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世界一への道 伊藤繁雄 
球史を革新したドライブ強打王 2

「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
 1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む

文=小谷早知 監修=辻歓則
※この記事は月刊卓球レポート2001年6月号を再編したものです


表ソフトから裏ソフトへ
 進学先は、徳山の桜ケ丘高校だった。上級生に県ベスト8の伊藤にかなう選手はいなかったが、同学年には内富と村上という、伊藤をライバル視する2人がいた。
 2年連続してインターハイ出場決定戦で敗れた夏、そのライバル内富がラバーを貼り替えて練習を始めた。当時バタフライで発売されたばかりの裏ソフトラバー、テンペストである。
 ボールを打ち合ってみて驚いた。飛んでくるボールが、バウンドしてからギュンと勢いよく伸びて手元に食い込む。バックに来るのをショートで受けても、いつもの角度で当てると山なりの軌跡を描いてオーバーする。ネットミスを覚悟で角度を押さえて返球してもまだ浮き、すかさずスマッシュされる。
 まさに魔法のラバーだった。
 伊藤はそれまで、裏ソフトより表ソフトの方がボールにたくさんの回転をかけられると思い込んでいた。多様な戦型の選手と対戦した経験があまりなかったためだ。一見、表面がツルツルした裏ソフトよりも、イボのついた表ソフトの方がボールを引っ掛けやすそうではある。あのイボで打てば回転がよくかかりスピードも出ると伊藤が考えたのも、わからなくはない。
 実際には、ラバーはゴム製なので摩擦抵抗があり、ボールとの接触面積の大きい裏ソフトの方が抵抗も大きくなり、ドライブがしっかりかけられる。中でもテンペストは、当時最も回転のよくかかるラバーだった。
 伊藤はテンペストの威力に魅了されて早速ラバーを貼り替えた。だが、すぐには使いこなせない。確かにドライブの鋭さは抜群だが、コントロールに難点があった。それでもあの魅力は忘れない。
 そこで伊藤は、やや回転能力の劣るコントロール系のラバー、アタックを貼った。そして何日かかけてこのアタックを使いこなせるようになったところで、もう一度テンペストに挑戦した。こうして伊藤はドライブ型に転向した。
 2年の秋の新人戦ではシングルスで優勝し、全日本ジュニア予選では決勝まで進んで森口(岩国高校)に敗れ、山口県第2代表として全国大会の出場権を獲得した。本大会では2回戦で敗退したが、初めての全国大会出場は伊藤にとって大きな自信となった。

高校2年、校舎の入り口にて。鏡に映しての素振りをよくやった

高校2年の県大会。右が伊藤、パートナーは村上

投げ上げバックハンドサービスも使った


インターハイ出場
 試合、特に全国レベルの大会で勝ち抜くためには、さまざまな戦型の選手との試合に慣れておく必要がある。
 ところが桜ケ丘高校の選手は、ほとんどが内富の影響を受けて裏ソフト速攻型に変わっており、表ソフト、一枚ラバーの攻撃型やカット型をそろえているチームには分が悪かった。
 ここでも伊藤は工夫した。カット型がいないのなら自分がカットをやってやろうと、ペンラケットのままでカットを引き、チームメートのドライブの練習台になった。伊藤がカット打ちをするときは、内富や村上がカット役を買って出た。
 こうした努力のかいあって、伊藤は3年生でシングルス山口県代表としてインターハイに出場した。
 シードされての初戦で、富山の第2代表、旗智と当たった。ところが山口県第2代表としての優越感がそうさせたのだろうか、伊藤はウオーミングアップもせずに試合に臨み、1ゲーム目を14-21で落としてしまった。
 旗智はショートがうまくて、相手を左右に振り回して自滅させる作戦を取る選手だった。しっかり動いてボールに追いつきさえすればスマッシュで先に攻めることができて、断然伊藤が有利になる。
 2ゲーム目は気を引き締め、素早く動いて旗智のショートを打ち抜き、21-8と快勝した。
 しかし、ややもすると調子に乗ってしまう伊藤には、この快勝がよくなかった。気を張っていた分、拍子抜けしてしまったのである。
 楽に取った後のゲームに3倍の集中力が要(い)るとは、よくいわれることだ。3ゲーム目、伊藤はなんとなく旗智に得点を許し、じりじりと引き離されていった。中盤からは取ったり取られたりの展開になったが、それでも逆転するところまではいかない。
 3、4本の差をつけられたまま終盤に入り、最後の数本はネットインやエッジボールであっけなく失った。ベスト8入りを狙っていた伊藤だが、初戦で敗退してしまったのだった。

高校3年、インターハイ予選で同級生たちと(前列左から2人目が伊藤)

インターハイ本番、旗智(右)に敗れる

インターハイ会場の前で福崎先生と


岡山国体
 インターハイが終わって新学期に入ると、すぐに国体がある。伊藤は国体予選で優勝して、少年の部の団体メンバーに選ばれた。監督の田中茂明先生(柳井高校)は、本戦で伊藤を常にトップに起用した。伊藤はエースとして相手チームの選手を次々に倒し、山口県チームを準決勝に導いた。
 相手は、優勝候補筆頭の東京都チームである。伊藤は、インターハイ3冠王の梨本(中大杉並高校)と対戦した。
 ううん、インターハイ3冠王の梨本か。俺なんか試合らしい試合もできずに、コテンパンにやられてしまうんじゃないだろうか。
 いや、待てよ。
 俺は何人かのインターハイ・ランキング選手に勝って、この準決勝まで来たんだ。ベスト4入りチームのエースということでは、梨本と同じだ。
 そうだ、俺が格下なんてことは絶対にない。やってやれないことはないんだ。
 伊藤のこの精神力の強さには、人を圧倒するものがある。これは過剰な自信ともカラ元気とも違う。腹の底から闘志をわき立たせ、強い相手に対して臆することなく立ち向かい、意識の上で自分を相手と対等の位置にまで引き上げてしまうのである。そして伊藤は完敗を予想する周囲を尻目に、一歩も譲らない互角の試合をした。
 梨本は一枚ラバーのカット型だが、攻撃も鋭いオールラウンドプレーヤーだった。伊藤はカット打ちに自信があるので、梨本をカットに追い込めば勝機はあった。
 幸い梨本は1ゲーム目、カット主戦の作戦に出た。伊藤は裏ソフトラバーの特徴を生かして切れのよいループドライブをかけ、返球が少しでも浮いたと見ると、スマッシュで梨本の堅陣を打ち抜いた。そして攻防の末に21-19で先制した。
 ベンチは沸きかえった。もし伊藤がこのまま梨本を下せば、格下と見られていた山口県チームに勝利の可能性が出てくる。伊藤の士気は、いっそう高揚した。
 インターハイ3冠王だからどうしたっていうんだ? あのとき油断さえしなければ、俺は旗智に2-0で楽勝して、旗智が112の接戦をした馬場園(名電工、インターハイ準優勝)にも勝って、決勝に出る実力があったんだ。
 なによりも、現にこうして先制できたじゃないか。
 よし、このまま2ゲーム目も取ってやるぞ。
 しかし、梨本はさすがインターハイ・チャンピオンである。経験を積んでいる分、戦術面では伊藤に勝っていた。カットでは伊藤に対して不利と見て作戦を大幅に変え、2ゲーム目の最初から積極的に攻撃を仕掛けてきたのである。
 梨本をカット型だという先入観で見ていた伊藤は、その豹変ぶりに面食らった。梨本にカットをさせたラリーでは得点を重ねることができたが、前陣から早いタイミングでパンと叩かれて逆コースを突かれ台から離されると、伊藤の失点が目立った。
 いつ攻撃されるかと警戒する分スマッシュの威力が薄れ、強打してもカットで拾われる。仕方なくストップすると、梨本はツッツキで返し伊藤を動かして打たせる。一枚ラバーのツッツキはほとんどナックルに近いので、うまくドライブしないとオーバーミスする。強くドライブできないボールをツッツキでつなごうとするとフワッと浮き、梨本は待ち構えていたように強打する。
 ペースを崩し、梨本に軽くあしらわれる形となって、とうとう逆転負けを喫してしまった。

岡山国体。世話になった松田荘三郎一家と選手(前列左端が伊藤)


条件制約の中で
 準決勝で敗れはしたものの、国体でのベスト4入りは大した快挙である。中学、高校を通して指導者に恵まれなかった伊藤が、ここまでの実力をつけることができたのはなぜだろうか。その理由として、伊藤は次の3点を挙げる。
 まずは、貪欲な情報収集である。指導者のアドバイスに頼れない分を『卓球レポート』や体育実技の教科書で補い、試合会場でレベルの高い選手を見つけると、見取りならぬ「見盗り」をして自分のプレーに役立てた。
 また、基本練習よりもゲームが大好きで、「試合こそ最高の指導者」とばかりにしゃにむに取り組んだ。
 2つ目は下半身の強化である。高校に入ってからも朝刊の配達は欠かさず続け、ランニングも怠らなかった。これが鋭いフォアハンド攻撃をしっかりと支えた。
 最後は、人一倍負けず嫌いだったことだという。名門高校の選手にも気後れせずに立ち向かっていけたのは、そのおかげだろう。

上京して就職
 高校卒業後、伊藤は東京で就職した。国体での活躍ぶりに目をつけた大学関係者も何人かいたが、金銭的余裕のない家庭に育った伊藤は、大学に進学するつもりなど毛頭なかったのだ。(次回へ続く)


Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。

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