「人の驚くようなプレーは、人の驚くような練習やトレーニングからしか生まれない」
1969年世界チャンピオン、伊藤繁雄のこの言葉からは、彼のひたむきさとがむしゃらさがうかがえる。決して平坦ではない伊藤の卓球人生を支えたのは、卓球が自分の生きる証しであるという強い信念と、母への深い愛情だった。【前回の記事を読む】【第1回から読む】
※この記事は月刊卓球レポート2001年7月号を再編したものです
上京して
高校を卒業した伊藤は、就職先を東京のニッタク(日本卓球株式会社)に決めた。卓球のことしか念頭になかった伊藤は、その社名を聞いて勤務時間外には思う存分練習ができると思い込んだ。東京の強い選手と試合ができると、そればかり考えて胸を弾ませていたのだ。
卒業式の前日も在校生が式場準備を始めるまで講堂で汗を流し、式を終えるとその日のうちに列車に飛び乗って東京に向かった。新しい練習場を早く見たいと好奇心の塊のようになっていた伊藤には、新幹線のなかった当時の延々14時間の道のりがもどかしくて仕方がなかった。
ニッタクの本社は上野にあった。案内されて仕事場を見て回りながら、まず練習場を探した。1階のそんなに広くない部屋に、卓球台が1つ据えてあった。
よし、ここで思い切りやれるぞ。
伊藤はにんまりした。
ところが、翌日から伊藤を待っていたのは卓球用品の出荷にてんてこ舞いの生活で、とても練習に励む余裕はなかった。朝は早くから出勤しなければならず、夜は9時までの残業が当たり前だった。そのころの日本では卓球が大流行しており、いくら出荷しても需要が満たせないほど用具の注文が殺到していたのだった。高卒で入社した伊藤は初めのうちは製品の梱包作業が中心だったが、あまりの忙しさにボールの選別にも加わるようになった。
平日の練習といえば、昼食を急いで済ませて1時間弱の休憩から40分程度の時間を捻出するのがやっとだった。着替える時間さえも惜しく思え、午前中はユニホームを着て作業した。また、練習といっても名ばかりで、同僚たちが和気あいあいとピンポンをしている中で、本気でボールを打つことは憚(はばか)られた。せいぜい素振りをして気を紛らわすくらいである。夜は夜で、練習は寮の消灯時刻の10時までと決められていた。9時に寮に戻り、食事と入浴を終えると、もう何もできなかった。しかも20人の社員に対して台はたった1台しかない。思い描いていたのとあまりに異なる生活に、伊藤は戸惑った。
そんな伊藤が生き返ったような気持ちになれるのは日曜日だった。ニッタクチームの代表として実業団の試合に出場することができたからである。これを楽しみに、練習不足を体力でカバーしようと不忍池の周りを走ってトレーニングをした。それでも練習せずに試合に出るだけでは上達は望めない。それどころかランニングや昼休憩の練習だけでは、実力の低下をいかに最小限に押さえるかというほどの意味しかなさなかった。
卓球への飢餓感
卓球がやりたくてもできない欲求不満の日々を過ごす中で、伊藤は自分がどれだけ卓球に執着しているかを思い知らされた。中学、高校時代には味わうことのなかった、切実なまでの卓球への思い入れと飢餓感だった。卓球がやりたい、好きなだけボールが打てたらどんなにいいだろうか。思いは日増しに募っていった。
会社で作業していると、大学の卓球部員が姿を見せることがあった。高校時代、伊藤が国体の準決勝で対戦した梨本も、
「こんにちは、中央大の梨本です。ボールを受け取りにきました」
とやってくる。作業着で仕事に追われる伊藤は、彼らへの羨望(せんぼう)で胸がいっぱいになり、まともに顔を上げることができなかった。大学や職場で順調に卓球を続けられている人には、このやるせなさは理解できないだろうと思った。
このような日々が半年も続くと、次第に諦めの気持ちが生まれてきた。いくら努力しても練習は週に3時間がやっとである。強豪選手とたくさん試合ができるという、上京前に想像していたような生活は望むべくもない。卓球のことは潔く忘れようかと思い始めた、ちょうどそのころである。郷里から電話がかかってきた。次兄だった。
転職
「お前、こっちに帰ってこないか。俺の知り合いの勤めている三菱レイヨンが、今度卓球部を強化することにしたらしいぞ。繁雄をチームにほしいと頼まれたんだ」
思いがけないこの言葉に、伊藤はオウム返しに聞き返していた。
「残業はあるの」
初めての職場の忙しさに懲りた伊藤が真っ先に確認したかったのは、給料や仕事内容よりもまず、残業の有無だったのだ。
「いや、残業はないらしいぞ。勤務は午後5時までだ」
それで伊藤の心は決まった。
次兄が声をかけてくれるまでには、実はそれなりの経過があった。
伊藤は筆まめなたちで、郷里の知り合いに何通も手紙を出し、思うように卓球ができない不満を訴えていた。
強い仲間と好きなだけ卓球ができると勇んで上京したのに、当てが外れた。半年間、できる限りの努力をしてきたがうまくいかない。ボールが打てなくては、毎日の生活に張りが出ず、どうしようもない。いっそのこと卓球は諦めようかと思う。
こんな調子で、中学、高校時代の先生、卓球仲間、学友に書き送りつづけた。書くことで少しでも鬱憤(うっぷん)が晴らせればとの思いからだった。悶々(もんもん)とした思いを何かに向かって発散し、誰かに理解してもらわなければ、自分がどうかなってしまいそうだったのだ。
伊藤の熱意が通じたのだろう。郷里の人々の間で、伊藤のことを気にかける人が次第に増えてきた。
「あいつ、相当悩んでるんじゃないか」
「何とかしてやらないとかわいそうだな」
伊藤が卓球を続けたがっているという噂は、めぐりめぐって三菱レイヨンのキャプテンの耳に入った。折しも三菱レイヨン卓球部は強化方針を打ち出したばかりで、山口県の元高校チャンピオンならば是非にと、トントン拍子に話が進んだ。手紙に託した伊藤の一途な思いが実を結んだといえよう。
三菱レイヨン
会社に辞職願を出し、伊藤は東京を発った。次の就職先は広島の三菱レイヨンである。
練習場には卓球台が4つ備えてあり、部員は10人ほどだった。3交代制で勤務するため同時に練習するのは4、5人だったが、カットや右ペン裏、左ペン表など戦型は多彩で、広島県の実業団の中で常にベスト4以上に入っていた。
毎日5時に勤務を終えてどんぶり飯1杯をかき込むと、伊藤はすぐ卓球場に向かった。練習時間の開始前から台を拭き、ネットの高さを測り、素振りやサービス練習をしてほかの部員が現われるのを待った。やっと好きなだけ卓球ができると思うと、とてもじっとなどしていられなかったのだ。
実力の近い同僚と何度も試合をする中で、ドライブと強打を巧みに組み合わせた伊藤の卓球の型が生まれてきたのは、この時期である。「独特のサービスを出し、ループドライブや速いドライブを仕掛けてチャンスをつくり、スマッシュで決める。レシーブのときでも、フォアハンドから常に先手を取って強打に結びつける」。当時ではまだ新しい卓球スタイルだった。現在では、ラケットスイングが速ければ速いほど、またフットワークの足数が多ければ多いほどよいというのはほぼ定石だが、そのころはそれほど声高に言われているわけではなかった。伊藤は自らの経験から推してこの2点を重視し、速い素振りと細かい足の動きを入れたトレーニングを毎日行った。
実業団としての伊藤が頭角を現し始めたのは、年明けの全日本軟式広島県予選からである。この大会の決勝で、伊藤はそれまでに2度負けていた原田選手(三菱造船)と対戦した。原田は全日本チャンピオンの木村興治選手に勝ったことがある選手で、伊藤がどうしても勝ちたいと思っていた相手だった。伊藤はこの原田に大接戦の末3-2で勝ち、大きな自信を持った。
全日本軟式の本戦は、盛岡で開かれた。伊藤は、優勝候補といわれた水村選手(大日本印刷)を破って準々決勝に進み、再び原田選手に勝って3位に入賞した。
自信につながったもうひとつの試合は、2年目の広島市長旗争奪卓球大会だった。
この大会には、関東学生リーグ1部で優勝していた日本大学卓球部が、招待されてエントリーしていた。個人戦上位入賞者の候補には当然日大の選手の名前が挙げられていたが、ここで三菱レイヨンの選手が波瀾(はらん)を巻き起こした。ベスト8のうち5名を占め、伊藤が優勝したのである。翌日の団体戦ではさすがに奮起した日大に敗れたが、この大会での快挙は伊藤の実力が全国で通用するレベルにまで達していることを証明してくれた。(次回へ続く)
Profile 伊藤繁雄 いとうしげお
1945年1月21日生まれ。山口県新南陽市出身。
1969年世界卓球選手権ミュンヘン大会男子シングルス優勝。
うさぎ跳びが5kmできた全身バネのようなフットワークから繰り出されるスマッシュとドライブの使い分けは球歴に残る。3球目を一発で決める強ドライブ、曲がって沈むカーブドライブなどは伊藤が技術開発し世界に広まった。