インターハイ
「今年のインターハイでランキングに入ったら、大学に行ってもいい」
高校3年生になった誠治に、両親はそう告げた。この言葉を聞くと、大学へ行って卓球をしたいという意志を持っていた誠治は、インターハイでランキング入りすることを目標として練習に励んだ。
1974年、全国高等学校選手権大会。誠治はベスト8決定戦で熊谷商高の清水に0-2で敗れた。実力の差による完敗だった。しかし、結果としてベスト16に残り、ランキングに入ったことで、自分ではすっかり満足してしまった。
「これで大学に行かせてもらえる」
敗戦にもかかわらず、満足を感じていたのだった。
しかし、後に誠治はこう考えるようになった。
「手の届く目標では、達成と同時に満足してしまう。少し背伸びをして、手が届くか届かないくらいの目標を持った方がいい。そしてもう1つ、先を見据えた大きな目標を持った方がいい」
なぜなら、目標に手が届いたら満足してしまい、それ以上のことはなかなかできず、がんばろうという気持ちになれないということがわかったからである。
おそらく、ランキングに入っても入らなくても、両親は誠治を大学へ行かせてくれるつもりだったのだろう。ただ、目標を持った方がよりがんばれるだろうと、こういう目標を与えてくれたのだ。本当にありがたいことだと誠治は思った。
近畿大学へ入学
「関西の強い大学に行きたい」
誠治は、当時全国1~2位を争っていた近畿大学に進学することを決めた。近畿大学は、誠治の卓球人生の中で最も重要な意味を持つ場所になる。近畿大学は指導者、先輩、競い合う仲間、学校側の理解に恵まれていた。誠治は、その中でも特に近畿大学の職員をしていた高島規郎に大きな影響を受けるようになる。高島は誠治が入学する直前の1975(昭和50)年2月に行われた世界選手権カルカッタ大会で男子シングルス3位に入っており、日本代表として活躍している選手だった。そのプレースタイルと実績から「ミスター・カットマン」とも呼ばれていた。
大学の練習内容はかなり厳しいものだった。朝9時から夕方5時まで規定練習があり、授業は夜に行われた。夜間の学生ではなかったのだが、大学側が配慮して授業を夜にしてくれていたのだ。そして、授業がない者は夜も練習をしていた。
部員は40数名で、練習場には卓球台が3台しかなかった。誠治たち1年生がボールを打てる時間は、午前中は20分間だけ。他の時間はボール拾いか素振りだった。限られた時間の中で、基本練習も応用練習もやらなければならなかった。試合がない時期はフットワークや切り替え練習をし、試合前にはフォアハンドを少し打った後、サービスから3球目攻撃の練習をしていた。
午後からの練習は勝ち抜きゲームだった。1回負けると、次の順番はなかなか回ってこない。1度も試合ができない日もあった。
卓球台と部員の数だけを考えると決して良い環境ではなかった。しかし、こうした厳しい環境だったからこそ、試合での強い精神力や技術を養うことができたのである。
厳しいトレーニング
近畿大学では365日、朝に7キロのランニングがあった。しかも、それはタイムレースで行われた。先輩たちは生駒山まで勢いよく駆け上がっていく。しかし、入部したばかりのころの誠治は体力もなく、ゆっくり上がるのもやっとだった。しかも、1日休めば休んだ分が次の日に繰り越されていくので、休むに休めないという状況だった。
だが、どんなにつらくても誠治はあきらめなかった。残って1人でランニングやトレーニングをし、体力をつけるために励んだ。他の誰よりも遅く帰る毎日が続いた。
近畿大学の同期には、インターハイ2位の森春夫、インターハイ3位の大嶋雅盛、近畿チャンピオンの祭本茂など、強力な面々がそろっていた。
「自分は近大に入ってきた1年生の中で、あまり強い方ではない」
自分のポジションを理解していた誠治は、とにかくがんばってレギュラーを取ろうという気持ちだった。周りには強い選手がたくさんおり、自分はまだまだ弱い。ただただ一生懸命ということが、誠治にはすべてだった。
強い人が練習しているときに弱い自分が先には帰れない
近畿大学の職員だった高島は、仕事を終えて夕方から練習に来ていた。高島が夜遅くまで練習をしている間、誠治はずっとその練習を見たり、ボール拾いをしたり、試合の審判をしたりしていた。
「自分より強い人が遅くまで練習しているのに、弱い自分が先には帰れない」
誠治はそう思っていた。そういうふうに思えたことが、自分が強くなることができた1番の要素だったのではないか...現在の誠治はそう振り返っている。
こんなことが2カ月、3カ月と続いたある日である。
「ちょっと打とうか」
誠治は高島から声をかけられた。高島は誠治にとって雲の上の存在だったので、うれしくてたまらなかった。しかし、そのときもまだ誠治はカット打ちが下手で、高島のカットを3本と返せなかった。それでも、あこがれの高島と練習してもらえるということで、緊張しながらもミスをしないように必死でがんばった。
がんばる気持ちが認められたのか、誠治はその後も高島の練習相手をさせてもらえるようになった。こうして高島のボールを打たせてもらえる機会に恵まれた誠治は、だんだんカット打ちができるようになり、スイングが速くなった。また、変化に対しても対応できるようになったことで、急激に力をつけていった。
ボウズ事件
大学生になってから、誠治は寮で生活をしていた。寮生活では、食事当番は1~2年生の仕事だった。今まで食事などつくったことがない上に、現在のような電気炊飯器やガス炊飯器がなかったので、釜でご飯を炊かなければならない。寮生全員の食事をつくるという作業は、とにかく大変だった。だが、寮で2年間食事づくりをしたことで、誠治は1人で味噌汁やカレーライスをつくれるようになった。そして、母のありがたみを実感したのであった。
何カ月かが過ぎたころ、朝目が覚めて時計に目をやると8時を過ぎていた。「やばい!」と思ったが間に合うはずがなかった。誠治は練習に遅刻し、先輩に散々に怒られてしまった。
「次からは気をつけなければいけない」
誠治は深く反省した...はずだったのだが、昔から朝が弱かった誠治は、夜中まで練習をしていたことも影響し、もう1度同じように寝坊してしまった。1度ならまだしも、2度目は許されない。罰として丸刈りを命じられ、誠治は坊主頭になった。
試合が近づいたころである。前髪にパーマをかけるのが当時の流行で、部員の皆は理髪店に行ってきれいに髪を整えていた。そんなときに悲劇は起こってしまった。3度目の寝坊である。誠治は5分ほど遅刻してしまった。
「寮の1年生全員の連帯責任だ」
先輩のカミナリが落ちた。
寮の1年生の皆は、仕方なく坊主頭になってくれた。このときまだ髪が伸びていなかった誠治は、『ボウズの貸し』ということになった。
本当に悪いことをしてしまった...。誠治は落ち込んだ。決められた時間に起きることができず、皆に迷惑をかけている自分が情けなかった。こんなこともできないようでは、絶対に強くなれない。
「もう卓球をやめよう」
そんな考えが頭に浮かんだ。卓球が嫌になったのではない。自分が嫌になったのだ。本気で卓球をやめようと思ったのは、後にも先にもこの1回だけである。それほど、この事件が誠治に与えたショックは大きかった。
しかし、誠治は卓球が好きだった。卓球をやりたいということで大学に行かせてもらったのに、途中であきらめたら両親に合わせる顔がない。やはり、どうしても卓球はやめられない。誠治は卓球を続けることにした。
デビュー戦
1957年全日本王座決定戦、近畿大学対中央大学。大学1年生の秋に行われたこの試合が、誠治のデビュー戦となった。
全日本王座決定戦とは、関東学生リーグ優勝校と関西学生リーグ優勝校が日本一をかけて戦う大会である(現在は行われていない)。試合は6シングルス1ダブルスで、4点先取した方の勝ちだった。
5番まで終わった時点で、近畿大学は2-3で劣勢。6番、7番を両方取らないと負けてしまうという状況に追い込まれていた。この絶体絶命の場面で、誠治の出番が回ってきた。誠治は6番で出場し、相手は中央大学のエース・山下。「何としても勝って、ラストにつなぐぞ」という思いで試合に臨んだ。
試合は一進一退の接戦となった末、誠治が勝利した。こうして、大事な場面で誠治は白星を挙げ、ラストに回すことができた。次の7番も近畿大学の選手が勝利し、大接戦の末4-3でチームは勝つことができた。
誠治は、秋季関西学生リーグ戦からベンチ入りはさせてもらっていたのだが、試合前のランニング中に足を捻挫(ねんざ)し、試合には出場できなかった。だから、大学日本一を決めるこの大きな大会が、大学に入って初めての試合だったのである。デビュー戦での見事な勝利は、1つのターニングポイントとなった。誠治はこれを機に、よりハードな練習をやり始め、メキメキと力をつけていくことになる。
真夜中の練習
高島は大学の職員だったので、仕事が遅くなるときは、卓球場に来るのが夜の11時ごろになった。高島が卓球場をのぞくと、誠治が1人でサービス練習をしていた。
「小野、帰らなかったのか」
「高島さんが来られると思って、待っていたんです」
こうして、夜の11時ごろから練習をすることになった。3~4時間練習をすると、終わるのは深夜になる。そんな日が1週間に2~3日はあった。
しかし、真夜中の練習は公然と認められていたわけではない。卓球場は大学の施設であり、もちろん夜中は使用禁止だった。夜の11時ごろになると守衛の見回りがあった。
「高島さんとの練習は始まったばかりなんだ。もっと練習させてほしい」
誠治は、見回りの時間になると電気を全部消し、誰もいないように見せた。そして、守衛がいなくなると、また電気をつけて練習した。練習が終わるころには門は閉まっていたので、裏のグラウンドの柵を越えて帰ることが習慣になった。
他の部員たちは誠治が夜中まで練習していたことを知らなかった。だが、やがて守衛は誠治たちがいつも夜遅くまで練習をしていることに気づき、誠治たちの卓球への熱意に心を動かされた。最終的に、誠治は寮に帰らず、守衛室にふとんを持ち込んで、守衛と一緒に寝泊りをして卓球をするようになった。
誠治の卓球熱は止まるところを知らなかった。1年生のときは、盆や正月の休暇には必ず愛媛の自宅に帰っていたが、2年生になってからは休暇中も帰省せず、ずっと練習をしていた。
「強くなりたい、やらないかん!」
そういう気持ちが大きくなっていた。
蘇ったラケット
その日も誠治は、高島が練習にやって来るのをいつものように待っていた。
高島が仕事のため遅くなるという連絡を受け、誠治は先に食事を済ませることにした。自分のラケット、ユニホームなどの卓球道具と、両親から仕送りしてもらったお金をスポーツバッグに詰め込んで守衛室に置き、ドアにはきちんと鍵(かぎ)をかけて食事に出かけた。
空腹を満たし、「さあ、これから練習するぞ」と意気込んで戻った誠治を待っていたのは、信じられない現実だった。
「バッグがない!」
守衛室のドアが開き、大事なものがたくさん入ったスポーツバッグが盗まれていたのだ。その夜は仲間たちに協力してもらって何時間も探したが、結局バッグは見つからなかった。
ユニホームやお金を盗まれたことはショックだった。だが、真っ先に頭に浮かんだのはラケットのことだった。盗まれたバッグに入っていたラケットは、ただのラケットではなかったのだ。
卓球選手にとって、ラケットは手の一部。まるで先端まで神経があるかのような、意識的に振らずとも、来たボールに対して自然に動くような感覚のラケットがほしい...。そうした生きた手のようなラケットを、誠治はずっと探していた。ラバーは中学時代から決まっていた。しかし、ラケットはいろいろ試したものの、究極にフィットするものにはまだ出合っていなかった。
しかし、大学に入学してすぐのころ、誠治は最高のラケットと出合った。ふと立ち寄ったスポーツ用品店で何気なく手に取ったラケットが、誠治の左手にすっとフィットしたのだ。板の目の詰まり具合や重さも申し分なかった。誠治は即座にそのラケットを購入した。寮に帰ってからナイフでグリップを削り、ラバーを貼り、早速卓球場で試し打ちをした。
誠治のラケットは仕上げにサンドペーパーを使わず、荒削りのままにしているのが特徴だ。また、世界で戦うために、ラケットの重量は少し重めにし、ラバーを貼った状態で135~136グラムにしていた。この重さは、相手の威力に負けないようにするためだった。
試し打ちをした誠治は、その素晴らしさに驚いた。
「こりゃ~すごい!自分と出合うために生まれてきたラケットなのだろうか。もう何十年も前から使っているかのようだ」
ラケットはすぐに誠治の手になじんだ。それ以来、誠治はそのラケットを本当に大切にしていた。
そんな相棒が盗まれてしまったのだ。誠治はあきらめきれず、明け方になるともう1度探しに出かけた。昨夜も探した場所を1つひとつ確かめるように探し回った。
「もう自分の手にあのラケットが戻ってくることはないのだろうか...」
あきらめかけたそのとき、水に浮かんでいるラケットが目に飛び込んできた。
「あれはまさか!」
誠治の鼓動が高鳴った。ラケットは、幅1メートルほどの疎水に浮かんでいる。すぐに駆け寄り、ラケットを水面から拾い上げた。心からうれしかった。
しかし、1度水分を含んだラケットは、乾かしても木が曲がってしまい、真っすぐな面には戻らなかった。
「もう使えないかもしれない...」
だが、あんなにも手になじんでいたラケットである。もう1度蘇(よみがえ)らせたいと、誠治は強く思った。そして、ダメでもともとと、ラバーを貼って打ってみた。
「素晴らしい!」
驚いたことに、そのラケットは初めて打ったときと同じ感覚を誠治に味わわせた。いや、それ以上かもしれない。
このラケットで、誠治は後に世界チャンピオンに輝くことになる。蘇ったラケットは誠治の手の一部となり、世界チャンピオンへと導いた。
自分のことは自分で
寮にいると、1~2年生の間は苦しいが、3~4年生になると天国だ。洗濯、掃除などは後輩がしてくれるからである。
誠治は1~2年生の間は寮にいたが、3年生になると寮を出た。
「本当に強くなろうとするなら、自分のことは自分でしなければいけないのではないか」
そういう考えからだった。
3~4年生になっても寮で生活するということが、必ずしも良くないというわけではない。1~2年生だけでしっかりとした年長者がいなければ、何かがあったときに困ることもあるだろう。やはり、3~4年生の誰かは寮にいなければならない。
しかし、誠治はそこにいることによって、自分自身が何もしなくて良くなるということが嫌だった。自分で自分のことができるようになった方が卓球にもプラスになるだろうと思い、寮を出た。
(2004年8月号掲載)