歴史クラブへ
中学校に入学した信彦は自分の将来を真剣に悩んだ。
「両親は大変な苦労をして自分たちを育ててくれた。大きくなったら、早くたくさんお金を稼いで恩返しをしたい。そのためにしっかり勉強をして、いい大学に入って、いい会社に就職しよう。そうすれば、お金も稼げて、恩返しができる。卓球は勉強の邪魔になるからやめてしまおう」
そう考えた信彦は卓球部には入らず、1つ上の兄(五男)と同じ歴史クラブに入り、しっかりと勉強することにした。
「卓球は大好きだし、それでお金を稼げたら一番いいに決まっている。でも、自分は体も小さいし運動能力だってないじゃないか。こんな自分ではとても一流選手になって、お金を稼ぐことなんてできないだろう」
信彦は中学2年生になっても、身長は138センチしかなかった。相変わらず運動オンチで、このころでも100メートル走のタイムは18.2秒、垂直跳びは30センチしか跳べなかった。
「いやぁ、体力は運動能力は低かったですね。それでも負けず嫌いだったから、体育の時間に高跳びのときなど、後に跳ぶ選手がバーに少しでも触れると落ちるようにしておいたものですよ」
と現在の長谷川は笑って話す。
目指すは一流大学
兄たちも卓球好きではあったが、よく勉強し大学も長兄は名古屋大学、次兄は東京大学といった一流大学に通っていた。信彦もそんな兄たちに倣い、勉強をしっかりやり、一流大学に進もうと考えたのだ。
中学に入学して初めの1学期間、信彦は卓球からはすっかり遠ざかり、一流大学を目指すべく、とりあえずは勉強中心の生活を送っていた。しかし思わぬところで再び卓球と出合うことになる。中学生になって最初の夏休み、信彦は勉強を教わるために、東京大学に通う次兄(現在同大学卓球部監督)の寮へ泊まり込みで行くことになった。
ほとんど朝から晩まで、兄に言われるがままに机に向かい、問題集を解いたりして勉強ばかりの生活だった。ところが、あるとき突然「信彦、卓球やろう」と兄に誘われたのだ。大学の卓球部に所属していた兄にしてみれば、練習相手にはならなくても、とりあえず球を打つ相手がほしかっただけなのかもしれない。軽い気持ちで信彦を誘ったのだった。
信彦にとっては久しぶりの卓球だった。誰もいない体育館に響く球の音、ラケットで球を打つときの手に伝わる打球感、そしてラリーを続ける楽しさ。信彦にとってすべてが心地良く感じられた。まさにそれは「天にも昇る気持ち」だった。
それから毎日信彦は、勉強の合い間に兄と1日1時間だけ、体育館で卓球をすることになった。いつも昼の11時ごろ、兄から「卓球やろう」と誘われるのが待ち遠しかった。東京にいた数週間、毎日その1時間が楽しくて仕方がなかった。
そうして、勉強をしに行ったはずの東京で、再び卓球の魅力に取りつかれてしまったのである。
同時に信彦は、自分が勉強に向かない、ということもはっきりとわかった。卓球のためならどんな苦労でも、耐えられる自信はある。でも勉強はまったくだめだ。机に向かっていても自然と頭は卓球のことを考え、気がつくと、ラケットを持って、素振りをしている。「卓球がやりたい、卓球がやりたい」。信彦の頭はそのことだけでいっぱいになった。「俺は卓球が好きだ」そうはっきりと意識したのだった。
絶対に一流選手に
新学期が始まり、11月になると、信彦は卓球部に入部した。ただ漠然と、練習をして強くなろう、と思うだけではなかった。「将来絶対に一流選手になるんだ。そして家族に恩返しをするんだ」という決意を固めたのだ。
「自分は運動能力が人よりも劣る。それだったら人の2倍、3倍のトレーニングをすればいいじゃないか。努力すれば運動能力なんて、後からついてくるものさ。今は他人よりも、劣っているかもしれないが、すぐに追いつき、追い越してやるんだ」
そう思った信彦は、毎日学校に早く行き、40メートルの急な坂で、うさぎ跳びやダッシュでの駆け上がりを3~4度やり、学校の周りおよそ2キロをランニングした。午後は腕立て伏せや腹筋などのトレーニングを30分はやるようになった。
「それに一流選手になるためには、フォームも一流でなくちゃいけない」
だが、信彦の通う中学校の卓球部には、コーチなどいない。そこで、信彦が一番に考えたのは一流選手のフォームを真似(まね)することだった。真っ先に手本にしたのは、松崎キミ代選手(1959、1963年世界チャンピオン)のフォアハンドだった。体全体を合理的に使う松崎選手の美しいフォームは、信彦の理想であった。ラケットケースには『卓球レポート』に載っていた松崎選手の4枚の連続写真を入れて、何度も何度も見て研究した。そして夜には、家の窓ガラスの前で素振りをしては、そこに映る自分のスイングを見て、『卓球レポート』に載っている一流選手たちの振りと比べ、その違いを直していった。
「何としても一流選手のフォームを身につけるんだ」
それだけをひたすら考えて、毎日毎日素振りを何百回も、ときには千回以上もやり、フォームの研究を繰り返した。
「だんだん松崎選手のフォームに似てきたぞ。俺はなんていいフォームをしてるんだ」
素振りをしているうちに、いつしか自分のフォームに酔いしれるようになっていった。そうなると、ますます素振りにも熱が入るようになった。
「よし、次は太田選手(当時日本大、ループドライブの名手)のループドライブのフォームを研究しよう」
研究熱心な信彦は松崎選手だけでなく、他の選手の様々な振りを研究し、いいものはすべて自分のものにしようと、毎日毎日素振りを繰り返した。『卓球レポート』がボロボロになってしまうまで、何度も何度も繰り返し見比べた。そうやって信彦は次第にきれいなフォームを身につけていった。
信彦にとって幸いなことに、両親は仕事が忙しくきょうだいも大勢いたため、末っ子の信彦にかまっている暇はなく、勉強をしなくなってもしかられるようなことはなかった。
限られた練習時間で
学校で実際に台について球を打てるのは昼休みに20分、放課後に1時間ととても少なかった。
それにもかかわらず、信彦はぐんぐん力をつけていった。特に当時日本で大流行していたループドライブが大好きで、練習時間のほとんどを割いていた。ドライブの威力は部内でも群を抜いていた。2年生になると部内では彼のドライブを取れる者はなく、試合をやっても誰1人として勝てなかった。ボールを打ち時間が少なくても、素振りをたくさんやっていたおかげで、短期間でここまで強くなったのだ。
こうなると、もともと好戦的な性格だったこともあって、他の中学校によく1人で練習試合をやりに行った。日曜日には自転車をこいで、隣の町の中学校まで行くこともあったという。
しかし部内で一番強いとはいっても、公式戦ではあまり勝てなかった。個人戦でせいぜい地区大会の2~3回戦止まりだった。結局、信彦は中学時代を通して対外試合で目立った成績を残すことはなかった。
それでも信彦は、自分は一流選手になるんだ、という思いを持ち続けていた。
「確かに今は試合で大して勝つことはできない。でも今一番大事なのは、一流選手になるための基礎を身につけることだ。今しっかりと、いいフォームを身につけておけば、必ず将来には一流選手になれる。5年後ぐらいまでには立派な選手になるんだ」
後の長谷川の成績を見れば、この考え方が正しかったことは明らかであろう。卓球を始めて早い段階で、正しいフォームを身につけて、合理的な体の使い方を体で覚えてしまう。さらに、体力トレーニングもたくさんやり、基礎体力をしっかりと鍛える。そして試合の勝ち負けは、あまりこだわらずにやるのだ。
このようなやり方は今から思えば正しい方法だったと言えるが、中学生のころからここまで強い信念を持ち、それをやり続けた精神力は、やはり人並みはずれたものであったと言えるだろう。正しいフォームと、基礎体力。この2つが現役時代を通じて、長谷川の卓球を支えたのであった。もちろん人一倍卓球が大好きだったことも、卓球を始めたときから、長谷川の心を支え続けていた。
名電高校に行きたい!
「自分は卓球が大好きだ。将来は絶対に一流選手になってやる」
そう思いながら練習に励んでいた信彦だったが、高校進学時に大きな問題があった。
信彦は一流選手になろうと決心したときから、高校は日本一練習が厳しいと言われていた名電高校(名古屋電気工業高校)に行こうと決めていた。もともと父が同校卓球部の初代監督だったし、兄がたびたび練習に行っていたりしていたこともあり、名電高校のことはよく知っていた。父はかつて名電高校を優勝させた監督であり、当時校長だった後藤鉀二氏と大変親しかった。
しかし、家計が苦しかった長谷川家では、高校は県立高校以外は許されなかった。学費が高い私立の名電高校へ通うことは無理だったのである。もともと親孝行だった信彦は、家計のことを考えると自分が名電高校に行きたい、などとはとても言い出せなかった。
「俺は卓球が大好きだ。その気持ちは誰にも負けない。卓球のためだったら、どんな苦労もする。絶対に一流選手になって、お父さんやお母さんに親孝行できる」
「でも、両親に苦労はかけたくない。今のうちの家計では県立高校じゃなくて名電にいきたいだなんて絶対に言えない」
信彦の心の中では2つの気持ちが激しくぶつかっていた。そしてそんな複雑な心境で受験した県立高校の入学試験で、信彦は不合格となってしまった。信彦はとてもショックだったが、同時に別の考えが頭に浮かんできた。
「県立高校に落ちたのは残念だったけど、これでもしかしたら名電高校に行かせてもらえるかもしれない」
そこで信彦は、自分が本当に行きたかったのは名電高校である、ということを初めて両親に打ち明けた。
「どうしても卓球がやりたいんだ。卓球で一流選手になるためだったら、どんなに苦しい練習でも耐えていける。どうか名電高校に行かせてほしい」
そう言って両親にお願いしたのだ。そのときは両親もすぐに首を縦には振らなかった。だが、もう県立高校の試験には落ちてしまっているのである。
信彦の強い願望を聞き、両親は信彦を連れ、3人で名古屋電気高等学校の校長室へ、後藤鉀二を訪ねた。そして父は
「息子を名電高校に入れてもらいたい」
と、頭を下げた。
ところが信彦は、県立高校を受け、名電高校の入学試験を受けていない上に、中学時代に卓球ではほとんど何の実績もない。いくら父が親しいとはいっても、すんなりと入学を許可してもらうことはできなかった。それどころか、中学時代に実績もなく、入学試験を受けてすらいないことから、後藤氏からかなり厳しい言葉をかけられ、さんざん馬鹿(ばか)にされてしまったのである。
その夜家に帰ってから、父は信彦にもう1度尋ねた。
「どうする、あれだけ馬鹿にされても、そんなに名電高校に行きたいか?」
母は自分の息子が馬鹿にされたことで、非常に腹を立てていた。
信彦は涙を流した。
「自分は忙しい父や母に余計な苦労をかけさせてしまったんだ。それだけでなく、恥をかかせてしまった。家計が苦しいんだから、自分だけ名電高校に行きたい、なんていうわがままを言うわけにはいかないのかもしれない。それでも、とても申し訳ないとは思うけど、どうしても、どうしても自分は卓球がやりたい。卓球が大好きなんだ」
涙を流しながら両親に頭を下げて言った。
「俺はどうしても名古屋電気工業高校に入学して、卓球がしたいんだ」
父も、信彦の熱意を感じたのだろう。少し間をおいてから、1人で校長のところへ行って「息子をお願いします」と頼み込んだ。
後藤氏も初代監督の息子であるという義理もあったからか、信彦の入学を許可することにした。晴れて信彦は名電高校に入学することができたのである。
喜びが込み上げてくる中で、
「父があれだけ頭を下げて名電高校に入ることができたんだ。いや後藤校長に拾ってもらったようなものだ。がんばって練習して、一流選手にならなくては両親に申し訳ない。よし、絶対に強くなってやるぞ。強くなって両親や後藤校長に恩返しをしよう」
と、信彦は誓った。
「グリップを直せ!」
当時、名電高校卓球部には規則があり、レギュラーになるためにはみな寮に入らなくてはならず、当然信彦も寮に入ることになった。入寮したときには先輩たちも親切なうえに、きょうだいが大勢いたせいか、信彦自身、もともと集団生活が大好きで、これからの寮での生活が楽しみで仕方がなかった。
ところが、名電高校で最初の練習のときだった。先輩からまず言われたのは「何だ、その変なグリップは。早く直せ」。信彦が卓球を始めてからずっとやってきた、一本差しグリップを突然「直せ」と言われたのだ。
当時、そもそもシェークの攻撃型の選手は数少なく、シェークの一本差しグリップなど、誰も見たこともなかったのだろう。卓球を始めたときから自己流のグリップでやってきた信彦にとってはそれが自然だった。それでも信彦は仕方なく、とりあえず標準的なグリップにして練習を始めたが、手に全然力が入らない。これでは得意のドライブも打つことができない。
さらに、最初にやらされた練習はフットワーク練習で、これまた今までドライブの練習ばかりしていた信彦は、まったくやったことがなかった。当然のことながら、先輩の球のスピードにまったくついていけずに、ミスばかりだった。
「精神棒」
そのころ名電高校卓球部には「精神棒」というものがあった。ノータッチか、3本連続でミスをするとそれで尻をたたかれるのだ。ミスばかりの信彦は何度もそれでたたかれ、ついに「長谷川、お前はもういい。そこで素振りのフットワークをやっていろ」と言われてしまった。
要するに、ボールを打ってもラリーが続かないから、壁の前でシャドープレーをしていろ、ということだった。壁の前には、80センチから1メートルくらいの間隔で、チョークで2本の白線が引かれてあり、それを飛び越えるようにして左右に動く練習をするのだ。
それから信彦は毎日毎日、壁の前で何百回、何千回とそれを繰り返した。シャドープレーとはいえ、少しでも気を抜いて、フォームがくずれたり、動きが悪くなったりしたら容赦なく精神棒でたたかれた。
長谷川は語る。
「その練習はものすごく辛かったね。そのころは毎日練習が始まって、『長谷川、素振りのフットワークをやれ』、そう先輩から言われると、これからまるで地獄に行くような気分になったね。嫌で嫌で仕方がなかったよ。でも今にして思えば、素振りのフットワークをやったことが自分の卓球にとって、ものすごい財産になったね」
シャドープレーが終わると、また台についてフットワーク練習である。ここでもラリーは続かず、精神棒でたたかれてばかりだった。
それだけでなく、入ったばかりのときと違い、合宿所でも先輩たちは厳しかった。礼儀や言葉づかい、さらに掃除や洗濯などの雑用もしっかりやらないと先輩から厳しくしかられた。しかも、誰か1人でも失敗をした者がいると、全員がしかられるのである。
梅雨になると先輩のユニフォームが洗濯しても乾かない。そんなときは、寝るときに布団の下にユニフォームを敷き、自分の体温で乾かした。
そんな辛い生活の中で、入学時には7人いた1年生が、3カ月後には信彦を入れてたったの2人になってしまった。信彦自信も夜中に1人布団の中で泣きながら、もうやめて家に帰りたい、と思うことが何度もあったという。
(2002年8月号掲載)