ただけで、全日本選手権大会に名古屋へ行った甲斐(かい)がありましたよ」とタマスの辻歓則に興奮気味に話し出したのは、徳島の田村泰(地元出身の選手だけで国体優勝など、高校のトップ選手を多く育てた名指導者)だった。
「体育館裏から、『エイッ、エイッ』と声がするので、その声のする方に行くと、一本差しの長谷川が素振りをしているのです。12月で気温が低かったのですが、額から汗を流しながら『エイッ、エイッ、エイッ』と掛け声を出し、ラケットの空気を切り裂く音が聞こえて来るようなものすごいものでした。そこには人を寄せつけない空間ができていましたね。その素振りの様はラケットと長谷川の肉体が一体となる作業に見えましたよ」と一気に話し、一息入れた後に「長谷川はひとしきり振ると、体育館の周りをランニングし、また素振りをする、といったことを何回も繰り返していましたよ」と興奮さめやらぬように、そのときのことを思い出すような顔で話した。
そして「ラケットと一体となって素振りをしている長谷川を見て、試合の競り合いの修羅場で、居合抜きのバックハンドをスパッと決めたり、相手のフォア前のサービスをピシッと払ったり、抜かれたなと思った相手のスマッシュを飛び込みざまにロビングで拾う、長谷川のプレーの秘密がわかりましたね」と、長谷川のロビングのスイングの真似をややオーバーに、ゆっくりとしながら話した。
引退後でも、その素振りの気迫の凄まじさは衰えなかった。松崎杯で、何度か長谷川と模範試合をした斎藤清は、「試合前に長谷川信彦さんの素振りを見ると、戦う気力が殺(そ)がれるから見ないようにした」と語ったのだ。当時全日本チャンピオンで、しかも全日本選手権大会最多優勝の斎藤でさえ、長谷川の素振りには戦う気力を殺がれたのだ。
また元明治大学監督の渋谷五郎は、学生に素振りを見せてやってほしい、と長谷川にお願いした。翌日「長谷川の素振りを見て、一瞬背筋がピーンとなった。宮本武蔵の剣の素振りもこのようだったのだろうな、とすごく感動しましたね。本物は違うね」と語った。
長谷川の素振りやシャドープレーに関する伝説は数え切れないほどある。
輝かしい記録を持つ長谷川も、その道のりは決して成功続きの卓球人生ではなかった。「自分の卓球人生は、負ける度に強くなっていった。大きな挫折を味わい、その度に大きくなっていった。とにかく人が好きで、卓球人が好きだった。日本という国も好きだった。愛国心があった。そういう気持ちがあったからこそがんばれた。周りから見たら、人一倍強い精神力を持っているように見えたみたいだけどね。卓球をやっていてよかったと思うのは、相手を尊敬することがいかに大事か、謙虚な気持ちを持つことがどれだけ大事かがわかったことだね」。常に対戦相手を尊敬していたからこそ、18歳という若さで全日本チャンピオンに輝き、20歳にして世界チャンピオンになったのだろう。そして「感謝の気持ち」をとても大切にしてきた。自分を命がけで応援してくれた家族、特に両親には常に感謝の気持ちを感じながら卓球に打ち込んできた。タマスに入社してからは毎月の給料の半分を、手紙を添えて実家に仕送りしていた。
長谷川信彦の誕生
長谷川信彦の父一雄は1932、3年ごろの全日本東西対抗戦の西軍副主将であり、名電工高(現愛工大名電)卓球部の初代監督でもあった。また、母サチは東海4県新人卓球選手権大会で優勝、という輝かしい記録を残している。そんな両親のもと、6男1女の末っ子として1947年、愛知県の瀬戸市に生まれた。
そのころ、長谷川家は戦後のインフレの影響で家計は楽ではなかった。戦争が終わって間もないころで日本全体が貧しく、着るものにも食べるものにも困る時代であった。
父は、瀬戸窯業高校の英語の教師で、夜には名電高校の教師をする、という忙しさであった。また、母も夜遅くまで編み物の内職を続け、家計を支えていた。
そんな中でも、父は1950年愛知国体の一般男子の優勝監督、同年の名電高校全国制覇の監督となった。
地元の卓球大会に両親や兄たちが出たとき、母が試合をする台の横に、赤ん坊の信彦が転がされ、卓球を見ていた姿が、兄弟たちの目には今でも鮮明に焼き付いているという。戦後の大変な時代で、生活に追われながらも長谷川家は家族全員が卓球に熱中していた。両親は学業成績にはうるさいが、卓球をしていれば機嫌が良かった。
信彦が3歳のころ、父は家計の足しにしようと、名電高校の夜間授業がない日に、自宅で塾を開くことにした。このとき、生徒集めのために、2階の8畳2間をぶち抜いて卓球台を置いた。
そのころちょうど、中学3年生の長兄と1年生であった次兄がその卓球台で毎日のように卓球をする姿を見ていたのが、幼い日の信彦と卓球の出合いであった。
実際にボールを打ったのは小学校1、2年生のころ、家で友達とやったのが最初である。
このときはまだ背が低かったため、打つときは毎回サービスのときのように、自分のコートにワンバウンドさせてから相手のコートに入れるというやり方で、それは卓球というよりも、「卓球ごっこ」のようなものであった。独特の一本差しグリップはこのときの癖からでもある。
経済的に苦しかった長谷川家では、子どもたちは決められた手伝いをやらなければならなかった。当時、自宅は57畳の借家で、それに広い土間や板の間がついていた。
7人の兄弟たちは、毎朝そこを掃除することが日課であった。きちんとやっていないと、やり直しをさせられたという。信彦は買い物や母親の内職の編み物を手伝ったりすることが多かった。
小遣いは一切なく、おなかが減っても買い食いはできず、いつもガマンばかりであった。
しかし、このような少年時代の苦しい家庭環境が、かえって良い影響を与えたようである。
一つは、家の手伝いをする中で、粘り強さや集中力といった精神力が鍛えられた。卓球教室でも子どもたちには、「家の手伝いをしっかりやらないと世界チャンピオンにはなれないよ」とよく話をする。
二つ目はお金の大切さがよくわかったことである。高校時代にも、使う金額は同級生の3分の1くらいですんだという。それは同時に、懸命に働き、自分を育ててくれた両親への感謝の気持ちにも結びついた。
一方で、末っ子だった信彦はとても甘えん坊でもあった。小学校2年生のとき、父が過労で入院、同じ時期に母親も無理がたたったのか腎臓病で同じ病院に入院することになった。甘えん坊の信彦は「ぼくも入院したいなあ」と言っていたのが、何と盲腸炎になってしまい、念願かない本当に親子3人の入院となった、という笑い話もある。
信彦は体力的に決して恵まれていた方ではなく、むしろ劣っていた。かけっこをしても、高跳びをしてもビリだった。しかし馬跳びや飛び込み前転といったような遊びは得意だった。体力がないのにこれを得意としていたのは、誰にも負けない度胸と勇気を持ち、そして何よりも、大の負けず嫌いであったことが理由だろう。闘争心も強く、よくけんかもやり、小さな怪我(けが)は日常茶飯事であった。
小学校4年生になると、学校のクラブ活動で卓球を始めた。後に次兄からシェークハンドのラケットを与えられ、それを使って卓球をするようになった。
信彦はそれまで卓球に一番熱心だった長兄や次兄とは年が離れていたせいか、兄弟たちからは直接技術的な指導を受けたことはなく、このころのフォームは自己流だった。鷲(わし)が翼を広げたように、両手を大きく使ったフォームだったという。
信彦は技術について、習うことより他の選手から盗むことの方が多い卓球人生だった。 その後一家は愛知県守山市(現在は名古屋市)に引っ越したが、転校先の小学校には卓球クラブがなく卓球は続けられなかった。
そして、中学校に入学した信彦は、ある重大な選択を迫られることになる。
(2002年7月号掲載)