ペンホルダーが絶対とも思われていた時代に、シェークハンドオールラウンド型という自分だけの戦型を選んだ大川とみ。自分に最も合った卓球をするために常に研究を続け、ペンカット型、ペン攻撃型、シェークオールラウンド型と進化していった。
体力的にも環境的にも決して恵まれてはいなかった。しかし、「卓球が好き」という思いで常により合理的な卓球を目指した探求者は、日本女子で初めて世界の頂点に立った。
日本女子で初の世界チャンピオン
1956(昭和31)年4月11日は日本卓球史上に記念すべき日である。日本卓球界から初めて、女子の世界チャンピオンが誕生したのだ。
大川とみ。右利きシェークハンドで、攻撃的なプレーをしつつカットを引くこともできるオールラウンド型だ。その独特なプレースタイルは日本の卓球を象徴するものではなく、世界の卓球界においてさえ異端と言えるものだった。
ペンホルダーが日本のお家芸であり、シェークハンドはあくまでも亜流だった時代である。さらに世界を見渡しても、シェークハンドと言えばカット主戦型ばかりだった。シェークハンドで攻撃をするという戦型は、日本のみならず世界においても独特なものだった。
日本女子で最初の世界チャンピオンは、なぜそのような戦型を選んだのか。これからつづる物語は、1人の卓球選手の探求の軌跡である。
心臓にハンディを持って
1932(昭和7)年2月26日、茨城県水海道市に、1人の女の子が誕生した。後に卓球の世界チャンピオンとなる大川とみである。大川は、サラリーマンの父・勝三郎と母・むらの下で、7人きょうだいの次女として育った。
幼少のころは虚弱な子どもだった。身長が低くてやせていただけでなく、生まれつき心臓が弱く、少しの運動でも胸が苦しくなってしまったのだ。いわゆる運動神経は人並みだったが、体が弱いためにスポーツとは縁が薄く、将来スポーツ選手になろうとは誰にも想像できなかった。
1938(昭和13)年4月、大川は上郷小学校(国民学校)に入学した。体の弱い大川にとって1番つらかったのは、お昼前の4時間目にある体育の授業だった。
「はい、グラウンド1周したら終わり―」
体育の授業の終わりには、必ず先生のこの号令がかかる。大川もみんなと一緒にグラウンドを走るのだが、その後が大変だった。
心臓の動悸(どうき)はいつまでも収まらず、こめかみはずきずきと痛み、気分が悪くなって動くことができない。じっとしゃがみ込んで、体が回復するのをひたすら待つ。そして、ようやく動けるようになるころには昼休みが終わり、昼食を食べることもできなかった。
「お母さん、ごめん」
弁当を食べなかったことで母親を心配させないよう、帰り道に弁当の中味をこっそり捨てた。
学校の一大行事として盛り上がる運動会は、毎年見学していた。体育の授業はなんとか受けられたものの、太陽の下で1日中運動するには、大川の体はあまりにも弱かったのだ。
虚弱な体に、強い心
虚弱な体に似合わず、大川は反骨心の旺盛(おうせい)な子どもだった。理不尽なことが嫌いで、まっすぐな心を持っていた大川は、そのためにいじめにあうこともあった。
小学2年生のころである。この日の算数の授業は、九九の暗唱だった。
「六の段ができる人は手を挙げて」
先生の言葉に大川は手を挙げ、指名されると張り切って答えていった。
「六一がろく、六二じゅうに、六三...」
だが、すらすらと答える大川に対して、おもしろくないと感じている子どもがいた。勉強も運動も常に1番で、いつでも取り巻きを従えたクラスの女王的存在である。女王の機嫌を損ねないことが、クラスの暗黙のルールだった。無垢(むく)な大川は、そのルールに気づいていなかった...。
「私より先に答えるなんて生意気。絶対に謝らせてやろう」
翌日から、大川はいじめの対象になった。
しかし、女王たちの思惑に反して、大川はちっともこたえていないようだった。休み時間にトイレに閉じ込められても、授業になればさっさと席に戻り、けろっとした顔で授業を受けている。謝りもせず、泣きもせず、告げ口もしない。大川はただ、こう思っていたのだ。
「別に悪いことをしたわけじゃないのに、変なの。私はあの人たちにへつらう必要なんてない。勉強がちょっとできたくらいでいじめられるなら、ちょっとじゃなくてうーんとできるようになってやろう」
そして、大川は本当に周りの子どもたちよりずっと勉強ができるようになった。
大川は語る。
「理不尽なことをされると、落ち込むのではなくて逆に燃えてしまうんです。理不尽なことには我慢できなくて、実力で見返してやろうという気になる。勉強でも、卓球でも」
理不尽なことには毅然として立ち向かう。小さくてやせている上に心臓が悪いという大川だったが、そんな外見とは裏腹に、芯(しん)の強い子どもだった。
戦火の日々
小学4年生のときに家の事情で転入した三妻小学校を1944(昭和19)年3月に卒業すると、大川は水海道高等女学校に入学した。高等女学校と言えばエリートコースであり、優秀な同級生たちとともに勉強に打ち込めるはずだった。
しかし、大川が入学した1944年は折しも太平洋戦争が最も激化したころ。学校で授業は行われず、女学生たちは「お国のため」と勤労奉仕に動員された。
水海道市は、結城紬で有名な結城市と地理的に近い。そのため、農家では養蚕が盛んで、勤労奉仕の女学生たちは、蚕の世話を割り当てられた。
桑の葉の上に幼虫がびっしり並ぶ。その幼虫が糸を吐き始めたのを見計らって、別の棚へ手で移していく。幼虫を手で触れたときのぐにゃっとした感触は少女たちにとってたまらなく気味の悪いものだった。
大川も毎日養蚕の手伝いをした。朝から晩まで、幼虫を棚へと移してく。
「うう、気持ち悪い。こんな虫に触るくらいなら死んだ方がましかも...」
そんなことを思いながら、幼虫に触れている時間を一瞬でも短くしようと、さっさと運ぶ。すると、
「いい手つきだ。そうやると蚕が傷まない」とほめられ、ますます仕事が回ってくる。カエルもトカゲも触れない少女が、蚕の幼虫を手で運ぶのだ。たまに養蚕から解放されて田畑の手伝いに出されても、今度はもっと気味の悪いヒルに吸い付かれる。散々な毎日だった。
さらに、農村地帯の水海道市でも空襲があった。子どもだからと容赦されることはなく、むしろ日本軍の後継者を絶やそうと子どもが狙われた。大川たち女学生は、真っ暗な防空壕の中で震えるだけだった。
卓球との出合い
戦争は、ある日突然終わった。1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎えた。
終戦とともに女学校では本格的な授業が再開された。しかし、戦争中だった昨日までと180度違うことを教える教師陣に、大川は戸惑いを感じた。昨日まで禁止していた英語を教え、昨日まで奨励していた戦争を否定する。感受性の強い少女時代である。大川の戸惑いは不信に変わり、本格的に勉強に身を入れる前に、違うものと出合ってしまった。スポーツである。
大川がスポーツと出合ったきっかけは、校医の一言だった。身長が低く、やせて顔色の悪い大川を見て、校医はこう言った。
「この子に何でもいいから運動させてください。でなければ、駄目になる」
そこで、大川はテニスを始めた。もともと体が弱いため、団体競技はみんなに迷惑がかかるから、個人競技をやろうと考えての選択だった。
しかし、炎天下の屋外で行うテニスは、大川の体には過酷だった。体力が続かずに卒倒してしまう。もう少し軽い運動で、屋内でできるものはないだろうか...。
大川は卓球に転向した。
大川は気動車(ディーゼルエンジンを動力とする鉄道車両)で通学していたが、登下校時は混み合うため、なかなか乗ることができない。わずか2両ほどの編成であり、いつもすし詰め状態だった。
「どうせ乗れないから、少し待ってから帰ろうよ」
気動車を待つ間の時間つぶしに、友人たちと遊んだのが卓球との出合いだった。
学校の体育館には卓球台が2台あった。しかし、それは小さな子ども用の卓球台で、正規のものより台の面積が狭い。板きれを調達してくると、正規のサイズになるように継ぎ足した。つぎはぎだらけでデコボコの卓球台が完成した。
「よーし、できた、できた」
大川たちは大喜びで打ち始めた。継ぎ目に当たるとボールは思わぬ方向に飛ぶが、あえて継ぎ目を狙う。
「わ、またイレギュラー」
「へへーん。狙ったんだよ」
大はしゃぎだった。戦後の何もない時代に、卓球は大きな喜びを与えてくれた。卓球台のサイズを直すと、今度は割れたままの窓ガラスを自分たちで修繕したり、床中に残された軍用の物資を片づけたりと、精力的に働く。大川たちは着々と環境を整備していった。
当時は、用具も十分にあるわけではない。ラケットはベニヤのおもちゃで、ラバーも貼られていない木のままだった。しかし、大川たちにとっては、とても大切な宝物だった。ボールも非常に貴重で、へこんでしまったときは何度でもお湯で温め、もう1度膨らませて使うのだった。
「卓球が体に合っていたのかもしれません。何が魅力かっていうと、あの音。ピーンポーンピーンポーンというリズム感と音に、とても魅力を感じました。それでやみつきになってしまいました」
用具も環境も十分ではなかったが、至福な時間だった。
1人目の師 清水博との出会い
大川は卓球人生の中で、3人の人物に師事した。清水博、綿引龍英、矢尾板弘、の3人である。
「清水先生には精神的な基本やスポーツマンとしてのあり方を教えてもらいました。清水先生は精神的にしっかりしていて、スポーツマンはこうあるべきだという見本のような人でした。綿引先生には近代卓球を教わりました。カットではなくロングで戦うプレースタイルを学んだのです。矢尾板先生には理論を教わり、最後の仕上げをしていただきました。それぞれの先生からそれぞれのことを教わり、そういう意味で私はすごく恵まれていたと思います。どの先生も卓球が大好きで、私はそれぞれの先生からそれぞれの良いところをもらうことができました」
大川が1人目の師・清水博と出会ったのは、卓球を始めて間もないころだった。
戦争が終わると、満州から次々と人々が引き揚げてきた。その中に、戦前は大学でプレーしていたという1人の人物がいた。清水博である。
清水は近隣の学校を訪ね歩き、子どもたちに卓球を教えた。戦後の厳しい世の中だったが、清水が教える卓球は子どもたちに明るい笑顔をもたらした。そんなふうに清水が訪ね歩いた学校の1つが、大川が通う水海道高等女学校だったのである。
清水のプレースタイルは、ペンホルダーのカット主戦型だった。そこで、大川は見よう見まねで、ペンのカット主戦型を目指した。
目標とすべき師を得て、大川は卓球に熱中した。もちろん、初めは清水のようにきれいなカットなどできない。ボールが浮いたり、どたばたと格好の悪い動きをしたり、清水のプレーとはほど遠いものだった。しかし、「とにかく相手のコートに入れよう」「相手より1本でも多く返そう」という気持ちでボールを追った。そうするうちに、相手にミスが出る。
「なんとかつないでいれば、相手がミスしてくれる。それまで粘ろう」
それが大川の戦術のすべてだった。
頭を使え
後の世界チャンピオンといえども、卓球を始めたばかりのころの大川は決して強かったわけではない。それどころか、運動が苦手でラケットを握ったこともない初心者に負けていたのである。
女学校の同級生に、勉強はとにかくよくできたが、運動はからっきし駄目な女の子がいた。とにかくスポーツは苦手で、運動会などはいつもビリ。そんな子がある日、大川に声をかけてきた。
「卓球やらせて」
「じゃあ試合しよう」
初めてラケットを握った初心者と、卓球歴1カ月の大川との試合が始まった。
豪快に攻める大川に対して、相手はどうにか受けるだけ。しかし、結果は大川の敗北だった。
「相手は完全な初心者。私が負けるはずがない」
そう思った大川は、とにかく攻めた。普段は守備が身上のカット主戦型だが、この日は体勢が崩れても攻め、攻撃しても入らないようなボールまでむきになって攻めた。ムチャなプレーをして、ミスの連続。1カ月とはいえ卓球経験のある大川が、何もできない初心者に敗れたのだ。しかも、人一倍運動が苦手だという相手に...。大川はがっくりと肩を落とした。
「やーい、やーい」
落ち込む大川に、勝った同級生がはやし立てる。さらに、彼女は自分の頭を指さしてこう言った。
「やーい。ここだよ」
頭...。
「ここを使わなきゃ。ここ、ここ」
敗北の苦しさをかみしめながら、大川は思った。絶対に、卓球は頭だ。技術を習得するだけじゃなくて、頭を使うことが大切なんだ。
このときを境に大川は変わった。それまでは漫然と打っていただけだが、自分の頭で考えるということを学んだ。試合では、勝っても負けても反省をした。どうして勝てたのか、どうして負けたのか、この次に試合するときはどういうプレーをすればいいのか、そのためにはどんな練習をすればいいのか...。
自分の頭で考える。大川のこうした姿勢は、技術レベルが向上していっても変わることはなかった。
「自分の頭で考えるということは、技術がうんと下のときでも、ハイレベルになっても、同じように必要なのです。私は、人に言われるままに試合したことはありません。ベンチコーチにアドバイスを受けても、『確かにその通りだ』とか『それよりこうした方がいいんじゃないかな』とか、自分でもしっかり考える。そして、実際にプレーしながらも考えて、臨機応変に戦術を変えていく。私はそういうふうに自分の卓球を培いました」
大川のこの姿勢は、世界チャンピオンになるまで変わることはなかった。それどころか、世界チャンピオンになった後も、現在に至っても、その姿勢は変わらない。自ら探求し続けるという姿勢は、大川を世界チャンピオンへと押し上げることになるのである。
敵前逃亡!?
自分で考えることを身につけると、大川は県内で頭角を現した。
1947(昭和22)年、茨城県選手権大会女子シングルス優勝。大川は茨城県西南地区の予選を勝ち抜くと、県大会に出場したのだ。それは各地区の代表12人ほどで行われた大会だったが、大川が見事優勝をさらってしまったのである。
「戦後間もないころで、卓球人口がまだ多くなかったからなのでしょう。『今日はラリーがよく続いたな』『やったー、反撃したら決まっちゃった』などと喜んでいるような、そんなレベルの低さでも、県大会で勝つことができました」
当時を振り返って大川はこう謙そんする。しかし、ペンホルダーのカット主戦型という戦型は珍しく、「絶対に相手より1本多く返す」という集中力と、考えながらプレーする姿勢は、同年代の他の選手には持ち得ない才能であった。
茨城県代表となった大川は、金沢で行われた第2回国民体育大会に出場した。初めての全国大会で、初めての旅行。何もかもが新鮮で、胸が高鳴る。しかし、フロアで練習している他県の選手を見たとたん、大川は意気消沈してしまった。
フォアロングのラリーが、軽快なリズムで果てしなく続いている。大川の学校の練習場では、見たこともないラリーだった。
「私とは全然違う。ああいう人とどうやって試合すればいいの」
自分がここにいるのは場違いだ。そんな思いに駆られ、なんと大川は試合前から「帰ろう」と思い始めていた。
(2004年1月号掲載)