強く正しく明るく大きな人間に
誠治が尊敬する高島には樋口俊一という師匠がおり、高島は1~2カ月に1度ほど、樋口のいる熱海へ出向いて指導を受けていた。大学2年生の春、誠治は熱海の合宿に同行する機会を得、そこで樋口と出会った。それは誠治の卓球人生を大きく左右する運命の出会いであった。
樋口は出会った瞬間、誠治にこう言った。
「強く正しい人間を目指してがんばりなさい。それにプラスして、明るい人間になりなさい。そしてさらに、大きな人間になればもっといい」
単に技術を磨くだけでなく、強く正しく明るく大きな人間になれるかどうかが、選手としての器を決定する。優勝することだけが大事なのではない。どんなに強くなっても高慢にならず、立派な人間になりなさい...樋口の言葉には、そういう意味が込められていた。
「強く正しく明るく大きな人間に」
この言葉は誠治にとって宝物である。誠治はこの言葉が大好きで、今でも常に心の内に秘めている。
樋口は熱海でホテルを経営していた。誠治たちはそこに宿泊させてもらい、練習は近くの体育館を借りて行った。ときにはホテルのロビーでも練習をした。
「相手もボールも尊敬して練習しなさい」
それが練習場での最初の教えだった。たとえ小さな子どもでも年配の方でも、どんな相手でも、練習してくれる相手はすべて自分を強くしてくれる人である。また、野球の選手がボールを磨くように、卓球のボールを大切にするという気持ちが大事である。誠治はまず、練習に取り組む前の心の持ち方から指導を受けたのだった。
世界を目指す
誠治は樋口から「ラケットを持つ以上は、大きな目標に向かって進まなければならない」と聞かされた。そして、それまで夢のような話であった「世界」というものを、身近に考えるようになった。
合宿2日目。誠治は、昼食のおにぎりを「もうこれ以上食べられない」というくらいに食べた。すると、樋口が立ち上がった。「すぐフットワーク練習をするぞ」
誠治は耳を疑った。
「こんなにおなかいっぱいの状態で、まさかフットワーク練習とは...」
フットワーク練習を始めて間もなく、当然のごとく誠治は気分が悪くなり、トイレに駆け込んだ。
「いかなる場合でも試合をしなければならないのが世界だ。世界は厳しい。どんな状況にも対応できるように、普段から訓練しておかなければならない」
樋口は静かに言った。
このとき誠治は、世界を目指すということはとんでもないことだと感じた。だが、世界を意識することで、練習の量と質は高まっていった。
合宿では、明け方まで練習をしたり、空腹時または満腹時に練習したりと、様々な状況において力が出せるように練習を積んだ。過酷な練習だったが、樋口はどんなときでも選手につきっきりで指導をしていた。こうして選手と指導者の間の信頼感が強まっていった。
無駄なこと
「出された食事はすべて食べる」
これは熱海の合宿における暗黙の了解だった。
ある日、夕食に刺身が出た。誠治は醤油(しょうゆ)をたっぷりと小皿に注ぎ、いつものように残さずすべてを食べた。ところが、一同の食事が済んでも、「ごちそうさま」の唱和にならない。なぜだろう...。そのとき樋口は静かに言った。
「小野、醤油は自分が食べるのに必要なだけ入れればいい。無駄なことはするな」
誠治は醤油の入った小皿を見てハッとした。些細なことでも無駄を省き、するべきこと、するべきでないことをきちんと考えなければいけない。食事の時間を通して、樋口はそのことを教えてくれたのだ。
樋口の言葉の意味を理解した誠治は、残っていた醤油を飲み干した。
1球
その夜は、夜中の12時半を過ぎても練習をしていた。樋口が言った。
「あと1球で夜食にしよう。カップラーメンができているから」
誠治は疲れた体で1球のラリーを終えた。しかし、「終わり」という号令が聞こえてこない。1球で終わりのはずが、何球打っても終わらない。不審に思って樋口を見ると、目を閉じてうつむいていた。誠治の方はまったく見ていないようだ。
20分、30分と時間は過ぎる。誠治は「なぜ終わりと言ってくれないのだろう」と思いながら打ち続けていた。体力は完全に限界を超えている。
「えーい!!」
渾身(こんしん)の力を込めてスマッシュを打った。ボールは卓球台に突き刺さるほどの勢いで、天井近くまで跳ね上がった。
「よし、終わり」
その瞬間、樋口の声がかかった。
「1球というのは、自分というものをすべてラケットに込めてボールにぶつけた1球。それが1球だ。そのような1球が打てなければ、世界へ出ても戦えない」
樋口の言葉に誠治は感動した。
「なるほど。1球というのは、すごい1球なんだ。自分の気持ちがボールに乗り移って飛んでいくような、そんな1球が本当の1球というものなのか」
誠治の必殺技となる「カミソリスマッシュ」も、この全部の気持ちを込めた「1球」という考えがなければ、決して習得できなかっただろう。
その後、誠治たちはすっかり伸びきった汁のないカップラーメンを食べた。しかし、「1球」の意味を学んだ喜びと感動が混ざり合い、その味は格別だった。
一生懸命
誠治は樋口の指導に心を打たれ、期待にこたえたいと思った。合宿の終わりには、「今回教わったことはしっかり練習してマスターし、次に合宿に来たときは違うことを教わりたい」と思った。
そして、がむしゃらに練習を積んだ。その中で、誠治は「一生懸命」ということについて自分なりに考えるようになった。
「一生懸命やったからといって、必ずしも試合で良い結果が出るわけではない。良い結果が出るときもあれば、出ないときもあるだろう。一生懸命やったならば、たとえ良い結果は出なかったとしても、充実感はある。一生懸命やったという充実感が持てれば、次も一生懸命がんばろうという気持ちになる。
しかし、一生懸命がんばらなかったときに試合で結果が出せなければ、立ち直れないだろう。一生懸命がんばらなかった自分への悔しさと、負けた悔しさ。その二重の苦しみを味わうことになるのだから」
カミソリスマッシュの開眼
後に「カミソリスマッシュ」と呼ばれた誠治のスマッシュを開眼させたのも樋口だった。
誠治の持ち味はスマッシュとバックサービス。サービス練習は人一倍行い、スマッシュ練習は樋口の下で肩がちぎれるくらいたくさん行った。「一球必打」を念頭に、練習は1球で行った。
スマッシュ練習は、相手にロングサービスを出してもらって打つ練習だった。初めは高いボールを打つところから練習して、だんだん低いボールを打てるようにしていく。できるようになったら、今度は体の近くのボールを打つ練習から始めて、だんだん体から離れたボールを打つ練習へと発展させ、どこに来たボールも動いてスマッシュを打てるように練習をやり込んだ。
「スマッシュは、岩に打ち寄せる波のように打つ」
誠治はラケットを振りながら、樋口の言葉を何度も反芻(はんすう)した。そして、朝まで打ち続けたとき、不思議にもラケットに当たればすべて入る感覚を会得していた。そのスマッシュの破壊力、切れの良さはまさに岩打つ波。「カミソリスマッシュ」の開眼だった。
全日本合宿
誠治は、高島のトレーナーとして全日本の合宿に参加させてもらえるようになった。そして、合宿の間に全日本クラスの選手と練習試合をし、自分の力を比較できるようになった。
「この人たちに勝てば、自分も全日本代表に入ることができる」
はっきりした目標をつかむことができた。
具体的な目標レベルがわかった誠治は一層熱意がわき、さらに厳しい練習を自分に課すようになった。そして、2回、3回と全日本の合宿に参加しているうちに、トップクラスの選手と練習試合をして勝てるようになった。
こうして誠治は確実に力をつけ、その後の全日本学生選手権大会や全日本選手権大会ではランキングに入るだけでなく、準決勝や決勝にまでこまを進めるようになっていったのだった。
やればできる
大学3年生のときの秋季関西学生リーグ戦。その日、誠治は風邪をひいて38度の熱があった。監督が誠治に言った。
「小野は出番を後ろの方にする。順番が回ってくる可能性は低いが、ベンチには入っておけよ」
「はい」
誠治はその心づもりでいた。近畿大学は自分が出なくてもオーダーに困ることはないだろう。そう思って会場に行った。
「あれ!?」
オーダーを見た誠治は目を疑った。
自分の名前が前半に書かれているではないか。なぜだかわからないが、この事実は変えようがなかった。となれば、試合をしなければならない。風邪をひいて熱があるからといって、大事な団体戦で負けるわけにはいかない。誠治は意識がもうろうとする中、必死で戦った。そして、なんとか団体戦の1勝に貢献することができた。
このとき誠治は、「やればできる」ということを実感した。体調が悪いからといって、自分で駄目だと思ってしまったら負けなのだ。やればできる。誠治は、弱い気持ちを振り払うことを学んだ。
全日本学生選手権大会
1977(昭和52)年、大学3年生の誠治は全日本学生選手権大会で初優勝を飾った。
翌1978(昭和53)年の全日本学生選手権大会では、前回優勝したということと、会場が近畿大学の所在する大阪だということで、誠治には試合前から気負いがあった。大きなプレッシャーを感じながらも、誠治は準々決勝まで順当に勝ち進んだ。
準々決勝の相手は日本大学の坂本憲一。試合はもつれてゲームオールとなった。しかし、最終ゲーム終盤での競り合いで誠治は弱気なプレーになり、攻撃が単調になった。その結果、坂本に思い通りに攻められ、誠治は敗れた。
「もう少し回転の変化やボールの強弱に重点を置いて試合を進めることができたら、結果は変わっていたかもしれない...」
しかし、心の余裕と技術の幅からして、そのときの誠治にはそれが限界だった。
会場を後にすると、誠治たちは大学に戻って練習することになった。体は疲れているし、試合に負けて気持ちも落ち込んでいる。誠治は心の中で思った。
「今日は練習を避けたいなあ」
しかし、練習するという監督の決定は変えられない。
「やるなら最善を尽くそう」
誠治は発想を変え、心を入れ替えた。敗戦の悔しさでいっぱいの、苦しい練習だった。しかし、この練習をやり抜いたことが、精神力、忍耐力の向上につながり、この年の全日本選手権大会での決勝進出という好成績の原動力となったのである。
現在の高島は語る。
「かつて世界チャンピオンになった荻村伊智朗さんや長谷川信彦さん、伊藤繁雄さんや河野満さんたちは、想像を絶する厳しい練習をしたと伝え聞いていたが、このころの小野も先人に負けないくらいの練習をしていた」
世界選手権大会への切符
全日本学生選手権大会の2カ月後に行われた昭和53年度全日本選手権大会。誠治は初めてランキング入りしたばかりでなく、決勝へこまを進めた。決勝の相手は高島。誠治はとにかく全力でラケットをフルスイングするしかないと考えていた。
試合が始まってすぐ、誠治は違和感を覚えた。
「あれ!?いつもと違う」
全日本選手権大会の決勝は独特の雰囲気が漂っていた。そして、よく知っているはずの高島は、試合運びも球質も、一緒に練習をしているときとは別人だった。
結果は誠治の完敗だった。しかし、全日本選手権大会で2位に入賞したことで、誠治は第35回世界選手権ピョンヤン大会への切符を手に入れた。
ヤマハに入社
大学を卒業すると、誠治はヤマハ(日本楽器)に就職した。初めは近畿大学の職員として大学に残ることを考えていたのだが、その話がうまくいかないうちに季節は冬になっていた。卒業を目前に控えても就職先が決まっていなかった誠治に声をかけてくれたのがヤマハだった。
ヤマハは誠治を「ヤマハの小野」としてではなく、「これから世界で活躍する小野」として大きな目で見てくれた。それまでヤマハ卓球部は午後5時まで仕事をしてから練習していた。しかし、将来有望な小野のため、3時で仕事を切り上げて練習ができるように環境を整えてくれたのだ。
しかし、それでも練習時間は学生時代の半分くらいに減ってしまった。そこで、誠治は決心した。
「会社は自分のためにこれほど環境を整えてくれた。これ以上を会社に要求するわけにはいかない。だから、自分にできることは何かを常に考えるようにしよう」
まず、少ない練習時間を補うため、練習の質を高めるようにした。次に、どうやったら時間をつくれるかを考えた。
「人と同じことをやっていては勝てない」
そんな誠治に余暇はなかった。
世界選手権大会
1979(昭和54)年4月25日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のピョンヤンで第35回世界選手権ピョンヤン大会が開幕した。75の国と地域から訪れた900人以上の選手・役員が一堂に会す。それは北朝鮮にとって建国以来最大の国際行事だった。
誠治にとっては、初めての世界選手権大会だ。胸に日の丸をつけて試合をすることが夢であり、それを目標としていた誠治は、日本代表としてそこに自分がいられること、試合ができることがうれしかった。日本代表のまとめ役は、最年長で経験豊富な高島だった。
初めての世界選手権大会にもかかわらず、不安は少しもなかった。高島に話を聞き、ハードな練習を行ってきたからだ。おそらく、世界を目指せといわれてもどれが世界かわからない選手は多いだろう。しかし、誠治には身近に高島という世界トップレベルの選手がいた。そして、「世界で戦うためにはこのくらいがんばらなければいけない」と、その背中を見てがんばってきたのだった。また、樋口の指導によって世界で戦う心構えを培い、世界選手権大会への道が開けたのだ。
団体戦は8チームずつ2リーグの予選リーグがあり、上位2チームが決勝トーナメントに進出する。つまり、予選を通過すれば、次は準決勝というわけだ。
日本は予選リーグを2位で通過し、準決勝でもう1つのリーグを1位で通過したハンガリーと対戦した。結果は1-5で敗れたが、唯一の勝ち星は誠治が挙げたものだった。日本はその後の順位決定戦でチェコを破り、3位に入賞した。団体戦での誠治の成績は16勝7敗と勝ち越しだった。
「この調子ならば個人戦もがんばれるぞ」
試合の内容も良く、誠治は個人戦に向けて弾みをつけることができた。
個人戦がスタートした。男子ダブルスと混合ダブルスは全力を尽したものの勝ち進めず、序盤で負けてしまった。そして、残すは男子シングルスのみとなった。
(2004年9月号掲載)