世界チャンピオンという重圧
世界チャンピオンになったことは宝物だった。しかし、相手の胸を借りるつもりで挑んで予想外に勝利を収めてしまった誠治は、興奮が一段落すると、何ともいえない複雑な気持ちに包まれていった。喜びに取って代わり、これからどうしようという不安が頭をもたげたのだ。今後は、どのような試合に出ても『世界チャンピオン』という肩書を背負わなくてはならない。
「負けられない」
ひどい重圧に襲われ、誠治は結果ばかりを追うようになった。常に、「負けたらどうしよう」という思いに押しつぶされそうだった。そして、重圧の中での苦しい日々が続いた。
「もう結果を追うのはやめよう」
半年が過ぎたころ、そう思えるようになった。
「自分が納得できるほど一生懸命がんばっているかが問題だ。相手も強くて一生懸命やっているのだから、負けたら仕方ない」
そう考えられるようになると、気持ちがすっと楽になった。
「チャンピオンになって周りの人々の自分への見方は変わった。しかし、自分のやるべきことは何も変わっていない。やるべきことをしっかりこなしていけばいいのだ」
誠治の心のモヤは吹き飛んだ。くよくよしたり、後悔したりもするが、最後に聞き直れる誠治の性格が幸いした。
体のありがたみ
誠治は世界選手権ピョンヤン大会の後で腰を痛めた。連日全力を出し切るハードな試合をしておきながら、体のケアを十分にしなかったからだった。
しばらくの間は針治療やマッサージを施し、その場しのぎで痛みを和らげるということを続けた。しかし、冬になると、腰が痛くて靴下を履くことができないくらいに悪化していた。
「自分の体をごまかさず、本当に腰を治していかなければいけない」
誠治はやっと気づいた。そして、練習を軽めに組み、腰を治すことに専念することにした。誠治は体を痛めて初めて、体のありがたみを痛切に感じたのだった。
体が治ると、治療期間中に力が落ちてしまったことを感じた誠治は、ランニングやウエートトレーニングをして体力強化に力を入れた。体が良くなってくると意欲が沸き、がんばろうという気持ちになる。腰を痛める前と後では気持ちの持ち方も代わり、技術的にも良くなっていった。
誠治は語る。
「体は大事。みなさんはたとえ若くても、使った後は必ずほぐして手入れをし、痛めることがないようにしてほしい」
トレーニングと精神面
夏の暑い日曜日。その日の練習は自由参加で、誠治が所属するヤマハの練習場には誰も来ておらず、誠治は1人でトレーニングをしていた。70キロのベンチプレス10回を3セット、110キロのバーベルを持ってスクワット10回を3セット、5キロの鉄アレイを持って腹筋を300回。間に少しの休憩を取ることにした。
「こんなに苦しいことをなぜしなければいけないのか」
休憩中、誠治はいすの上に座って考えていた。額から床にボトボトと汗が流れ落ちている。
「何で俺がこんな苦しいことを、何で俺1人だけがこんなことまでやらなければいけないのか」
自分に疑問を投げかけていた。
しばらくすると、誠治の頭にその答えが浮かんだ。
「これは自分が必要としているトレーニングであって、自分のためになることをやろうとしているだけではないか。思えば簡単なこと。誰のためでもなく、自分のためにしていることなのだ」
「嫌だ、嫌だ」と思っていると苦しいことでも、「よしやろう!」と思えば苦しさが半分になるということに気づいた。
「人間は気持ちひとつで変わるものだなあ」
誠治はぽつりとつぶやいた。
また、樋口から精神面の大切さを教わったことも多々ある。誠治は遠征で、ひどく体調を崩してしまったことがあった。このとき良い結果を残せず帰り、体調が悪いことを言い訳にしたい気持ちがどこかにあった。樋口はそれを見抜き、誠治を一喝した。
「試合の前から自分で言い訳を見つけていたのだろう!」
続けて、樋口は論した。
「体調が悪いこと自体よりも、体調が悪いから駄目だと思ってしまう気持ちの方が問題だ。熱があがろうが下痢をしていようが、そんなことはプレーにはまったく関係がない。強い気持ちを持っていなければ、試合では勝てないのだ」
誠治は深く反省し、精神面の大切さをしっかりと心に刻んだ。
日本一への挑戦
必死にならなければ取れない日本一の座。しかし、誠治は「手を伸ばせば届きそうだ、いつでも取れる」という気持ちを心の隅に持ってしまっていた。斎藤清をはじめとする若手選手が台頭し、誠治にとっていい意味での活力となっていたが、誠治の過去3度の日本一への挑戦は、いずれも決勝で涙をのんでいた。
「日本一になりたい」
昭和60(1985)年、全日本選手権大会決勝。誠治にとって4度目の日本一への挑戦だった。相手は斎藤清。
誠治は決勝までいい勝ち方をしており、気負いもなかった。しかし、結果はまたもや2位。全日本での体調は万全で、自分ではもはや技術的、体力的な敗因は見つからなかった。
世界を制したのに、日本を制することができない。落ち込む誠治に、樋口と高島は和歌山県にある高野山に登って修行することを勧めた。
高野山での修行
誠治は精神を鍛えるため、正月の2日から2週間ほど高野山で修行した。真冬の高野山の気温は氷点下10度。ときにはそれ以下にもなるという厳しい寒さだった。
誠治が修行したのは無量光院という寺。朝は5時半に起床して雪かきや掃除をし、昼は座禅などを行った。また、朝晩は極楽橋まで2~3キロのランニングも欠かさなかった。自分で決心して修行をしていたので、誠治にとっては非常に充実した日々だった。
あるとき、無量光院の住職は誠治にこう告げた。
「ここでの修行は厳しいものです。しかし、山を下りてからも修行を続けることは、ここでの修行よりもはるかに内容が深く、厳しいものなのです」
誠治は、はっとした。続けることの大切さ、そして、それが目標を達成する近道になるということがわかった。
山を下りてからも、誠治は毎日走り続けた。雨の日もカッパを着て走り、風の日も雪の日も走り、試合の日も走った。「毎日走るという決心」で健康管理にも厳しくなり、心身ともに良い方向に向かった。
日本一へ
昭和61(1986)年、全日本選手権大会。誠治は38度の熱を出した。
「今年も無理かなあ」
そんな考えが頭をよぎる。開会式にも出られず、誠治は宿舎で休んでいた。ダブルスはすぐに負けてしまったが、シングルスまでは日程的にやや余裕があったので、体調は徐々に回復していった。
準決勝の相手は川村公一だった。誠治は鋭く切れた下回転サービスで相手をほんろうし、攻撃されればカウンタースマッシュを狙うという戦術で順調に得点を重ね、3-0で勝利した。
そして、決勝。相手は初めて決勝に進出した渡辺武弘。誠治と同じサウスポーのペンホルダー裏ソフト攻撃型だ。
準決勝と決勝では雰囲気がまったく違う。1台だけのセンターコートをカメラが取り囲み、2人の選手はスポットライトを浴びて立つ。独特の雰囲気がその空間を支配していた。渡辺は試合前の練習で、ボールを床にポーンポーンと突いていて、手で取ろうとしたときボールをぽろりと落とした。誠治はその瞬間を見逃さなかった。
「緊張しているな」
相手の心理が読めた。
「出足さえしくじらなければ、いける。3ゲーム取るまでは絶対気を抜かない。気を抜いたら負ける」
誠治は全身全霊で戦った。バックサービスを相手のフォア前とミドル前に出し、3球目攻撃を狙った。そして、『カミソリスマッシュ』が決まったときには「よっしゃ!」と声を出し、気持ちを高めた。
試合は終始誠治のペースで進み、3ゲームを連取し、ストレートで勝利を収めた。
誠治はついに念願の全日本選手権大会優勝を果たした。積年の思いが実った瞬間だった。この優勝は、世界一になったときと同じくらいの喜びと感動を誠治に与えた。
誠治が世界の頂点に立ってから、すでに7年の歳月がたっていた。
オリンピック出場
世界に続いて日本も制した誠治は、次の目標をすぐにまた見つけた。それは、ソウルオリンピックで活躍することである。
卓球は、昭和63(1988)年のソウルオリンピックから、正式種目になった。誠治は幼いころから、オリンピックがテレビで放映されると画面にくぎ付けとなって見入っていた。そして、いろいろな選手の活躍にあこがれていた。誠治にとってオリンピックは世界選手権大会とはまた違った特別なものであり、「オリンピックだけは何としても出たい」という思いは、日に日に増していった。
予選会で良い成績を残した誠治は、日本代表としてオリンピックへの出場が決まった。オリンピックでプレーした数日間はあっという間に過ぎ、もっと試合をさせてほしいという気持ちにさえなった。結果は、決勝トーナメントに進出し、ベスト16であった。誠治は世界選手権大会とは違う感動を肌で感じた。
「感動を味わうことができたのは、自分だけの力ではなく、自分を応援し、支えてくれる人がいたからこそだ。結果が良いときにはみんなが集まってくれるが、悪いときにどれだけ自分を支えてくれる人がいるかが重要なのだ。悪いときに自分を何とかしてくれた樋口先生、高島さん、ヤマハの安田監督、チームメートなど、良き仲間に恵まれたからこそ、自分はこの場に立っていられるのだ」
感謝の思いでいっぱいになった。
日本リーグ100勝
オリンピックから帰ってきた誠治の次なる目標は、日本リーグで100勝することだった。
平成2(1990)年の前期日本リーグまでに、誠治はすでに95勝を挙げていた。前期日本リーグでは7戦に出場するので、おそらく今大会をもって100勝に届くだろうと誠治は考えていた。周囲も同じように考え、マスコミから注目が集まった。誠治は緊張して試合に臨み、終わってみれば3勝4敗で、98勝に終わった。
「これまでは、悪くても5勝2敗くらいだったのに...」
今までにない悪い成績だった。肩を落とし試合から帰ってきた誠治は、樋口に電話した。
「日本リーグはこれからもある。1年に1勝すれば、あと2年で100勝に届くじゃないか」
樋口はそう励ましてくれた。
「そうか、そんなに難しく考えることはないのだ」
深く思いつめていた誠治を、恩師の言葉が救った。その後、誠治は平成2年の後期日本リーグで2戦2勝し、通算100勝という偉業を成し遂げたのであった。
グランプリへ移籍
平成4(1992)年、誠治はヤマハからグランプリに移籍した。そして、平成8(1996)年12月21日、全日本選手権大会3回戦で敗れ、誠治はラケットを置いた。
選手としてプレーしていたときは、試合をする前の何ともいえない緊張感、今から試合をするぞというときの気持ちが何ともいえず快感だった。だが、それが年齢とともに薄らぎ、試合前の緊張感を遠ざけたい気持ちになっていた。こうして誠治は、40歳を区切りに引退を決意した。誠治は40歳まで卓球をやらせてくれたグランプリ卓球部に、そして北側社長に深く感謝した。
これまで、世界選手権大会優勝、全日本選手権大会優勝、オリンピック出場、日本リーグ100勝達成というように、1つクリアするとまた1つというように新たな目標を持って取り組んできた。これは誠治にとって幸せなことであり、長く現役生活を続けることができた要因でもあった。
そして現在、小野誠治はグランプリの監督を務めている。
卓球は格闘技である
誠治にとって卓球とは何であったのだろうか。卓球をどのようなものとしてとらえていたのだろうか。その答えはこの一言に集約される。
『卓球は格闘技である』
真剣で戦えば、気を抜くと切られる。ボクシングであれば、気を抜くとたたきのめされる。そのため、格闘技では一瞬も気を抜けない。そして、気を抜くとやられるのは卓球も同じだ。卓球は台を挟んで戦う格闘技である。やるかやられるかの真剣勝負である。
ボールが床に落ちるまでに何とか取りに行く姿勢が大事であり、「もう無理だ」とあきらめて追おうとしなければ、永遠に打ち返すことはできないのだ。
「あきらめれば終わりだが、やろうとしていればいつかできるようになる」
卓球だけでなくどのような分野でもそうであり、だからこそ伝わるものがある。
「本気でやるからこそ、うまくなれる」
気を抜いて打っていたら、決してうまくはならない。誠治は卓球を「命をかけた格闘技」だと考え、試合に臨んでいた。このような気持ちが、誠治の卓球の根底に流れていた。
チャンス、喜び
チャンスは万人に与えられている。しかし、チャンスをチャンスと思えるのか、チャンスと思えず通り過ぎるのかは本人の受け止め方次第である。
大学時代、「自分より強い人が練習しているときに、弱い自分が先には帰れない」と思って残っていたこと。高島や、樋口との出会いを与えられたチャンスだと思い、しっかりついていったこと。こうしたことが積み重なり、誠治の卓球人生は良い方向に導かれていったのだった。
「近畿大学に入学したことで、同じ年代に多くの競争相手がいて、高島さんや樋口先生と出会えた。近畿大学に入っていなかったら今の自分はなかっただろう」
現在の誠治はこう振り返っている。
また、喜びを感じながら卓球に取り組んだことも、誠治の成功の要因だろう。
誠治の卓球人生を影ながら支えてくれたのは両親だった。両親を誰よりも尊敬している誠治は、優しい表情でこう語る。
「自分は両親の愛情を感じられて幸福だったし、好きなことをやらせてもらえて本当に幸せだった。読者のみなさんも、自分が好きなことに挑戦できるのだから、結果ではなくやれることを喜びとしてほしい」
これは、現在日本から出た最後の世界チャンピオン小野誠治の物語である。
「自分が日本から出た最後の世界チャンピオンといわれることはつらい。早く、次の若い人が出てきてほしい」
誠治は静かに語る。新たな世界チャンピオンが日本から生まれることを誰よりも心から願っているのは、小野誠治その人なのである。
(2004年12月号掲載)