1947(昭和22)年、石川国体。大川にとって初めての全国大会だった。しかし、出場者たちの練習風景を目にすると、大川はそのレベルの高さにすくみ上がってしまった。
「こんな人たちとどう試合すればいいのだろう。もう帰ろう」
まだコートに立ちもしないうちに、大川はそんなことを思ってしまった。
...しかし、逃げることなどできるはずがなかった。工面して旅費を出してくれた両親の顔が、大川の胸に浮かぶ。ここで逃げたら申し訳が立たない。やるしかない。
大川はコートに立った。
「仕方がない、当たって砕けろだ」
ところが、予想もしていない事態が起こった。試合が始まると、大川が優勢に立ったのだ。大川の前に立った相手からは、練習のときのあの正確さが消えうせていた。
「あれ、どうしてこんなに弱いんだろう。練習で見たのと同じ人とは思えない」
大川は不思議に感じていたが、理由は簡単だった。大川の方が、常に1本多く返球したからなのだ。
相手は美しいフォームで正確な打球をしているように見えたが、それは一定のコースに一定のボールが来たときの話。一方、大川は普段から「相手よりも1本でも多く返そう」と思って練習していた。どんなコースにボールが来ようと、どんなに体勢が崩れようと、とにかく返す。その成果が試合に表れたのだ。言ってみれば、泥臭い卓球が華やかな卓球を圧倒したのだ。
こうして大川は1回戦を快勝。2回戦で敗れたものの、全国大会での1勝は自信へとつながった。
大川は翌1948(昭和23)年も茨城県選手権大会女子シングルスで優勝し、国体に出場。卓球が楽しい。卓球が好き。そんな思いに突き動かされ、大川は夢中で練習に打ち込んだ。
夏休みは毎日練習
当時、大川たちは常に自主的に練習を行っていた。練習内容も練習日も練習時間も、すべて自分たちで決める。夏休みともなると部員たちはこんな計画を立てた。
「毎日午前9時から夕方5時まで練習。土日も休みはなし」
練習内容は、ほとんどが試合だった。体操やランニングの後に少し基本練習をすると、残りはずっと勝ち抜き戦で、勝った者だけがコートに残ることができる。大川はがんばって勝ち抜き続けたが、それは自分自身を体力的に追い込むことになった。勝ち抜いている限り休憩はなく、夕方には足が棒のようになる。くたくたに疲れて家路についた。
「明日9時に間に合うかなあ...」
大川の不安は的中し、寝坊してしまうことも度々あった。ただでさえ体力がない上に練習の疲れで死んだように眠ると、どんなに起きようと決意しても、起きられない。
「みんなに何て言おう...」
そんな大川をこっそり助けてくれたのは、当時の校長・菅井習であった。
食糧難の当時、菅井は校庭にトマトをつくっていた。そして、夏休み中は、冷やしたトマトを練習熱心な卓球部員に差し入れるのが日課だった。
「あれ、大川の姿が見えない」
毎日差し入れをして卓球部の事情に通じている菅井には、部員の数が足りなければすぐわかる。そんなとき、菅井は駅まで自転車を走らせるのだった。
「校長先生!」
「遅れたな。何て言い訳しようか」
菅井は校医に聞いて承知していた。大川は生まれつき心臓が弱く、体力がないということを。そして、それでも他の部員たちと同様か、それ以上にがんばっているということを...。
「早く後ろに乗った、乗った」
卓球部の練習は体力的にきついものの、部の規律を乱すことはできない。菅井はそんな大川のジレンマを理解し、そっと助けたのだった。大川にとって、それは体力的にも精神的にも大きな支えだった。
部費がない
当時、大川の体力の問題以外にも、卓球部にとってもう1つの問題があった。経済的な問題である。
学校対抗とその県予選、国体とその県予選、関東大会など、大会に出れば交通費や宿泊費がかかる。そして、勝ち進めば勝ち進むほど費用はかさむ。お金が続かずに卓球部をやめる部員も何人もいた。学校から支給される予算もあったものの、1度宿泊すれば1年分の予算がなくなってしまった。
部活動の予算は、通常は部の成績によって決定される。良い成績を挙げれば多くの予算が与えられるのだ。しかし、大川という国体代表選手を擁しているにもかかわらず、卓球部の予算は微々たるものだった。
予算の多寡は、そのまま教師同士の勢力図の表れだった。卓球部の顧問・豊田癸巳雄(現姓・飯田)はまだ若く、卓球はまったくの素人で、控えめなおとなしい性格の持ち主だった。それに引き替え、他の部の顧問は古参で、豪気な人物ばかりである。
「バレー部はもっと増額!」
「バスケ部もだ!」
「卓球部はこんなもんでいいよな」
強引な会議の流れに豊田はさからえるはずもなく、卓球部の予算は雀の涙だった。
「先生、どうして卓球部はこんなに予算が少ないんですか」
成績が悪くて予算を取れないなら話はわかる。しかし、成績を挙げているのに予算を取れないなんて...。若い大川たちは、こうした矛盾に敏感だった。
「先生のせいですよ。先生がおとなしすぎるから」
やり場のない怒りは、豊田にぶつけられた。私たちは一生懸命がんばって成績を挙げているのに、どうして学校で評価してもらえないのだろう。それは、先生がおとなしいせいだ。先生のせいだ。部員たちはみんなで豊田を責め立てた。
しかし、大川たちは知らなかった。部員たちに責め立てられながらも、豊田が何も言わず、卓球部のためにしてくれていたことを...。
大川たちが卒業した後、何年かたって豊田の母親が言ったという。
「癸巳雄、お前はずっと勧めているけど、1銭も家にお給金を入れたことがないね。一体どうしているんだい」
豊田は、会議で部費を勝ち取ることができなかった代わりに、自分の給料を黙って部費に充てていたのだ。「先生のせいだ」となじられながらも、部員たちの成長を信じ、経済的な援助をしたのだった。また、校長の菅井や、茨城県卓球連盟会長の江幡保らも、私財を投じてそれとなく援助をしていたのである。大川が卓球を続けられた陰には、多くの人々の助力があった。
部員たちがそのことを知ったのは、なんと大川が世界チャンピオンになって30年以上が過ぎてからだった。大川は語る。
「豊田先生は、私が世界チャンピオンになったときも決して前面に出ようとはしませんでした。いいときは黙って見守ってくれて、逆境のときにしっかり支えてくれた先生です。自分1人で強くなったわけではないということを、強く感じます」
ライバル
大川には1人のライバルがいた。運動神経抜群で、基礎体力もセンスもあり、常に大川と競い合っていた。
大川とみ、古谷静江。
県大会で決勝に進むのは、ほとんど決まってこの2人だった。2人で組んだダブルスは1948(昭和23)年、1949(昭和24)年と連続で優勝している。
そんな2人の練習を見たある教師が、2人が拮抗(きっこう)しているのを見て言った。
「なんだ、大川はもっと強いのかと思った。新聞にいつも『優勝』と出ているが、古谷と大して変わらないんだなあ。2人ともいい勝負なんだな」
確かにその通りだった。何ゲーム試合しても2人はいい勝負で、得点は2本と離れない。そうした接戦が、1週間も1カ月も1年も続くのだ。毎日が苦しい戦いだった。
この日も教師を前に2人は接戦を繰り広げた。そして、20対20(当時は1ゲーム21本制)になったとき、大川のボールが卓球台の角に当たって大きくそれた。古谷はノータッチ。大川はさらに1本連取し、22対20で勝利した。古谷は苦笑いして言った。
「先生、ほらね、大川さんはいつもこうなの。ジュースになると、必ずネットインかエッジなのよ。それで相手が腐ったら勝っちゃうの」
これは事実だった。ジュースになると、大川のボールは必ずネットインかエッジで相手コートに入るのだ。相手にとってはたまったものではない。毎日こんなことが続いては、古谷も少々むっとするのだった。
「ごめんなさいね」
大川はすまなそうに謝るものの、心の中では違うことを思っていた。
「古谷さんは強い。フォアのサイドの深いところ、その一点に入れなければ絶対に勝てない」
大川は毎日、そうしたせっぱ詰まった気持ちで対戦していた。
「フォアのサイドの深いところ、その一点だけを狙っているのだから、エッジになるのは当り前。その一点に入れる練習を、毎日しているのだから」
毎日が極度の集中力を要する、厳しい競り合いだったのだ。後に大川はこう語る。
「古谷さんとの競り合いがあったからこそ、世界で通用したのだと思います」
「カットはやーめた」
このころ、大川は第2の戦型を選ぶ。きっかけは手も足も出ない敗戦だった。
1948(昭和23)年、全国学校対抗(インターハイの前身)に出場した大川は、1回戦から強豪・浦和第一高等女学校の中村選手に当たった。ペンのカット主戦型だった大川は、常に後ろの方に構えていたが、それを見て相手はフォア側に短いサービスを出した。大川は背が低く、後陣からフォア前ではラケットが届くのがやっと。甘く浮いたレシーブに対し、相手は容赦ないスマッシュを浴びせる。大川は1ゲーム目を2対21で落とした。
ベンチに控えた師・清水のもとに駆け寄ると、大川は言った。
「先生、もっと前に構えます。そうしたらしっかりレシーブできるから、なんとかなると思います」
しかし、清水はそれを認めなかった。当時の考えでは、カット型が構える位置を前にするなど、掟破りもいいところ。カット型として大成させるためには、そんなことは断じて認められなかったのだろう。
そして、同じ展開で2ゲーム目も2対21で落とし、惨敗。
大川は悔しくてたまらなかった。4本しか取れずに負けるなんて、情けない。
「こんなふうに負けるなんて...。もうペンのカット型なんてやーめた」
そして、大川はこう宣言した。
「私は攻撃型になる!」
その日から攻撃の練習が始まった。大川にとって、この戦型転換はとても楽しいものだった。オールフォアで攻撃するその快感は、これまでのカット型とはまったく違った喜びだった。
しかし、カット型の清水は教える目的を失い、大川から去ってしまった。
2人目の師 綿引龍英との出会い
師を失った大川に新たな師を見つけてくれたのは、顧問の豊田だった。豊田には早稲田大学卓球部に知り合いがいた。綿引龍英である。
「綿引、見てほしい選手がいるんだ。とにかく1回見て、素質がありそうだったら教えてやってくれ」
こうして大川は綿引に師事することになった。綿引は週に1度東京から電車に揺られ、水海道市まで大川を教えにやって来る。
「わー、これが近代卓球だ!」
綿引が見せる攻撃卓球に、大川は夢中になった。また、綿引以外にも早稲田大学卓球部の人が交互にやって来ては、大川に攻撃型の卓球を教えるのだった。
こうしてペン攻撃型としての基礎を身につけた大川は、リベンジをもくろんだ。全国学校対抗で、たった4本しか取れずに敗れた中村選手。彼女に、どうしても勝っておかなくてはならない。
「もしもし、水海道高等女学校卓球部の大川と申します。ぜひお手合わせをお願いします」
なんと大川は自ら浦和第一高等女学校の監督に電話し、再戦を願い出たのだ。そして、冬休みを利用して、大川は名門・浦和第一高女の門をたたいた。
浦和第一高女はこの年の全国学校対抗優勝校である。しかし、大川はひるまず、攻撃型として試合した。これには相手も面食らった。8月の大会で破った相手が4カ月後、自分を倒すために戦型を変えて挑んできたのだ。結果は僅差で再び大川が敗れた。しかし、大川に手ごたえはあった。
「次にやったら勝てる」
翌1949(昭和24)年、学制が改定されると、大川は茨城県立水海道第二高等学校へ編入。この年の6月、関東高校選手権大会で2人は再戦し、大川が2-0で勝利したのだ。
このとき、大川は女子シングルスで2位という結果を残した。県大会では数々の勝利を重ねていた大川だが、関東レベルの大会で決勝まで進んだのは、このときが初めてだった。
高校で芽が出なければもう卓球をやめよう
このころになると、大川の目標は県大会や関東大会ではなく、全国に向けられるようになっていた。高校にいる間に、全国でベスト10(当時、ランキングプレーヤーは10人)に入りたい。それが目標だった。
「高校のときにランキングプレーヤーになれなかったら、きっとその後もだめだろう」
そんな思いで練習に励んだ。
しかし、当時は関西の方が卓球が強く、いくら大川が関東で2位になっても、全国では通用しなかった。ましてや「関東2位」は高校生の大会での話であり、一般の部では...。結局、大川はベスト16止まり。ランキング審査委員会でも、ベスト10には選ばれなかった。
だめだった...。
大川の落胆に拍車をかけるように、ある教師が言った。
「君は県ではよく優勝して新聞にも出ているけど、なんだ、全日本だったらベスト8にも入らないのか」
悔しいけれど、その通りだ。事実であるだけに、その言葉は大川に突き刺さった。
大川は挫折を味わった。結局、ベスト10に入ることができなかった。高校で芽が出ないようでは、今後もだめだろう...。
「もう卓球はやめよう」
大川はそう決断した。
楽しむ卓球を
しかし、その決意は長く続かなかった。勝敗は別にしても、大川は卓球が好きで好きでたまらず、やめることなどできなかったのだ。
「そうだ、これからは楽しもう」
そう思い立った大川は、楽しむためにはどうしたら良いかを考えた。これまで、ペンホルダーのカット型と攻撃型をやってきた。じゃあ、今度はシェークハンドをやってみよう。今まで覚えたカットの角度や攻撃の角度も、シェークハンドの方が出しやすいだろう。それに、シェークハンドは両面使えるから体力をカバーできるし、合理的だ。
当時は角度打法が全盛で、ラケットに当てるだけでボールが入る角度を体に覚え込ませることが重要だった。しかし、ペンからシェークに変わったばかりの大川には、その角度が大問題だった。ペンは角度を安定させやすかったが、シェークは手首の自由が利いて角度を出しやすい半面、角度が定まりにくい。毎日、練習を始めて30~40分しないと、自分の思うような角度が出せなかった。
しかし、大川はあきらめなかった。自分だけの戦型を夢見ていたのだ。
相手が打ったら守って、相手が守ったら打つ。それが大川の目指すプレーだった。1人で何でもできるオールラウンドプレーヤー。それが理想だった。
当時、シェークハンドの選手は少ない上にカット型ばかりで、世界を見渡してもシェークハンドで攻撃するという発想は異端だった。が、大川はこれまで、カットも攻撃もできるオールラウンドプレーヤーになるための基礎は築いてきた。本当にオールラウンドプレーヤーとして戦えたら、どんなに強いだろう。夢がふくらんだ。
選手としてプレーすることをあきらめ、これからは趣味として楽しむことにしたはずだった。しかし、自分でも気づかぬうちにより合理的なプレーを探求するその姿勢は、大川にさらなる成長を促していく。
(2004年2月号掲載)