「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。
※この記事は月刊卓球レポート2001年6月号を再編したものです
左利き
繁雄(しげお)は、おなかの底から負けん気がむくむくと頭をもたげてくるのを感じていた。
なんとかしてあの人たちをぎゃふんと言わせてやりたい。何かうまい手はないかなあ。
ついさっき、公民館での出来事である。
繁雄は近所の大人たちと一緒にピンポンをしていた。しかし体の小さな小学生に負けたのが悔しかったのだろう。大人たちが、「卓球は右手でやるものなのに繁雄は左だ。おかしいから仲間に入れてやらない」と言い出したのだ。
繁雄は生まれつき左利きだった。文字は右手で書くように矯正されたが、メンコや野球は左手でやるし、相撲でも左から攻める。当然のこと、握力も左の方が強かった。
おじちゃん、ずるいぞ。左利きでもいいじゃないか。僕もピンポンやりたいのに。ようし、どうしても意地悪するんだったら右手でやってやろう。練習して左手のときより強くなってやるぞ。
繁雄はラケットを右手に持ち替えて、利き腕のように動かせるようになるまで練習し、再び大人たちに勝つようになった。
後の世界チャンピオン・伊藤繁雄の、少年時代のエピソードである。
卓球との出合い
昭和20年、伊藤繁雄は7人兄弟の末っ子として、山口県で生まれた。小学生のころまでは、当時の子供の例に漏れず野球に熱中していた。
ある雨の日、伊藤は野球をする代わりに公民館に遊びに行った。そこでは大人たちがピンポン球を打ち合っていた。古材を横につなげただけのその台はゆがんだ長方形で高さが足りず、表面もあちこちがへこんでいた。それでもボールはポン、ポン、カコーンとあの小気味よい音を響かせて跳ねる。大人たちの打ち方とボールの飛ぶ方向へ曲がり具合、バウンドの位置などを見比べてラリーに見入る伊藤の頬は、次第に紅潮していった。しかし、このころの伊藤にとっての卓球は、あくまで野球の代わりだった。中学に進学して卓球部に入ったのも、小柄なため野球部では活躍するのが難しいと思ったからだった。
入部はしたものの、顧問の先生の技術指導はなかった。卓球台の数に対して部員は多く、練習はイモを洗うような状態だった。
クロスのコースで台につき、フォア打ち、ショート打ち、ツッツキ打ち、フットワークをそれぞれ5分ずつやると、すぐゲーム練習に入る。11本1ゲームの勝ち抜き戦である。いったん負けると、その日のうちに次の順番が回ってこないときもあった。
待ち時間には、学校の裏山にある八幡様の階段を走った。150段はあったであろうその階段を上りきると、さらに山頂まで続くうねうねとした道も走った。中でも伊藤や同級生の中村、浜田は熱心だった。伊藤は家業の新聞配達を手伝うために、早めに帰らなければならなかったが、ほかの2人より少しでも長い距離をこなそうと張り切った。ひとしきり上り下りした後は境内を駆け回って遊び、カキやヤマモモ、キイチゴなどを採って食べた。
しごくのんびりした中学時代ではあったが、この裏山でのトレーニングと新聞配達の手伝いで、伊藤のフットワークを支える強靭(きょうじん)な下半身の基礎がつくられたといえるだろう。
交通事故で休部。ところが......
2年生の春、伊藤はしばらく部活を休んだ。自転車に乗っていて自動車と接触し膝を痛めたから、というのが第1の理由である。しかし2週間ほどで完治したのにもかかわらず、1カ月近くも練習場から足が遠のいたのには、他にも理由があった。
ちょうどそのころ、卓球に対する情熱を失いかけていたのだ。新3年生の威圧感からか部内の雰囲気がどことなく殺伐と感じられ、以前ほど楽しいと思えなくなっていた。もともと野球の代わりにと始めた卓球でもあり、さほど執着はしていなかった。
ところが事故の1カ月後である。伊藤は何の気なしに練習場のそばを通りかかった。
キュッキュッ、カコーン、パシッ。
胸のすくような音が軽快に響いてくる。一度は熱中した卓球だけに気を引かれ、伊藤は中を覗き込んだ。
「えー、嘘だろ!?」
伊藤は思わず叫んだ。同級生たちが以前とは比べものにならないくらい上達していたのである。伊藤と競り合っていた中村や浜田はもちろんのこと、他の友人たちも舌を巻くほどうまくなっていた。負けず嫌いの伊藤は、後れをとるものかとばかりに、その場で部活復帰を決めた。
父の許し
1カ月のブランクで勘は幾分鈍っていたが、ライバルたちを押さえて部のトップに立つために伊藤は練習に励んだ。
放課後の練習時間はいくらあっても足りない。しかし夕刊の配達は伊藤の役目であり、母や姉に任せきりにすると父親の大目玉を食らってしまう。そこで伊藤は知恵を絞った。
父ちゃんの前で試合に勝てば、きっと俺のことを認めてくれて、遅くまで練習しても叱られなくなるんじゃないか?
チャンスは3年生の春に訪れた。南陽町民卓球大会である。試合の日の朝、伊藤は家の奥にいる父親にも聞こえるよう、大きな声で言った。
「母ちゃん、今日、富田中の講堂で試合があるんだ。俺、がんばるからな。絶対に優勝するからな」
もし父親が観戦に来てくれても、そのときまでに敗退していれば逆効果になる。二度と配達をさぼらせてくれなくなるに決まっている。自分が卓球にかける熱意を見せるために、もっと卓球に打ち込める環境をつくるために、伊藤は背水の陣の心構えで試合に臨んだ。
富田中のチームメートが次々に敗退していく中、伊藤は1人順調に勝ち進んだ。しかし決勝戦が近づいているのに父親は現れない。
伊藤はコートについた。じりじりしながら周りを見回すと、ようやく父親の姿が目に入った。窓から遠慮がちに中を覗いている。
よし、やってやるぞ。
こういう重大な場面で緊張せず、むしろ集中力を高めて本領を発揮するのが伊藤の長所である。試合運びは細心かつ大胆だった。ショートやツッツキで丁寧につなぎ、チャンスボールは迷わず強打した。そしてついに優勝の栄誉を勝ち取ったのである。
小さな大会での優勝だったが、母親は手放しで喜んでくれた。父親は何も言わなかったが、翌日からは帰宅が遅れて配達ができなくても叱らなくなった。こうして伊藤は心おきなく部活ができる環境を手に入れ、ますます卓球にのめり込んでいった。
レシーブ打法の転機
卓球に集中すればするほど、疑問もわいてくる。あるとき伊藤は、バックハンドレシーブがうまくできずに悩んでいた。体育実技の教科書をぱらぱらとめくっていて、伊藤はこんな記述を目にした。
「卓球選手は、サービス権を持っているときは3球目を狙おうと積極的なプレーをするが、レシーブに回るとツッツキやショート中心の消極的な試合運びにしてしまうことが多い。レシーブは、最初から強打できるチャンスである」
伊藤は「ようし、これだ」と直感した。バックレシーブが苦手なら、得意なフォアを最初から使えばよい。積極的にフォアハンドを振っていこうとすれば、当然足の動きも早くしなければならなくなる。フットワークを駆使して動き回り、フォアで攻めつづける伊藤の卓球は、ここに端を発していると言えそうである。
実力がついてくると部内の練習だけでは飽き足らなくなり、他校に練習試合を申し込んだ。中学だけでなく、高校の女子部と試合をすることもあった。
9月の県大会ではベスト8に入り、その実績を買われて県の高校選手権大会に推薦出場した。そして3回戦まで勝ち進み、第4シードの選手と対戦した。結果はストレート負けだったが、2ゲームともスコアは18点前後(当時は1ゲーム21ポイント制)と善戦した。
伊藤は、自分の卓球が高校生レベルでも通用することを知り、進学後の卓球に大きな希望を抱いた。(次回へ続く)
Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。